世界遺産1級取得に向けて、「世界史」の必要性を感じ始めた今日この頃です。
今日のテーマは「オリエント文明」です。

そう思われるかもしれませんが、それが誤解だったと理解して頂けると思います。

オリエントの動向(紀元前500~前27年)
さて、全オリエントを統一した「アケメネス朝ペルシア」がマケドニア王国に敗れ、代わってマケドニア王国がオリエントを統一しますが、後に3つに分かれ、ローマ帝国が強大化していく時代の説明です。

前回までのあらすじ(紀元前3000~前500年)
メソポタミアの歴史

平坦な土地柄から色んな民族が簡単に入り込めるので、
メソポタミア地域はめちゃくちゃ争いが多かったんですよね~
現イラクを流れるティグリス・ユーフラテス川流域に興ったメソポタミア地域には、シュメール人の都市国家が数多く生まれ、徐々に「メソポタミア文明」として発展していきました。
アッカド人がシュメール人の都市国家を滅ぼし勢力を拡げますが、そのアッカド王朝も滅亡し、同地域に侵入したアムル人がつくった都市国家の一つ、古バビロニア王国(バビロン第一王朝)の6代目の王ハンムラビがようやくメソポタミアを統一しました。

ハンムラビ法典で有名なあのハンムラビ
え、ここで!!!?
古バビロニア王国も、優れた武器を持つヒッタイトやカッシートによって滅ぼされ、ミタンニ王国やエジプト新王国も侵入するなどメソポタミアは大混乱でした。
世界遺産1級取得に向けて、「世界史」の必要性を感じ始めた今日この頃です。今日のテーマは「メソポタミア文明」です。読者わかる気がしね~そう思われるかもしれませんが、それが誤解だったと理解して頂けると思います[…]
エジプト地域の歴史

エジプトではナイル川流域にエジプト文明が興り、メネス王がエジプトを統一しました。
エジプトでは、古王国時代に多くのピラミッドが造られますが、異民族ヒクソスにより混乱し滅亡、再び中王国時代を迎えますが、さらに再びヒクソスに支配されて滅亡しました。

アフモスがヒクソスを追い出しエジプトは新王国時代を迎え、トトメス3世の時代に領土が最大になり、アメンホテプ4世(イクナートン)の時代には宗教改革を行いアマルナ美術が生まれますが、結果的に大混乱になったのでツタンカーメンが元に戻したりと、徐々に衰退していきます。
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オリエント地域の歴史

そんな大混乱のオリエント地域でしたが、アッシリアのアッシュール=バニパル王が全オリエントを統一しますが、圧政のために滅亡。
4王国分立時代を迎えますが、とうとうアケメネス朝ペルシアの最強3代↓
・初代キュロス2世
・2代目カンビュセス2世
・3代目ダレイオス1世
が全オリエントを統一し、長く繁栄することになります。
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諸ポリス対ペルシア(前500~前479年)
紀元前500年、アケメネス朝ペルシア(=ペルシア帝国)に支配されていた地方のミレトスというポリスが反乱を起こし、アテネがこれを支援したため、ペルシアが3回にわたって(後述します)ギリシアに侵攻し、ポリスとの間で戦争になります↓

ポリスとは小さな独立した都市国家のことでしたよね。
さて、ここからペルシア帝国とギリシアの三度の戦いが始まります↓
➀マラトンの戦い(前490年)~アテネ勝利~
こんな平民あがりの重装歩兵の集まりが↓
ペルシア帝国に勝利したんですって(笑)
このとき勝利を伝えるためにアテネまで走ったのがマラソンの起源とされています。
②サラミスの海戦(前480年)~アテネ勝利~
ペルシアはクセルクセス王自身が出陣し、レオニダス王率いるスパルタ軍をテルモピレーで全滅させ、アテネに上陸して占領する。

しかし、サラミスでテミストクレス率いるアテネの海軍に敗れる。
③プラタイアの戦い(前479年)~アテネ勝利~
ペルシアはアテネ・スパルタ連合軍に敗れ、ギリシア側の勝利が確定する。
デロス同盟(前478年)
ペルシア戦争後、アテネを中心とした約200のポリスは、再びペルシアが攻めてきた時に備えてデロス同盟を結成しました↓
アテネでは、軍船の漕ぎ手であった「財産をもたない市民」の発言権が強まり、ペリクレスは青年男子に参政権を与え、彼らが参加する民会を国の最高議決機関としました。
これによってアテネの民主政治が完成し、アテネは全盛期を迎えます。
ペロポネソス戦争(前431~前404年)
しかし、デロス同盟によってアテネは事実上、他のポリスを支配する形になり、それに反発するポリスがスパルタを中心にペロポネソス同盟を結成すると、両者の間にペロポネソス戦争が起こります。
アテネではペリクレスの死後、デマゴーグスと呼ばれる扇動家による衆愚政治に陥り、この戦争で敗北します。
このデマゴーグスが「デマ」という言葉の由来とされています。
しかし勝利したスパルタも、テーベ(エジプト)との戦いに敗れます。
こうした戦乱によってギリシアの主要な産業である農業は荒廃し、ポリスは衰えていきます。
マケドニア対アケメネス朝ペルシア(前331年)
紀元前4世紀後半、ギリシア北方にあったマケドニアの王フィリッポス2世は、ポリスが対立して争っていたギリシアに侵攻、カイロネイアでアテネ・テーベ連合軍を破ります。
ポリスはマケドニアの支配下に入りますが、王は暗殺されてしまいます。
息子のアレクサンドロス大王は全ギリシアを制圧し、ペルシアに遠征します。
イッソスの戦いで、ダレイオス3世率いるペルシア軍に勝利、フェニキアを滅ぼし、さらにエジプトを支配下に置きます。

アルベラでのペルシアとの最後の決戦にも勝ち、アケメネス朝ペルシアは滅亡しました。
アレクサンドロス大王はその後、インダス川を越えてインドへ渡り一大帝国を築きますが次のインド編でマケドニア王国とインドの戦歴を語ります。
しかしインドからの帰途、33歳の若さで亡くなります。
アレクサンドロスが、エジプトやインドまで勢力を伸ばしたことにより、その土地にはギリシア人が定住し、やがてギリシアの文化が東方の文化と融合し、ヘレニズム文化が生まれました。
イプソスの戦い(前301年)
アレクサンドロス大王の死後、彼の後継者達はアレクサンドロス帝国再統一を望むアンティゴノスに対し、
・マケドニアのカサンドロス
・アナトリアのリュシマコス
・シリアのセレウコス
の3者はそれに従わず、
アンティゴノス VS 反アンティゴノス連合軍
がイプソスで衝突しました。
イプソスの戦い(ディアドコイ戦争)では、セレウコスがインドのマウリヤ朝から贈られた500頭の象部隊を使って勝利したと言われています(後述します)
結果、アンティゴノスは戦死し、マケドニア帝国は以下の3つ↓
プトレマイオス朝エジプト
セレウコス朝シリア
アンティゴノス朝マケドニア
に分かれました。
アルサケス朝パルティア(前248~後226年)
さあ、では年表中の西アジアに注目すると、イランやメソポタミア地域を支配していたセレウコス朝シリアからアルサケス朝…(切れててすみません)アルサケス朝パルティアに変わっています。

アレクサンドロス大王の死後、イラン高原、中央アジアはセレウコス朝シリアの支配下に入ります↓
(地図中、濃紫色の範囲ですね)
しかし広大過ぎて統制がきかず、中央アジアではギリシア人の国家バクトリア(↑地図中黄緑)が独立、イラン高原ではアルサケス朝パルティア(↑地図中ピンク)が興ります。
さて、だいぶややこしくなってきましたが大丈夫ですか?
大体の地図を下に示しましたのでご確認ください。
パルティアは紀元前2世紀には、メソポタミアからアフガニスタン、西北インドまで広がる一大帝国となりました。
パルティアとローマ帝国は前1世紀から後3世紀のあいだ、たびたび衝突を繰り返します。
この記事の総まとめ
では最後にこの記事の内容をザックリおさらいしておきたいと思います。

➀紀元前500年、オリエントを統一した最強のペルシア帝国に支配されていたポリスが反乱を起こし、それを支援したアテネとの間で三度の戦争が起こります。
この三度の

②ペルシア戦争後、アテネを中心とした約200のポリスが「デロス同盟」を結成しペルシアとの再戦に備えましたが、主導権を握ったアテネへの反発から逆にアテネを除いたポリス同士で「ペロポネソス同盟」を結成し、両者の間でペロポネソス戦争が起きました。
③結局この戦争でアテネは敗れ、かと言って勝利したスパルタもテーベとの戦いに敗れたりと・・・
こうして、ギリシアの主要な産業である農業は荒廃し、ポリスは衰えていきましたとさ。
④さーてそんな中(前331年)、ギリシア北方にあったマケドニアのフィリッポス二世がポリスに侵攻し、アテネ・テーベ連合軍を破り、その息子のアレクサンドロス大王は全ギリシアを制圧し、ペルシアに遠征しました。
とにかく、アレクサンドロス大王すごい!!