石見銀山 世界遺産

【石見銀山遺跡とその文化的背景】~中世に世界の銀の3分の1を産出した産業遺産~

はじめに

RYOです。

このシリーズでは世界遺産検定1級合格のために、まずは日本の世界遺産を全て勉強しようという企画です。

今回は「石見銀山遺跡とその文化的背景」についてです。

石見銀山遺跡とその文化的背景(2007年登録)

島根県の山間にある『石見銀山遺跡とその文化的景観』は、16~17世紀初頭にかけて発展した銀山と、その周辺の景観を含めた文化遺産です。

間歩(まぶ)

遺産には、間歩と呼ばれる小規模な手掘りの坑道や鉱山、集落や役所など、銀の生産に直接関わる「鉱山と鉱山街」、銀鉱石や物資を運搬する石見銀山街道などの「街道」、銀の積出港であった鞆ヶ浦(ともがうら)沖泊(おきどまり)温泉津(ゆのつ)などの「港と港街」が登録されています。

また、豊富な遺跡群は豊かな自然と共生しており、銀鉱山に関係する独特な土地利用を示す文化的景観となっています。

灰吹法(はいふきほう)

14世紀初頭に大内氏によって発見されたといわれる石見銀山は16世紀に発展期を迎え、この地に銀の鉱脈があることを知った博多の商人神屋寿禎(かみやじゅてい)が朝鮮半島から呼び寄せたふたりの技術者によって、新しい製錬技術「灰吹法」が伝えられました。

灰吹法とは、銀を含む鉱石から不純物を取り除いて銀を効率よく取り出す技術のことです。

銀の産出量

灰吹法の導入などによって、良質な銀の大量生産が可能になった石見銀山の産出量は増加の一途をたどり、最盛期の17世紀初頭には年間約40tの銀を産出し、これは当時の全世界の1/3に相当する量でした。

戦国時代には大内、尼子、毛利氏の間で石見銀山の領有をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられましたが、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康がここを接収して直轄地とし、奉行を置きました。

銀は幕府の重要な財源の一つだったのです。

江戸時代の鎖国政策により、海外で発展した新技術の導入が遅れたことで、結果的に伝統的な鉱山開発の技術を示す遺構が残されることになりました。

『石見銀山遺跡とその文化的景観』の主な構成資産

銀山柵内(ぎんざんさくのうち)

採掘から選鉱・製錬・精錬まで銀生産の諸作業が行われた場所。

龍源寺間歩、清水谷精錬所跡、石銀(いしがね)遺跡、清水寺、唐人屋敷跡などがある。

龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)

江戸時代中期につくられた大規模な間歩。

約600mの坑道が残っており、入口寄りの273mは見学することもできる

熊谷家住宅(くまがいけじゅうたく)

大森銀山の街路に面して建つ建築物の中で最大の町家建築。

34の部屋を備え、重要文化財に指定されている。

代官所跡(だいかんしょあと)

17世紀から19世紀、江戸幕府が役人を派遣し、石見銀山とその周辺の150余村を支配。

瓦葺平屋の表門、その左右の門長屋が、1800年の大火の後に再建。

羅漢寺五百羅漢(らかんじごひゃくらかん)

銀山の安泰を願いつくられた信仰関連遺跡。

岩盤の斜面に3カ所の石窟が穿たれ、中央窟に三尊仏、左右両窟に250体ずつの石造羅漢坐像がある。

温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりみち)

全長約12km、温泉津(ゆのつ)、沖泊(おきどまり)が頻繁に利用された16世紀後半に整備された。

比較的なだらかな起伏で、途中の西田で温泉津と沖泊に分かれる。

鞆ヶ浦(ともがうら)

銀山開発の初期16世紀前半に、国際貿易港博多へ銀鉱石や銀を積み出した港。

急傾斜地に形成された港湾集落の様相が、全体としてよく保持されている。

温泉津(ゆのつ)

沖泊に隣接。

沖泊の外港であり、銀山及び周辺地区支配のための政治的中心地。

木造建築群が江戸時代の町割りの中に良好に保存されている。

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