【世界史】インドの古代~近代までをわかりやすくまとめました

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世界遺産1級取得に向けて、「世界史」の必要性を感じ始めた今日この頃です。

今日のテーマは「インドの古代~近現代史」です。

一緒に頑張りましょう!

では始めます

インダス文明とアーリヤ人の文化(B.C.2300〜B.C.700)

都市国家をもつ高度な文明が途絶え、アーリヤ人によってカースト制の基礎ができる

・インダス川流域に、都市計画をもった高度な文明が存在した

・アーリヤ人が侵入し、ガンジス川流域まで進出

・カースト制度につながる身分制度が成立 

計画的につくられた都市

インドでいちばん古い文明は、紀元前2300年頃インダス川の流域に興ったインダス文明とされています。その代表的な遺跡が、ハラッパーとモヘンジョ=ダロ↓です。

(モヘンジョダロ)

これらの遺跡に宮殿などが見当たらないため、インダス文明には専制的な王権が存在しなかったことが推測されています。

インダス文明の最大の特徴は、計画的に設計されたと考えられる都市です。

碁盤の目状になった舗装道路に沿って下水道設備をもつ住宅、倉庫や作業場などが整然と建ち、遺跡の中心にある大浴場は沐浴の場となっていたと推測されます。

こうした建造物の材料は、規格統一された焼き煉瓦です。

遺跡から出土した粘土板や印章には文字が書かれていますが、まだ解読されていません。そのため、なぜこのような高度な文明が滅びたかは不明です。

異民族の侵入、あるいは焼き煉瓦をつくるために森林を伐採し、それによって砂漠化し、川が氾濫したこと、などが原因と考えられています。

アーリヤ人の宗教

前2000年頃には、中央アジアからやってきた、アーリヤ人がカイバル峠を越えてパンジャーブ地方に定住し、部族国家をつくります。

彼らは農耕や牧畜を行い、自然を崇拝していました。ヴェーダはサンスクリット語で書かれた神々への賛歌です。

宗教的な祭礼などは、バラモンと呼ばれる聖職者が行い、彼らが社会の最上位の階級となります。アーリヤ人がガンジス川方面へも進出していくにともない、他の3つの階級も成立します。

バラモン教

自然を神と崇め、ヴェーダを聖典とする宗教。

バラモン(聖職者)たちが、自らの特権的な地位を維持するために複雑な儀式をつくりだし、それを独占的に行いました。

これがヴァルナ(種姓)で、カースト制度の起源です。

時代が下るとともに身分はより細かく、複雑なジャーティ(身分)となっていきました。

ヴァルナの他に、パーリア(不可触民)と呼ばれる人たちも多数います。身分制は差別につながり、現在でもインドの社会に影を落としています。

※ジャーティ(身分)は世襲制で、異なるジャーティ同士の結婚は認められていません。現在のインドでは身分制度は否定されていますが、現実には根強く残っています。
日本の「えた」「ひにん」に由来する「部落」と同じような感じですね・・・

ジャイナ教と仏教の誕生(B.C.700〜B.C.549)

第2、3階級が経済力をもち、2つのアンチ・バラモン教の宗教が生まれる

・バラモン教の哲学書『ウパニシャッド』

・ヴァルナ(種姓)を否定するジャイナ教

・人類は平等とする仏教

哲学書とジャイナ教

バラモン教は、儀式を中心とする宗教でしたが、それに飽き足りずに真理を探究する人たちが現れます。

超絶身分差別のバラモン教を否定して、新たに2つの宗教が生まれます↓↓

彼らの思想をまとめたものがウパニシャッド(奥義書)です。これはインド哲学の源流となります。

※ウパニシャッドの思想では、生き物は死んでも新しく生まれ変わり、それが永遠に続く。この輪廻を断ち切って解脱するためには、修行によってブラフマン(宇宙の根本原理)とアートマン(我=自我)が一体化した境地に至ることだとするのがウパニシャッドの考え方。輪廻や解脱の考え方はインド思想の原点

紀元前600〜前500年頃になると、ガンジス川流域に都市国家が数多く生まれます。

これらの国が戦争をしたり、交易を行ったりするようになると、クシャトリヤやヴァイシャが社会的、経済的に力を持つようになります。

また、こうした時代の中からヴァルナを否定する新しい宗教が生まれました。

その一つがジャイナ教です。

開祖はクシャトリヤのヴァルダマーナ(尊称はマハーヴィーラ)

苦行や徹底した不殺生が特徴で、特にヴァイシャの支持を得ました。

仏教の誕生

もう一つが仏教です。

シャカ族の王子ガウタマ=シッダールタ(尊称は仏陀)が開祖です。

彼は、この世のものは一時も同じでないという無常感のもとに、欲望を捨てて無我の境地に至れば心の平安が得られること、八正道を行えば人生の四苦から解脱できること、悟りの道は誰にも平等に開かれていることを説きました。

仏教は、クシャトリヤやヴァイシャの間に広がります。

マウリヤ朝のアショーカ王(B.C.600〜B.C.180)

インドに誕生した統一国家によって、仏教が広まる

・マガダ国でジャイナ教と仏教が保護される

・マウリヤ朝がインドを統一

・アショーカ王が仏教を保護する

マウリヤ朝の成立

ガンジス川流域に数多く生まれたアーリヤ人の都市国家のうち、コーサラ国とマガダ国の2つが強大となり、やがてマガダ国がコーサラ国を併合します。

マガダ国ではジャイナ教、仏教が保護されました。

紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の軍がインドへも侵入しますが、兵士たちがそれ以上の進軍を拒み、インダス川で引き返します。

アレクサンドロス軍を迎え撃ったのが、チャンドラグプタです。

※古代のインドでは歴史を記録することは行われていなかったので、釈迦の生没年なども明らかではありません。そんな中で唯一、チャンドラグプタはいつ頃の人かがはっきりしています。彼がセレウコス朝シリアと戦い和睦したことなどが、ギリシア人メガステネスの書いた『インド誌』に記されているからです。

彼はこの機に乗じてマガダ国などガンジス川流域の都市国家を征服し、インドに残ったギリシア人を追い出し、統一国家を築きます。

これがマウリヤ朝です。

チャンドラグプタはさらに、侵入してきたセレウコス朝シリアもしりぞけ、インダス川まで領土を広げます。

アショーカ王の仏教保護

マウリヤ朝は前3世紀、アショーカ王のときに全盛期を迎えます。

王は仏教に深く帰依したことで知られ、第3回の仏典結集(仏教の編集)を行ったほか、仏教を伝えるために王子をスリランカへ派遣したと伝えられています。

※シャカの死の直後、彼の教えを正しく伝えるために、弟子たちが集まって確認し合ったのが第1回仏典結集。その後、仏教が広まるにつれて分かれていった教義や解釈を統一したり文字に残したりするために行われたのが第2回以降

また、ダルマ(法、真理)に基づく政治理念をかかげ、これを洞窟に刻ませたり(磨崖碑)、石柱に刻ませて(石柱碑)各地に建立しました。

※アショーカ王はダルマ(法)に基づき政治を行い、仏典結集やスリランカへの布教活動、石柱碑などの建立、病院建設や道路、灌漑施設の整備を行ったらしいです

しかしアショーカ王の死後、マウリヤ朝は弱体化し、分裂します。

インドの王朝とガンダーラ美術(B.C.100〜240)

南のサータヴァーハナ朝と北のクシャーナ朝で、仏教が発展

・サータヴァーハナ朝が南インドを統一する

・クシャーナ朝はカニシカ王のとき全盛を迎える

・ギリシア文化と仏教が融合したガンダーラ美術

南インドの王朝『サータヴァーハナ朝』

マウリヤ朝滅亡後、北インドは混乱の時代となりますが、南インドではドラヴィダ族によるサータヴァーハナ(アーンドラ)朝が成立し、1世紀の初めに、北インドへも領土を広げます。

この国は、インド洋の季節風を利用したローマとの海上貿易で栄えます。インドからは宝石、木綿、香料などが運ばれ、ローマからはガラスや金貨・銀貨がもたらされます。

サータヴァーハナ朝では仏教が信仰され、数多くの仏教遺跡が残されているとともに、バラモン教も復興し、これがヒンドゥー教の成立につながります。

クシャーナ朝と大乗仏教

1世紀になると北インドでは遊牧民の月氏民族がクシャーナ朝を興し、アフガニスタンから西北インドを支配します。

※月氏民族はモンゴル高原の西南部から中央アジアにかけて活躍した民族だが、詳細は不明

全盛期は3代目カニシカ王のときです。彼もまた熱心に仏教を信奉し、第4回の仏典結集を行いました。

この頃、出家・修行で個人の解脱を目指す従来の仏教(小乗仏教)に対して、仏の教えによってすべての人が救われるとする大乗仏教が生まれます。

※「小乗仏教」という呼び方は差別的であるとして禁止されています。

南インド出身のナーガールジュナ(竜樹)は、大乗仏教の理論を確立した人物として知られています。また大乗仏教では、仏になるために修行中の菩薩に対する信仰を伴うのが特徴です。

ガンダーラ美術の誕生

クシャーナ朝の領土であるアフガニスタンから中央アジアにかけては、アレクサンドロス大王の東征以降ギリシアの文化が根付いていました。そこに仏教がもたらされ、この2つが結びつき、仏像が造られるようになります。

このギリシア彫刻による仏教美術は、ガンダーラ美術と呼ばれます。

大乗仏教の広まりとともに、仏陀の像や菩薩像が多数つくられ、中国や日本へももたらされました。

※仏像はギリシアの文化と出会って初めて生まれたもので、ガンダーラ美術の仏像は「巻き毛」「高い鼻」といったギリシア人風の容貌が特徴です。
視覚的な信仰の対象ができ、仏像はインド以外の土地での布教に大きな役割を果たしました。

この顔はどこからどう見てもアジア人ではない・・・( ゚Д゚)

グプタ朝とヒンドゥー教(230〜645)

インド文化が復興してグプタ美術やヒンドゥー教が生まれる

・グプタ朝で、インド文化が花開く

・インド的なグプタ美術が生まれる

・ヒンドゥー教が確立しインド人の宗教となる

インド文化の復興

クシャーナ朝はカニシカ王のあと分裂し、代わってチャンドラグプタ1世が、グプタ朝を興します。

※前出のマウリヤ朝を興した「チャンドラグプタ」とは違います!!グプタ朝を興したチャンドラグプタ1世は「チャンドラグプタ」を理想としていたからそう名乗ったのだとか・・・

3代目のチャンドラグプタ2世は、北インドを統一しグプタ朝の領域を最大にします。

グプタ朝では、インド人の民族意識が高まり、インド文化が復興します。

サンスクリット(梵(ぼん)語)で書かれたインド文学が黄金時代を迎え、叙事詩である「マハーヴァーラタ」「ラーマーヤナ」が完成し、カリダーサは戯曲「シャクンタラー」を書きました。

数学や天文学も発展し、十進法やゼロの観念がつくられました。

また、仏教の研究機関であるナーランダー僧院がつくられたのもこの時代です。

美術ではギリシア風のガンダーラ美術とは異なるインド的なグプタ様式が生まれました。これは、アジャンター石窟寺院の壁画やエローラ石窟寺院の仏像として残されています。

(インド的なグプタ様式)

インド人の宗教『ヒンドゥー教』

この頃、バラモン教をもとに、仏教や民俗信仰を取り入れたヒンドゥー教がインド各地に広まります。

ヒンドゥー教はシヴァ、ヴァイシュヌ、ブラフマーの3神を主神とする多神教で開祖や教義はありません。

2世紀に成立した「マヌ法典」は、バラモンの優位性を強調し、ヴァルナ(種姓)に基づく生活規範をまとめたものです。

まだ究極の身分差別制度「ヴァルナ」やってたんかい!!!なんで復興させたんや

ヒンドゥー教はインド人の宗教として、その信仰は現在まで続きます。

一方、仏教はこの時代にインドを出て、その周辺の地域に広がっていきます。

ヴァルダナ朝から分裂の時代へ

グプタ朝は中央アジアの遊牧騎馬民族エフタルの侵入により衰え、代わってハルシャ=ヴァルダナが、ヴァルダナ朝を開きます。

三蔵法師として広く知られる唐の玄奘は、この時代にインドを訪れてナーランダー僧院で学んでいます。

ヴァルダナ王の死後、王朝は滅び、以降インドは長い分裂の時代となります。

インドのムガル帝国(1526~1679)

北インドにティムールの子孫バーブルがイスラム王朝を開く

・ガズナ朝、ゴール朝がインドに侵入

・インドに5つのイスラム王朝が開く

・ティムール帝国崩壊後、北インドにムガル帝国が繁栄

5王朝デリー=スルタン時代

インドは、10世紀にガズナ朝、12世紀にゴール朝が侵入したことで、イスラム化します。

インド最初のイスラム王朝は、ゴール朝の武将アイバクが建てた奴隷王朝です。以降4つの王朝を含めデリー=スルタン朝と呼ばれます。

一方、南インドではヒンドゥーの伝統を守るヴィジャヤナガル王国が海上貿易で繁栄していました。

ムガル帝国の繁栄

16世紀になると、中央アジアを拠点にしていたティムールの子孫バーブルが、デリーを占領してムガル帝国を建国、第3代のアクバルが、アフガニスタンから北インドを統一します。

※ここから、アクバル帝の偉大さをお伝えします

アクバルは、敵対していたヒンドゥー教徒のラージプート族と姻戚関係を結んで和解し、またイスラム伝統のジズヤ(非イスラム教徒に課す人頭税)を廃止するなど、ヒンドゥー教徒との融和を図ります。

また、土地を測量し、貨幣の統一、税制の整備を行いました。さらに、全国を州・県・郡に分けて中央から派遣した官吏に治めさせるなど、帝国繁栄の基盤をつくります。

第5代シャー=ジャハーンは、亡くなった王妃のためにタージ=マハル廟↓を建てたことで有名です。

第6代のアウラングゼーブは、外征によってデカン高原を支配下におき、帝国の領土を拡大しましたが、そのために財政は悪化します。

※父が重病との報せが入った時にアウラングゼーブは都を離れており、このままでは自分以外の3人の兄弟が皇帝になると焦り、すぐに都に帰り父を監禁し、他の兄弟を全員抹殺して第6代皇帝になった、らしい・・・

彼は熱心なスンナ派で、ジズヤを復活したりヒンドゥー教寺院を破壊するなどしたため、ラージプート族が抵抗、シク教徒も反乱を起こし、マラータ族はマラータ国を建ててムガル帝国に対抗します。

※アウラングゼーブ皇帝は、ヒンドゥー教だけでなく、イスラム教以外の宗教(仏教やジャイナ教)も否定した

※イスラム教徒は大きく2つの宗派に分けられ、イスラム教徒の9割を占める「スンナ派」と、イスラム教徒の1割で構成される「シーア派」があります

こうしたことから、ムガル帝国はアウラングゼーブの死後、衰退します。

インドの植民地化(1744~1877)

各国が東インド会社を設立。イギリスの独占状態になるが、反英感情から民族運動が活発化

・プラッシーの戦いを契機にイギリス支配が本格化

・民族運動が勃発するもイギリスに鎮圧される

・ヴィクトリア女王がインド皇帝即位を宣言

東インド会社設立

16世紀に建国したムガル帝国は第6代のアウラングゼーブの死後に衰退し、宗教対立や地方の反乱で統一を失いつつありました。

そんな中、17世紀初頭にイギリス・オランダ・フランスが東インド会社を設立し、盛んに商業活動を行います。中でもイギリスは中国市場開拓を目指す一方で、インドの植民地化にも積極的でした。

※「東インド会社」はイギリス国営会社ではなく、商人が組織したあくまでイギリス国王の特許状によって貿易独占権を得ただけの民間会社

1757年、イギリス東インド会社軍はプラッシーの戦いを契機にフランス勢力をインドから追い出します。

※各国の東インド会社の当初の目的は領土侵略ではなく、あくまで香辛料貿易の利益。なのに、結局はフランスとイギリスが戦争に。何してんだ・・・

ムガル帝国の支配は名目的になり、イギリスのインド支配が本格化しました。

※フランスを追い出す前後から、イギリス東インド会社は徐々に徴税権や行政権をもつ、インド統治を行う機関に変質する

しかし19世紀初めに、イギリスの産業資本家は自由主義貿易を要求。東インド会社は貿易独占権を放棄します。

その後、東インド会社は商業活動そのものを停止しますが、事実上インドの統治者となりました。

シパーヒーの反乱

イギリスによって綿産業を壊滅させられたインドでは、反英感情が高まり、1857年には東インド会社のインド人傭兵たち(シパーヒー)が武装蜂起しました。

これがシパーヒー(セポイ)の反乱です。

※反乱軍は(当時すでに名目的な存在になっていた)ムガル帝国の皇帝を担ぎ上げ、反乱に正当性を与えた。反乱に参加したのは傭兵だけでなく、民衆も多かった。

このことがきっかけとなって、北インド全域で大規模な反乱が起こりましたが、イギリスによって鎮圧されます。

※結局、反乱軍は軍隊を増強した東インド会社に鎮圧され、ムガル帝国皇帝も捕えられましたとさ・・・

この結果、ムガル帝国は滅びました。

さらにイギリスは支配を強め、混乱を避けるため東インド会社を解散させて、直接統治に乗り出します。

1877年にはイギリスのヴィクトリア女王がインド皇帝即位を宣言しました。

このインド帝国は1947年まで続きます。

ここまでのまとめ

ではここまでの流れをもう一度おさらいしたいと思います。

【前2500~前1800年】

インダス文明

代表的な遺跡がハラッパーとモヘンジョダロ

【前1500年頃】

アーリヤ人がインドに定住

前2000年頃にパンジャーブ地方に定住し、次第に南下した

【前1200~前1000年頃】

最古のヴェーダ『リグ=ヴェーダ』が成立

自然を崇拝する「バラモン教」が成立する

【前1000年頃】

アーリヤ人がガンジス川流域に進出

この頃からバラモン教にヴァルナ(カースト制)が成立する

【前10~前7世紀】

ジャーティ(身分)が形成される

異なるジャーティ同士の結婚は認められない

【前700年頃】

ウパニシャッド哲学が生まれる

儀式中心のバラモン教と違い、真理を探究した者たちがまとめたものがウパニシャッド

【前600~前500年頃】

ガンジス川流域に都市国家ができる

これらの国が戦争や交易を行い、クシャトリヤやヴァイシャが社会的・経済的に力をもつ

【前563年頃(または前463年頃か)】

ガウタマ=シッダールタが生まれる

人生の四苦と八正道、言わずと知れた仏教の開祖

【前549年頃(または前468年頃か)】

ヴァルダマーナが生まれる

徹底した不殺生主義、言わずと知れたジャイナ教の開祖

【前6世紀~前5世紀】

マガダ国が興る

マガダ国がライバルのコーサラ国を併合し、仏教やジャイナ教を保護する

【前477年頃】

第1回仏典結集

シャカの死後、彼の教えを確認するために弟子たちが集まって確認し合った

【前377年頃】

第2回仏典結集

仏教が広まるにつれて分かれていった、解釈や教義を統一したり文字に残したりした

【前317年頃】

チャンドラグプタがマウリヤ朝を興す

マケドニアのアレクサンドロス大王の軍を迎え撃ったチャンドラグプタが興したのがマウリヤ朝

【前268年頃~前232年頃】

アショーカ王

マウリヤ朝は、王子をスリランカへ派遣するなど仏教に深く帰依していたアショーカ王の時に最盛期を迎える

【前244年】

第3回仏典結集

仏教を手厚く保護したアショーカ王の時に

【前180年頃】

マウリヤ朝滅亡

アショーカ王の死後、マウリヤ朝は弱体化し、その後分裂した

【前100年頃】

サータヴァーハナ朝の全盛期

マウリヤ朝滅亡後に混乱の時代となった北インドとは異なり、南インドではドラヴィダ族がサータヴァーハナ朝を興した。バラモン教を復興したのがヒンドゥー教の成立につながった

【45年頃】

クシャーナ朝が成立

遊牧民の月氏民族がクシャーナ朝を興し、アフガニスタンから西北インドを支配する

【130~170年?】

カニシカ王

クシャーナ朝は、熱心に仏教を信奉した3代目のカニシカ王のときに全盛期を迎えた

【150年頃】

第4回仏典結集

ちょうどこの頃、出家・修行で個人の解脱をめざす従来の仏教(小乗仏教)に対して、大乗仏教が生まれ、ガンダーラ美術も誕生する

【180~240年頃】

ナーガールジュナ

南インド出身のナーガールジュナ(竜樹)は、大乗仏教の理論を確立した人物

【230年頃】

サータヴァーハナ朝滅亡

はい、滅びました。以上

【250年頃】

クシャーナ朝滅亡

カニシカ王の死後、クシャーナ朝は分裂する

【320年頃】

グプタ朝成立

クシャーナ朝に代わって、偽チャンドラグプタ1世がグプタ朝を興す

【376~415年頃】

チャンドラグプタ2世

3代目のチャンドラグプタ2世は北インドを統一、グプタ朝の領域が最大になる。この頃にヒンドゥー教が成立する

【550年頃】

グプタ朝分裂

グプタ朝は中央アジアの遊牧騎馬民族エフタルの侵入により衰え分裂する

【606年】

ヴァルダナ朝成立

グプタ朝に代わって、ハルシャ=ヴァルダナがヴァルダナ朝を開く

【612年】

ハルシャ=ヴァルダナ王が北インドを統一

です。以上

【629~645年】

玄奘のインド旅行

三蔵法師(玄奘)は、この時代にインドを訪れてナーランダー僧院で学ぶ

【647年~】

ヴァルダナ王の死後、王朝は滅び、以降インドは長い分裂の時代に入る

【962~1186年】

ガズナ朝

ガズナ朝はトルコ系のイスラム王朝で、イスラム勢力が初めてインドに進出した

【1148~1215年】

ゴール朝

ガズナ朝を滅ぼし、度々インドに進出し、イスラム教の布教に努めた。ナーランダー僧院を破壊し、インドにおける仏教の繁栄を終わらせた。部下のアイバクが北インドに奴隷王朝を建てて独立した

【1206~1526年】

デリー=スルタン朝

「奴隷王朝」を始まりとし、5つの王朝が代わる代わる成立する

【1526~1858年】

ムガル帝国

バーブルがムガル帝国を建国、第3代アクバル帝がヒンドゥー教徒との融和やジズヤの廃止などを行い帝国繁栄の基礎をつくる

【1600年初め】

インドに東インド会社設立

イギリス・オランダ・フランスがインドに東インド会社を設立し、徐々に利権でもめ始める

【1757年】

プラッシーの戦い

イギリス東インド会社がフランス勢力をインドから追い出し、イギリスが本格的にインドの支配を始める

【1813年】

東インド会社のインド貿易の独占権が廃止

イギリス東インド会社の商業活動が停止

【1857年】

シパーヒーの反乱/セポイの反乱

東インド会社のインド人傭兵たちが武装蜂起し、ムガル帝国滅亡につながった

【1877~1947年】

インド帝国が始まる

ヴィクトリア女王がインド皇帝即位を宣言

おわりに

さて、いかがでしたか?

僕もようやく、インドの現在のカースト制度の根源を理解することができました。

『ヒンドゥー教』は世界三大宗教には入っていませんが、実際の信者数はキリスト教・イスラム教に次ぐ世界第3位です。

インドに旅行する際には、そういう宗教的な戒律なども理解したうえで入国されることをお勧めします(←自分自身に言っている)

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