オリエントの統一 ~メソポタミア文明・エジプト文明その後~
前記事でもオリエントという範囲を説明しましたが、少し復習します。
「オリエント地域」を言葉で説明すると
『メソポタミア・西アジア・小アジア・エジプトを含む地域』
と言えます。
(。´・ω・)?
だと思うので、地図で説明します↓
この色の付いている範囲がよく言われる「オリエント地域」です。前回はエジプトだけ別項で書きましたが、本記事ではオリエントを統一するアッシリアやアケメネス朝ペルシアが出てきますので、今回はエジプトを含めた全オリエント地域視点で世界史を追っていきます。
さて、前置きが長くなりましたが、これからオリエントの動向↓を見ていきましょう。
今回の範囲はこちらです。注目は、紀元前650~600年くらいにオリエントを統一したアッシリア(年表中ピンク)と、前500年頃からグレー1色に染まっているアケメネス朝ペルシアです。
前回までのあらすじ(紀元前3000〜前1000年)
紀元前3000~前2700年頃、ティグリス・ユーフラテス川流域にメソポタミア文明が、エジプトのナイル川流域にはエジプト文明が興りました。
【メソポタミア地域】
メソポタミア地域ではシュメール人が都市国家をつくってウル第1王朝などを建てましたが、アッカド王朝のサルゴン王に滅ぼされ、と思ったらグチ人にアッカド王朝が滅ぼされて、再びシュメール人の都市国家がウル第3王朝として復活しましたが、遊牧民アムル人によって滅ぼされました。
そのアムル人がつくった王国の一つ、古バビロニア王国(バビロン第1王朝)の6代目の王ハンムラビが前1700年前後にメソポタミア地域を統一しましたが、史上初めて鉄製の武器を使用したヒッタイトやカッシート、ミタンニ、エジプト新王国など様々な王国の中で滅亡し、メソポタミア地域は混乱の時代を迎えます。
そして紀元前1450年頃、ミタンニ王国の中の一勢力アッシリアがミタンニ王国から独立しました。
【エジプト地域】
一方、エジプトを統一した初代メネス王時代からエジプトは繁栄し、エジプト古王国時代にはピラミッドやスフィンクスが建てられましたが、遊牧民ヒクソスの侵入で滅亡、そのヒクソスを追い出して新たに建てたのがエジプト中王国、しかし再びヒクソスにより滅亡し、逆にヒクソスにエジプトを支配されました。
しかし、さらに再びヒクソスを追い出したアフモスがエジプト新王国を建て、トトメス3世の時に繁栄を極め、この時代にパレスチナやシリアにまで侵出しました。
その後、アメンホテプ4世(イクナートン)が宗教改革を行い写実的なアマルナ美術が生まれますが、そのためにエジプトは大混乱。その後のツタンカーメン王が宗教を元に戻しますが、それからエジプトは衰退の一途をたどります。
軍事大国アッシリア(前1450~前612)
オリエント(メソポタミア・西アジア・小アジア・エジプトを含む地域)では、アッシリア人が、紀元前2000年初めにティグリス川中流にアッシュール↓という都市を建設しました。
↑画像を見てもわかる通り、エジプトやヒッタイトやカッシート、ミタンニなどの台頭により、オリエント地域が混乱しています。
アッシリア人は鉄製武器や馬車を用いた強力な軍事力をもっていたので、徐々に勢力を拡げていきます↓
前7世紀前半に、アッシュール=バニパル王はエジプトをも征服し、史上初めて全オリエントを統一します。
彼は首都ニネヴェに世界最古の図書館をつくりました。
実は王は、異民族統治や敵を攻める際の戦略を練るために、相手を知るための文献を収集して研究したのです。
しかし、アッシリアは統治の仕方が良くなかった!
戦争のときに大虐殺を行い、征服した民族を強制移住させ、また重い税を課すなど圧政を行ったため、征服した各地で反乱が起こり、統一から100年も経たない前612年に滅びます。
アケメネス朝ペルシア(前550~前331)
アッシリア滅亡後、オリエントはエジプト、新バビロニア(カルデア)、リディア、メディアの4つに分かれます。
ユダヤ人に対してバビロン捕囚を行ったのが、新バビロニアのネブカドネザル2世です。
前550年頃、ペルシア人がアケメネス朝ペルシアをつくり、キュロス2世はメディア、新バビロニア、リディアを滅ぼします。
また、カンビュセス2世はエジプトを征服し、全オリエントを統一します。
3代目のダレイオス1世は、インドへ遠征し、インダス川からエジプトに渡る大帝国↓をつくります。
ダレイオス1世は「王の道」をつくり駅伝制度を整えたほか、征服した民族に対しては寛容な政策をとったのが特徴です。
きっと、初めてオリエントを統一したたものの圧政により滅亡したアッシリアの二の舞になりたくなかったんでしょう