【徹底解説】「オーストリア=ハプスブルク家」の歴史

この記事を読むのにかかる時間: 4

カール六世(1711年-1740年)

Embed from Getty Images

フェルディナント二世から次の話題はカール六世に移ります。神聖ローマ皇帝としては

フェルディナント二世(1637死去)
→レオポルト一世(1705年死去)
→ヨーゼフ一世(1711年死去)
→カール六世(1740年死去)

となっており、またしても全員がハプスブルク家の人間です。

プラグマティッシェ=ザンクティオン(1713年)

カール六世の最大の業績は「プラグマティッシェ=ザンクティオンの制定」でした。

は?(´・ω・`)ぷらぐまてぃ・・・

わかります、全く意味がわかりませんよね?ってかサラっと言う事すら難しいですよね。でも大丈夫、わかりやすく説明します!

カール六世には跡継ぎの男子がいませんでした(長男は若死した)、いたのは長女マリア・テレジアでした。

何か聞き覚えありますよね?マリア・テレジア・・・そう女帝マリア・テレジアです!!

ってことは・・・?

そうです、プラグマティッシェ=ザンクティオンとは

別に後継者は男子じゃなくてもいいよね。女子でも素質があれば皇帝になってもいいっしょ?

という(当時の感覚からすれば)とんでもない事を定めた法律ですが、列強各国はこれを認めました。

※だって跡継ぎがいなければ国がそのまま他国に吸収されるんですよ?親戚のスペイン=ハプスブルク家が統治していたスペイン王国は実際に跡継ぎがおらずフランスのものになっちゃいました。そりゃ男子の跡継ぎが産まれなきゃ焦るでしょ。

神聖ローマ皇帝だけは選帝侯の投票で決まるので、マリア・テレジアは神聖ローマ皇帝には選ばれず、ハプスブルク家の歴代記録は一度ストップします(しかしまたすぐに返り咲きます(笑))

オーストリア継承戦争(1740年-1748年)

中東戦争 イスラエル アラブ

さあ、もう説明しなくてもわかると思います。

オーストリア継承戦争とは、オーストリア王位継承権をめぐって争われた国際戦争です。(スペインより短めです

今回もフローチャートで説明していきます

【1740年】神聖ローマ皇帝カール六世死去

プラグマティッシェ=ザンクティオン発動によりマリア・テレジアが全ハプスブルク領を継承する

マリア・テレジアがオーストリア大公、ボヘミア女王、ハンガリー女王に即位する。

※神聖ローマ皇帝には選ばれず

プロイセン王国のフリードリヒ二世がマリア・テレジアにシュレジエンを要求、戦争が始まる(=オーストリア継承戦争)

※シュレジエンは大地が肥沃なので農業&牧畜が盛ん、しかも石炭&鉄鋼&亜鉛などの地下資源も豊富なので歴史上で常に紛争の中心だった地域

※30年戦争後、ドイツの領邦はそれぞれが主権国家に成長したので「プロイセン王国」

オーストリア大公国 VS プロイセン王国

イギリスがオーストリアを支援し、フランス・スペインがプロイセンを支援する

※両者一歩も譲らないデッドヒート

【1742年】バイエルン選帝侯自らがカール七世として神聖ローマ皇帝になる

※「皇帝を選ぶ諸侯」が勝手に名乗りを上げた状態

【1745年】マリア・テレジアの奮闘で夫君フランツ一世が正式に神聖ローマ皇帝に選ばれる

※ハプスブルク家がまたしても神聖ローマ皇帝に

※神聖ローマ帝国の実権を握っていたのはマリア・テレジア

【1748年】アーヘンの和約によりオーストリア継承戦争終結

※マリア・テレジアの王位継承と夫君フランツ一世の神聖ローマ皇帝即位が認められた

※シュレジエンはプロイセンに奪われた

プロイセンとオーストリアが水と油の関係に

※以降マリア・テレジアはシュレジエン奪還とプロイセンへの復讐に燃える

シュレジエンは奪われたものの、マリア・テレジアは富国強兵を謳ってオーストリアの国力回復を行っていく

※後にシュレジエン奪回を目指して七年戦争を起こすが取り返せなかった

外交革命と七年戦争(1756年-1763年)

Embed from Getty Images

オーストリア継承戦争で(事実上)敗北したマリア・テレジアは1756年に宿敵であるフランスのブルボン王朝と同盟を結びます(=外交革命)

今までずっと仲の悪かった宿敵『ブルボン王朝』とです。

なぜなら今ドイツには「プロイセン王国」という、オーストリア=ハプスブルク家ですら油断できない大国がいるからです。しかもオーストリア継承戦争でシュレジエンという重要な領地を奪われてしまったので余計です。

では七年戦争をフローチャートで説明しましょう。

【1748年】オーストリア継承戦争終結

※シュレジエンをプロイセン王国に奪われる

オーストリアはドイツ諸邦やロシアと同盟結成

※戦争になった時のために仲間を増やすのが目的

【1756年】オーストリアは宿敵フランスと同盟結成

※外交革命

【1756年】フランスの宿敵イギリスがプロイセン王国と同盟結成

※フランスとイギリスは植民地争奪戦をしていたので。「敵の敵は味方」理論

【1756】プロイセン王国が機先を制してオーストリア領に侵入

七年戦争の始まり

プロイセン王国は初めは勝っていたが、フランスが本格介入し負け始める

プロイセン王国、国家存亡の危機

【1762年】ロシアがオーストリアを裏切ってプロイセン王国と和解し、再び形勢逆転

※うおおおおい!!!!ロシアーーーーー

【1763年】パリ条約でフランスが戦線離脱

※フランスはイギリスとの植民地争奪戦に負け、北アメリカの広大な領土をとられた(イギリス第一帝国の始まり)

【1763年】フベルトゥスブルク条約を締結し七年戦争終結

※プロイセン王国はシュレジエンの領有を正式に認めさせた

※七年戦争は後に「アメリカ独立戦争」や「フランス革命」を起こす契機になった。

※しかしオーストリアはハンガリーやボヘミアなど中欧の広大な領土を維持し、ヨーロッパの大国としての国際的な地位は守った。

フランス革命勃発(1789年)

もう有名過ぎる革命ですが、1789年にフランス革命が起きました。

そこで国王夫妻(ルイ16世とマリー・アントワネット)がギロチンになりましたよね、超有名な話ですが。

マリー・アントワネット、ルイ16世と結婚(1770年)

Embed from Getty Images

さて、少し時を戻します。

マリー・アントワネットはマリア・テレジアの娘で、15歳の時に政略結婚として宿敵フランスのルイ16世と結婚させられました。

しかし政治などに口出しするマリー・アントワネットは宮廷内でも「オーストリア女」と陰口を言われていたらしく

ふん、田舎娘が…

とあまり好かれていなかったようです。

確かに当時のパリは並外れて豪華だったので、(パリに比べれば田舎の)ウィーンから嫁いだマリー・アントワネットは礼儀や作法などを覚えるのに非常に苦労していたようです。
※またアントワネットは宮廷内仮装パーティーでかなり奔放な性生活を営んでいたようです♡

オーストリア ハプスブルク家
最新情報をチェックしよう!