黄河文明その後
これは古代中国のお話です
画像が見えにくくてすみません、黄色で囲まれた範囲(紀元前1000~前500年)には「周(西周)」「春秋時代」「東周」と書かれています。
説明を聞けば理解できると思いますが、「東周」と「春秋時代」は同時代で並行して進んでいます。
前回までのあらすじ(紀元前5000~前1000年)
紀元前5000年~前4000年頃に中国の黄河流域で発展したのが黄河文明で、仰韶文化と竜山文化に分けられます。
小さな集落はやがて邑(ゆう)と呼ばれる大きな集落、そして都市国家に成長していきます。
中国の歴史書では、こういった都市国家を統合したのが夏で、徳の高い3人の聖王『堯・舜・禹』の禹が興したとしています。
その夏を滅ぼしたのが、殷の湯王で、殷時代の遺跡「殷墟」からは漢字の原形となる甲骨文字が見つかっています。
殷から周へ(前1000~前770年)
では、ちょうど紀元前1000年あたりで時代は周(西周)の時代に移ります。
周(しゅう)は現在の西安あたりに興った勢力で、周は初めは殷に遣いを送り外交関係をもっていましたが、徐々に勢力を増し殷と対立するようになります。
周は文王のときに殷に進撃、その子の武王のときに殷を倒します。
これを「殷周革命」と呼び、殷の最後の王は紂王(ちゅうおう)と呼ばれる暴君でした
周王は諸侯に土地を与えて統治させ、諸侯は周王に対して軍役と税を納める義務はあるものの、それぞれが独立して領地を治める形をとっていました。
これが周の封建制度で、周は都を鎬京(こうけい)(現在の西安付近)に定めました。
周の都は鎬京(こうけい、現在の西安付近)でしたが、ここが西から侵入してきた犬戎(けんじゅう)の手に落ち、周の平王は東方の洛邑(らくゆう、現在の洛陽)に遷都します。
西方から東方に遷都したので、これを東遷といいます。
鎬京の時代は西周、洛邑に移ってからは東周と呼ばれます。
年表を見たらわかりますが、西周の時代はおよそ220年ほど続きました。
» 西周が上手くいかなかった理由は狼煙(のろし)を濫用したから?
余談ですが、伝説によると、西周の王(幽王)が褒姒(ほうじ)という笑わない妃(きさき)をなんとか笑わせようとして、間違えて兵乱の合図の狼煙を上げたら、「これは一大事!!」と軍勢が集まった。でも何事もないので右往左往。それを見て妃が笑った。以来幽王が妃を笑わせるために何もないのに狼煙を上げ続けていたら、ついには皆の信用を無くして内乱が起こったというのです。
» 折りたたむ
春秋時代(前770~前403年)
洛邑に都を移した後(東周時代)、周の力はどんどん衰え、代わって実力のある諸侯が争うようになります。
しかし周王は王としてまだ尊敬されており、有力諸侯は覇者↓と呼ばれました。
この時代を春秋時代といいます。
覇者には
斉(せい)の桓公(かんこう)
晋(しん)の文公(ぶんこう)
越(えつ)の勾践(こうせん)
呉(ご)の夫差(ふさ)
楚(そ)の荘王(そうおう)
秦(しん)の穆公(ぼくこう)
宋(そう)の襄公(じょうこう)
などがいます。
この後、周王の権威を無視して諸侯が本格的に争う「戦国時代」が訪れます。(が、この回では話しません)
西周時代は周王が中国を統一していた時代、東遷してからは名目上は東周が中国を統一していたが、実際は覇者と呼ばれる有力諸侯がしのぎを削っていた時代、と言えます。
なので「春秋時代」と「東周」が並列しているのです!(ー完ー)
諸子百家
春秋・戦国時代のような乱世には有能な人材や時代にふさわしい思想が求められ、諸子百家(しょしひゃっか)と呼ばれる数多くの思想や学派が生まれました。
※「諸子」とは学者、「百家」とは思想を指します。
例えば、前551年頃に生まれた孔子を祖とする儒家の思想は、親への「孝」、兄弟への「悌(てい)」を根本とする『仁』によって社会秩序が保たれるというもので、孔子が残した言葉や言行録を記した「論語」などが有名です。
その他にも、
性善説を説いた儒家の孟子
性悪説を説いた儒家の荀子
兼愛と非攻を説いた墨家の墨子
老荘思想を説いた老子・荘子
法家を説いた李斯(りし)や韓非(かんぴ)
などが活躍しました。
この後中国には戦乱の時代、いわゆる戦国時代が訪れます。