黄河文明の歴史 古代中国

黄河文明~紀元前3000-前1000年~

古代文明その①黄河文明

古代文明

これは古代中国のお話です

黄河文明

上の画像を見ると、紀元前3000~前1000年の間には

「竜山文化」「殷」

という2つの文字しかありません。しかし、実は竜山文化以前のことも説明する必要があるので、少しだけ頑張りましょう。

黄河文明前半「仰韶文化」(前5000~前3000年)

中国では、紀元前5000年頃に黄河の中流・下流域の肥沃な黄土地帯で農耕が始まりました。

これを黄河文明と言います。

黄河文明

(中国の二大河川といえば、北の黄河と南の長江ですね)

黄河文明は、使用された土器によって、前半の仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)と後半の竜山文化(りゅうざんぶんか)に分けられます。

上の年表には、黄河文明後半の竜山文化から載っていますね

仰韶文化は、文様のある彩色土器「彩陶(さいとう)」が使われていたので、彩陶文化とも呼ばれます。

彩陶

(彩陶)

仰韶文化の特徴

この頃の人々は、小さな集落をつくり、アワなどを栽培していました。

また、犬や豚を飼い、竪穴式住居に住んでいたと考えられています。

黄河文明後半「竜山文化」(前3000~前2000年)

竜山文化は、薄手で黒い光沢のある「黒陶」や、つくりの荒い「灰陶」が使われていたので、黒陶文化とも呼ばれます。

黒陶

(黒陶)

竜山文化の特徴

この頃には稲作や、牛・馬の飼育が始まりました。

動物の骨を使った占いも行われていたようです。

住居は高床式です。

伝説の王朝『夏』が興る(前2000?~前1600年?)

(ヨッシーの卵みたいですみません)

この時代、小さな集落は城壁で囲まれた邑(ゆう)と呼ばれる集落に発展し、邑はやがて都市国家に成長していきます。

中国の歴史書は、こうした都市国家を統合した(か)が中国最初の王朝を開いたとしています。

が実在したかどうかは不明で「伝説の王朝」とされてきましたが、最近になって夏の都の跡と考えられる遺構が発掘されました。

伝説の王

中国の歴史書によれば、夏以前に(ぎょう)・(しゅん)・(う)という3人の王がいました。

3人は血縁関係にはありませんでしたが、堯は舜に、舜は禹に位を譲りました。

このような平和的な王朝交代を禅譲といい、儒教では理想的であると称えられ、堯・舜・禹は徳の高い聖王とされています。

禹が興したのが『夏』で、その夏を滅ぼしたのが次に紹介する殷(いん)の湯王とされています。

夏から殷へ(前1600~前1000年)

紀元前1600年頃に、禹が都市国家を統合して建国した(いん)の湯王に滅ぼされます。

「殷」は別名「商」とも呼ばれます。

殷の都の遺構である殷墟(いんきょ)からは、住居跡や王の墓のみならず、数多くの亀の甲羅や動物の骨が発見され↓

甲骨文字

そこに刻まれた甲骨文字が現在の漢字の原型です。

その後、殷はに滅ぼされます。

殷王朝の特徴

亀の甲らに刻まれた甲骨文字は占いに使われました。

殷では、王が甲骨文字で吉凶を占い、その結果に基づいて政治が行われました(笑)

こうした祭政一致の政治を神権政治といいます。

では次に紀元前1000~前500年までの黄河文明の歴史を説明していきます↓

黄河文明~紀元前1000-前500年~

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