西洋建築 基礎

超わかりやすい!【古代オリエント・エジプト建築】ヨーロッパを旅する前に知っておくべき知識

はじめに

RYOです

各建築様式の少し詳しい部分まで掘り下げようという狙いで、今回は古代オリエント・エジプト建築について説明します。

※明言しますが、西洋建築の勉強をしてからヨーロッパに行けば無学で行くより100倍楽しめます。5回にわたってヨーロッパ30ヵ国以上を完全無学で周ってきた僕が言うので間違いありません(笑)

参考文書:【カラー版】西洋建築様式史

↓こちらを前提に話を進めますので、まずはこちらを読んでください↓

西洋建築を理解するための前提概念

記事中の線の色について↓

 超重要なワードは赤線

重要なワードは緑線

一般的な強調は
文の場合:黄色線
単語の場合:太字

で表しています。では始めます。

もし興味があれば先にこちら↓をお読みください、きっと役に立ちますから!

【世界史】キーワードで追う紀元前 ー紀元前3000~前1000年編ー  

古代オリエント建築

ヨーロッパ建築の起源は、たいてい古代ギリシアに求められますが、建築自体は決してそこから始まったものではありません。

そこで本書では導入としてヨーロッパ建築に影響を及ぼした、古代ギリシアを遥かに遡る古代メソポタミアエジプト(後述します)の建築を取り上げています。

メソポタミアは、人類史上で初めて農耕が行われた地域として知られ、神殿建築や人々が定住し営む都市が初めて現れたことでも知られます。

また、エジプトもメソポタミアと比肩しうる建築の歴史をもっており、古代ギリシアへの直接の影響をもたらしたという点では、メソポタミア以上にヨーロッパ建築にとっては重要と言えます。

メソポタミア地域

まずはメソポタミアの位置を確認しましょう。

メソポタミア地域とは、現在のイラク国内に属します↓

メソポタミアとは、ギリシャ語で「2つの川のあいだの土地」を意味し、ここで言う2つの川とはもちろん「ティグリス川」と「ユーフラテス川」を指します。

つまり、ティグリス川とユーフラテス川の間の地域をメソポタミアと呼びます。

メソポタミア地域と建築

まずは軽くこの時代の歴史的な流れを説明します。

メソポタミア地域は世界四大文明の発祥地の一つで、極めて平坦な地域です。

この地では古くから農耕が発達し、その生産力に基づき建築と呼ばれるに相応しいモニュメントと都市が、歴史上最も早く誕生しました。

紀元前7000年頃

この頃から人間の営みが始まる

紀元前6000年頃

最初期の住宅遺構は北部のハッスーナ↓に残されている

紀元前5000年頃

都市の形成や神殿の建設がみられるのは南部の都市エリドゥ↑で、紀元前5000頃まで遡る

紀元前3000年期

この頃には都市の重要な展開が見られる

メソポタミア地域ではこの頃はシュメール・アッカド時代と呼ばれ、ジッグラト(聖塔)が現れるのもこの時期

紀元前3000~紀元前500年

その後「古バビロニア時代」、「カッシート時代」と続き、壮大な都城や大宮殿を建造した古代初の帝国「アッシリア」の時代がおとずれ、壮麗なイシュタル門や空中庭園の建てられた「新バビロニア時代」に至り、「アケメネス朝ペルシア帝国」に滅ぼされた

このように、メソポタミアは豊かで平らな土地という性格から、古くから様々な民族が入り乱れて覇権を競う地域でもありました。

ジッグラト

ジッグラトとは「高い所」を意味し、階段状の建物で「聖塔」とも呼ばれますが、機能的には不明な点が多くあります。

代表的な遺構はウルのジッグラト↑で、ウル第三王朝期、紀元前2100年頃の建造と見られています。

世界史年表でも、ウル第三王朝がメソポタミア南部に存在していたことが確認できます↓

ウルのジッグラトの各部説明

本書にはこのウルのジッグラトの各部の説明が載っていますが、字面だとわかりづらいので下に図で示しました。

» テキストの説明↓

各基部がほぼ東西南北に向けられた矩形(くけい)の平面をもち、規模は第1層が底面62.5m×43m、高さ11m、第2層が底面38.2m×26.4m、高さ5.7mで、壁面は上方へいくにつれ後退し、全体では上面が底面よりも小さい側面が梯形の箱を重ねたようになっています。

» 折りたたむ

ウルのジッグラトを上から見たら↓のようになっています。

控え壁(バットレス)

また、ジッグラトには控え壁が使われています。

控え壁

控え壁(ひかえかべ)またはバットレス (Buttress) は、建築構造の一つであり、建物本体を構成する主壁に対して直角方向に突き出した補助的な壁を作ることで、適切な支柱を持たない屋根の重量によって主壁に生じる横荷重を受け止めて、主壁を支持・補強する役割を果たす。

(引用:Wikipedia

字面ではわかりにくいので、こちらも図で解説します。

まず、建物に控え壁が無いと天井の重さに柱が耐えきれずに崩れる可能性があります↓

これは日常生活でも様々な場面で見ることができます。例えばこれです↓

以前、どこかで強い地震が起こった際に控え壁が無い学校の壁沿いを通学路として歩いていた小学生たちが倒れてきた壁の下敷きになり死亡した、という事件が話題になりました。

控え壁はとても重要な役割を果たしているのです。では、先ほどのウルのジッグラトに付いている控え壁を見つけてみましょう↓

それが、この黄色矢印で示した壁面に付けられた凹凸の凸の部分です。何となくわかりますよね。

煉瓦をただ並べただけでは単調になりがちな外観に、バットレスは陰影のある表情を与えています。

また、底面の各辺や壁体の稜線は中央で膨らみがつけられ、全体は引き締まってみえます。このように、すでに視覚的な補正効果をねらったとみられる表現も見出されていました。

煉瓦(レンガ)

メソポタミアでは建築に用いられる質の良い木材が少なく、最初期は単に泥を塗った練土(ねりつち)が用いられました↓

もちろんこれは超初期です。

次に採用されたのが、現在でもなお使われる日乾煉瓦(ひぼしれんが/にっかんれんが)で、住宅から大きな構築物まで利用され、さらに焼成煉瓦(しょうせいれんが)も使用されるようになりました。

練土:単にが乾いたもの

日乾煉瓦:少々粘り気がある土と砂とを混ぜ合わせたものに水を加えて練り、粘土状になった素材を2~3日ほど天日で乾燥させたもの

焼成煉瓦:日乾煉瓦をさらに焼いたもの

アーチやヴォールト(※)が紀元前3000年期という早くから用いられたのは、こうした材料ゆえであったと考えられています。

※「アーチ」や「ヴォールト」に関してはローマ建築編で詳しく出てきますが、シンプルに「半円とトンネル」と考えてください。

しかし、のちの古代ローマ建築とは異なり、メソポタミアでは型枠を使用せず煉瓦を少しずつせり出すように積んでいく「迫り出し式」のアーチやヴォールト構法が発展し、曲線も正円ではなく放物線を描きます。

ジッグラトのアーチ↓

まあ一応、ローマ建築のアーチを以下に示します↓

西洋建築まとめ

ジッグラトが紀元前2100年に造られたので、ローマ建築のアーチはそれから2500年以上も後に造られたものです。

ペルシア

メソポタミアの東に位置するイラン高原(↓図中黄色)も、メソポタミア同様古い建築伝統をもった地域です。

(イラクの東側の国ですね)

特に、紀元前6世紀後半にメソポタミアから小アジア、さらにエジプトまでを統一したペルシア帝国(アケメネス朝ペルシア 紀元前550-前330)は、優れた建築以降を残しています。

それが、主に紀元前520年頃から前460年頃にかけて造営された帝都ペルセポリスの宮殿です。

宮殿全体は西側約428m、南側約300m、高さが最高で12mの基壇の上に建てられています。

北西側には大階段が設けられており、続いて「万国の門」、謁見の間である「アパダーナ」、「百柱の間」などが配置されています。

(大階段↓)

(万国の門↓)

(アパダーナ↓)

(百柱の間↓)

最も重要とみられる建物はアパダーナで、中央広間(方形で一辺約59m)の三方に列柱廊が付き、広間に立つ円柱は高さが18メートルを超え、頂部には牡牛を背中合わせにした3mほどもある柱頭が載せられていました↓

柱頭(キャピタル)

柱頭とは、柱の頂部に載せられる装飾のこと。

以下、ギリシャ建築編より↓

ギリシャ建築 オーダー

この宮殿は王の住居というより、帝国の象徴で儀式の場であり、帝国各地域の技術と美術を建築的に統合したモニュメントととることができます。

エジプト建築

エジプトも、メソポタミアと同様に世界四大文明のひとつでナイル川流域に展開し、その範囲は幅が10~20kmと狭いものの、長さは1000kmほどに及びます。

人々が生活を始めるのは紀元前5000年紀頃のことで、毎年周期的に氾濫するナイル川を利用した農耕は、エジプトを古代世界で最大の穀倉地帯とし、ここから「エジプトはナイルのたまもの」という言葉も生まれたほどです。

紀元前のエジプトの歴史は主に7つの時代に分けて語られます。

それがこちらです↓(名前を覚える必要はありません)

・先王朝時代(紀元前5000~前2950年頃)

・初期王朝時代(前2950~前2654年頃)

・古王朝時代(前2654年~2145年頃)

・中王朝時代(前2050年~前1786年頃)

・新王朝時代(前1567年~前1085年頃)

・末期王朝時代(前1085~前332年)

ギリシャ建築が発展したのがこの紀元前700~600年くらいから

・プトレマイオス王朝時代(前305~前30年)

・古代ローマ帝国の属領時代(前30年~)

世界の歴史まっぷさんの世界史年表でも確認できます↓

※紀元前3000年以前と紀元前200年以降が表記されていないので「先王朝時代」「初期王朝時代」「ローマ帝国の属領時代」は年表には載っていません。

この時代、建築材料はもともとは日乾煉瓦であり、住宅はやはり日乾煉瓦で作られていました。他方で、モニュメンタルな建物、例えば王墓のピラミッドや王宮などの大構築物石造で建てられるようになり、石灰岩、花崗岩や御影石、砂岩などが用いられていました。

そこで構造的には柱を立て、梁を渡すまぐさ構造が採られ、大建築では梁も石材なので、スパンが短く柱の林立する空間となりました。

スパンが短く柱の林立する空間

僕は西洋建築を勉強するにあたって、あるテキストを買いその内容に沿って勉強をしました。そのテキストでは「西洋建築の基本はギリシャ建築」という前提で説明がなされていたのですが、今まさに「エジプト建築」を勉強してみて驚きました。

これらは、エジプト建築の遺構「ルクソール神殿」や「カルナック神殿」に遺されていたものです。

「西洋建築の大元は古代オリエント・エジプト建築」というのが初めて理解できました。まさに、ギリシャ建築そのものじゃないですか!!!↓(゚д゚)!

ピラミッド

古王朝時代を象徴するピラミッドは、初め階段状の形態から始まり、続いて屈折ピラミッドと呼ばれる稜線が中途で折れ曲がる形を経て、四角錘のものへと展開しました。

と、わかりやすく並べたのですが「いや、そんなんええねん!単独ででっかい写真見せろや」って人のために下に3枚とも載せますね↓

» ピラミッドの種類↓

階段状ピラミッド↓

屈折ピラミッド↓

四角錘ピラミッド↓

» 折りたたむ

この時代、国王と神は同格とみなされ、霊魂の不滅と来世の確信という宗教にもとづき、ピラミッドを築き死体をミイラとして残し、副葬品を伴わせ、そこで、ピラミッドは通常様々な施設とともに一つの複合体を形成していました。

マスタバと階段状ピラミッド

サッカラの階段状ピラミッド複合体は、第三王朝(紀元前2620-前2600)の遺構で、墓廟建築としてはもともとマスタバがありました。

マスタバ

腰掛けを意味するアラビア語で、マスタバとは平面が矩形(くけい)で壁面が上方に向かい内側に傾斜した台状の構築物のこと。

いわゆるこんなん↓

階段状ピラミッドは、いわばこのマスタバを拡張とともに積み重ねていったとみられ、マスタバからピラミッドへの移行過程が示されています。

規模は底面で約121m×109m、高さが約60mです。

この複合体は、階段状ピラミッドに葬祭神殿(北側)や王のパヴィリオンや神殿群、2つの宮殿(東側)などが設けられています。

また柱には、パピルスの花の形をした世界で最初の石像の柱頭が用いられており、これはのちのギリシア古典建築を想起させます。

柱頭(キャピタル)

(既述ですが)柱頭とは、柱の頂部に載せられる装飾のこと。

以下、ギリシャ建築編より↓

ギリシャ建築 オーダー

ギリシャ建築の「コリント式」の柱頭はアカンサスという多年草の葉をモチーフにしているのですが、これもパピルスの柱頭を真似しているととれますね↓

このピラミッド複合体は最古の建築家イムホテップによるものです。

ギザの三大ピラミッド

ピラミッドで著名な実例は、ナイル川の河口付近、下エジプトのギザにある第四王朝(紀元前2545~前2450年頃)の3つのピラミッドです。

ピラミッド

クフ王の第一ピラミッドは最大規模のピラミッドで、カフラー王の第二ピラミッド、メンカウワー王の第三ピラミッドを合わせて、ピラミッドが形式として完成されます。

クフのピラミッド:底辺230.364m、高さ137.18m

カフラーのピラミッド:底辺215.8m、高さ143.5m

メンカウワーのピラミッド:底辺約108.5m、高さ約66.5m

クフのピラミッドは各辺が正しく東西南北を向き、また各辺の長さがほぼ等しく工事の精確さが示されています。さらにピラミッドは東側に葬祭神殿をもち、そこからナイル川まで長い廊下が設けられ、その先に河岸神殿(流域神殿)が建てられていました。

この構成を最もよく残すのはカフラーのピラミッド複合体で、材料は、内部は石灰岩で表面の仕上げは白色石灰岩を張っています。この白色石灰岩は上部から張られていったので、「ピラミッドは上から作られた」と言われ、この後、これほど大規模なピラミッドが構築されることはありませんでした。

ハトシェプスト葬祭殿

ピラミッド以降の神殿建築をみてみると、テーベのディール・アル=バハリーにあるメンチゥヘテプ2世葬祭殿(紀元前2045-前2020年頃)、ハトシェプスト女王葬祭殿(紀元前1490-前1468年頃)では、列柱とテラスを組み合わせた構成が特徴となっています。

※ハトシェプストは古代エジプトで唯一の女性ファラオ。

このうち、ハトシェプスト女王葬祭殿↓は、軸線的構成がより明瞭で、テラスも3段となっており、より壮大な構想がうかがえます。

(↓以下の説明は画像を見ながらお読みください)

列柱廊が前面でその上のテラスを支え、その中央に斜路が設けられて、上段のテラスへ至るという構成で、2段目のテラスを昇ると、前面が4列の列柱廊となっており、その奥に3段目のテラスが設けられており、それに続いて聖所が作られています。

ここでの柱は、断面が十六角形または三十二角形をして柱頭の装飾をもたない形態をとっています。

カルナックのアモン大神殿

これに続く重要な神殿に、カルナックのアモン大神殿↓が挙げられます。

第十八王朝(紀元前1567-前1320年頃)から古代ローマ時代まで建造が行われ、スフィンクス像をならべた参道から、塔門(ピュロン)を通ると列柱廊の囲む中庭、柱を林立させた多柱室が並んでいます。

このように軸線に沿って建物を配置する構成はルクソールの神殿や、

カルナックのアモン神殿の神域に建てられたコンス神殿(紀元前1166-前1004年頃)にもみられます。コンス神殿では、スフィンクスの参道から塔門をへて、前庭、多柱室、聖舟室(舟は太陽神がのって毎日天空を渡ることの象徴)、至聖所が軸線に沿って整然と設けられていました。

こうした円柱は柱頭にパピルスの蕾や花↓、あるいはナツメヤシの葉などをあしらい柱身には線刻が施され太い梁を支持していました。

メソポタミアとエジプト

古代は、社会体制が王を中心とする専制体制で、さらにエジプトで顕著なように、王はすなわち神であり、大規模建造物はその王を象徴する意味を持っていた。建築的構成の目的は、この権力を表象するため実体のもつ力を表現することにおかれてあり、マッス(絵画・彫刻・建築作品において、全体の中で一つのまとまりとして把握される部分)が建築表現の中心となり、建物とその外部空間の関係が構成上重要でした。

エジプトでは数学の発展や抽象化への関心から、ピラミッドのような単純で精緻な造形が生まれました。また、装飾への志向もすでに表れ、さらには建物をより印象的にみせる造形的な工夫(いわゆるリファインメントと呼ばれる、視覚的な矯正法)への意図も認められます。

建築的構成は、軸線の明確な場合(エジプト)もその意識がそれほど強くない場合(メソポタミア)もありますが、全体的に静的で彫刻的な空間構成ということができます。

オベリスク

オベリスクとは、ひとつの石から彫り出された四角い柱で、先は細く、ピラミッド型の四角錘の形をしているものです。

もともとは古代エジプトで太陽神を象徴するもので、エジプトを占領した古代ローマ人はこれをローマに運び、競技場の中央などに立てました。

中世の間は放置され、壊れたり埋まったりしたものも多かったのですが、ルネサンス以降見直されるようになり、バロックの時代になって広場の中心に彫刻と噴水をつくり、オベリスクを立てるというやり方が街づくりの手法として確立します。

やがて近代にかけてパリ、ロンドン、ニューヨークなど各地を飾るためにエジプトからオベリスクが運び出されることになり、現在エジプトには5本しか残っていません。

(↓世界各地のオベリスク)

アメリカのワシントン記念塔などこの形を採った記念建造物も多く、明治以降の日本では軍人の墓石にこの形をしたものがあります。

おわりに

ということで、古代オリエント・エジプト建築が終わりました。

基本的にはテキストに忠実に進めていますが、わかりにくい箇所は自分で調べて書き足している部分もあります。

古代オリエント建築は、「軸線」にあまり重きを置いていないのに対し、エジプト建築は「軸線」に重きを置いており、その「軸」という概念が次のギリシャ建築やローマなどでも重視されています。

次はギリシャ建築です、頑張りましょう!

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