さて、世界の常識ともいえる宗教の中でも、とりわけ存在感の強いイスラム教について見ていこう。
ニュースでは頻繁に名前を聞くが、その中身については「なんとなく知っている気がする」止まりの人も多いのではないだろうか。
今回はそのイスラム教の開祖、ムハンマドの生涯を追っていく。
とはいえ、難解な神学論争や専門用語に身構える必要はない。むしろ彼の人生は、一人の商人が神の啓示を受け、時に迫害され、時に大逆転を果たしながら歴史を動かしていく、かなりドラマ性の高い物語である。
正直に言えば、「宗教の話=眠くなる」というイメージはここで一度捨ててほしい。
なぜならムハンマドの人生は、静かな瞑想だけで終わるタイプではなく、亡命あり、戦いあり、交渉ありと、下手な歴史ドラマよりもよほど展開が激しいからである。
少し肩の力を抜いて、「一人の男がどうやって世界を変えたのか」という視点で読んでいただければ十分である。
気づけばイスラム教が、ただの“遠い宗教”ではなく、ぐっと身近に感じられるはずだ。
イスラム教の開祖『ムハンマド』
王家など由緒ある家柄の出身だったり、幼い頃から神童として有名だった人物を除けば、誕生から記録がしっかりと残っている人などまずいない。
イスラム教の創始者であるムハンマドの場合も、有名になるのは神の声を聴く中年になってからなので、それまでの生涯についての記録はあまり残っていない。
ムハンマド誕生 (570年?)
まず誕生にまつわる話として、彼(ムハンマド)を妊娠中、母アミーナが、
という声を聞いたという話が残っている。
無宗派のわたしは「いやいやいや。絶対後付けやん。」と笑ってしまったが、信じるか信じないかはあなた次第だ。
こうしてムハンマドは、アラビア半島で繁栄していた都市メッカで生まれた。
メッカは現サウジアラビアの一都市
ムハンマドの明確な成年については不明だが、西暦570年前後と推定されている。
名門部族だが普通の人生
彼の家柄は名門部族だったが、父アブドッラーは彼の誕生前に亡くなり、母も6歳の時に亡くなってしまっている。
そこで、祖父に育てられたわけだが、その祖父もまた亡くなり、叔父のもとで暮らすようになった。
ムハンマドの一族は商人で、彼も隊商貿易に携わるようになる。
その隊商の仕事の中で知り合ったのが、裕福な女性ハディージャでした。
彼女は当時40歳前後で、ハディージャ自身も実業家だった。
25歳の青年ムハンマドは、ハディージャに最初は商人として見込まれ、やがてふたりは結婚する。
それから15年ほど歳月が流れ、ムハンマドとハディージャの間には三男四女が生まれていた。
(三男四女って、、、この時代にしては多すぎひんか?ハディージャ、かなり頑張ったな。)
ここまでの彼の生涯は、色々な苦労があったとはいえ、「普通の人」としてのものである。
奇跡もなければ伝説もない。
ところが610年、ムハンマドの運命、そして世界史を大きく変える出来事が起きる。
ムハンマド、預言者になる (610年)
その頃、既にムハンマドは瞑想に入ることが多く、山ごもりを習慣にするようになっていたのだが…。
ある日のこと、その瞑想の最中に、突然体を締めつけられ、何者かの声を聞いたのだ。
その声の主というのが、大天使ガブリエルである。
ガブリエルは一言、
と言った。
ムハンマドは苦しみながら
と尋ねると、啓示が下ったのである。
この瞬間からムハンマドは神の声を聞き、それを人間に伝える預言者(よげんしゃ)となったのだ。
布教を開始する
さて、ここから預言者ムハンマドの物語が始まっていく。
ムハンマドは突然、神の啓示を受け預言者となったわけだが、それに一番驚いたのはムハンマド自身だった。
そんなムハンマドを励ましたのが、妻のハディージャだった。
彼女が最初に、それが神の啓示であると信じたのである。
それからの3年ほどの間に、従兄弟や友人もムハンマドの教えの信者となっていった。
このように、当初の布教の対象は身近な人々に限られていたのである。
それでも皆が信じてくれることに自信を得たムハンマドは、本格的に布教活動を開始する。
当初は激しく弾圧される
そうして新興宗教として目立った活動を開始すると、既存の宗教との間に軋轢が生じ始める。
メッカの権力者たちは、ムハンマドの教えの中の偶像崇拝の禁止など、それまでの慣習を否定する内容を容認できず、弾圧し始めたのである。
この時代のメッカでは多神教信仰が盛んで、多くの神殿があり様々な信者が訪れる宗教都市でもあった。
また、メッカは隊商貿易の中継地点として、商業都市としても栄えており、人とモノとお金の集まる街だった。
そうなるとどうしても貧富の差が拡大していくが、ムハンマドの教えは
全ての人は平等である
という内容だったので、ある種の社会改革運動の意味合いも含んでおり、権力者たちは一種の危険思想ととらえ、激しい弾圧の対象としたのである。
聖遷 (619年)
619年になると、ムハンマドは妻と有力な後ろ盾であった叔父を亡くしてしまう。
迫害はより厳しくなり、ムハンマドはメッカを引き払い、北西400kmほどにあるメディナに向かった。
メディナは当時ヤスリブと呼ばれていた。
この移住を聖遷(せいせん=ヒジュラ)と呼び、ムハンマドがメディナに到着した西暦622年7月16日がイスラム歴であるヒジュラ歴元年の元旦となっている。
メディナに落ち着いたムハンマドは、預言者の役割を超え、政治家・軍事指導者としての役割を兼ねるようになっていく。
さて、ここからムハンマドの好戦的で恐ろしいエピソードが連続していく。
ウンマ結成
当時のメディナでは「アウス族」と「ハズラジ族」という2つの部族が暮らしており、互いに仲が悪かった。
さらに、ユダヤ教徒も加わり、三つ巴の状態となっていた。
なんとそこにムハンマド達も加わったのである。
アウス族 VS ハズラジ族 VS ユダヤ教徒 VS イスラム教徒
トンデモナイ争いになりそうだが、ムハンマドは各勢力を調停し町全体をひとつの共同体(ウンマ)とする協定を結ばせたのだ。
その基本となったのが、
- 相互扶助
- 協力関係
の考え方だった。
それまで血縁で結ばれていた部族社会を、信仰を土台にしたひとつの社会に変革したのである。
この信仰共同体をウンマと呼ぶ、オソマではない。
こうしてムハンマドはメディナの人々をイスラム教徒とし、次にメッカをどうするかを考えた。
メッカで権力を握っているのは、多神教の神々を雑居させて祭るカーバ神殿を守護するコライシュ族だ。
あいつらが、自分たちの権威や利権が脅かされるとして私を迫害し、故郷メッカから追い出したのだ。許さん!
しかしコライシュ族もバカではない、当然こう考える。
あのムハンマドがメディナで成功しウンマを結成しただとおぉぉ!!
やられる前にやらなければ。
こうした動きをつかんだムハンマドは先手を打つことにした。
コライシュ族に打撃を与えるには、彼らの隊商を襲うのが効果的で、しかもメディナは隊商が通過するルート上にあったのである。
メッカ入城 (630年)
西暦624年、戦いは始まり、コライシュ族の隊商はイスラム軍に襲われ、大打撃を受けた。
コライシュ族は軍勢1000人で反撃し、その当時のイスラム兵は300人しかいなかった。
両者が激突したのはバドルという土地で、このバドルの戦いでムハンマドの軍は3倍もの敵を蹴散らし大勝利をおさめた。
しかし翌年のウフドでの戦いは引き分けとなり、さらにその2年後のハンドク戦役でようやくイスラム軍は勝利した。
軍事的勝利を背景に、ムハンマドは630年に遂にメッカに入城することができた。
ムハンマドは多くの神々が雑居するカーバ神殿に参拝すると、祭られている偶像を次々に破壊し、
「真理が来て、虚偽は消えた」
と叫んだと言われている。
その時のムハンマドの様子、わたしの脳内ではハッキリと高解像度で再生されている。
イスラム教は偶像崇拝禁止ですよー?w
なんだこの偶像まみれの神殿はあああぁぁぁぁ!!!!
つまり、今まで地元民が信仰していた全ての宗教を否定し、崇拝の対象の像を「偶像崇拝禁止」の名のもとに全て打ち壊したのである。
あな恐ろしや。
ムハンマド逝去 (632年)
ムハンマドの完全勝利を知ったアラビア半島の各部族は次々とイスラム教に改宗し、半島は統一された。
だが、彼にはもはや時間が残されていなかった。
メッカ占領後も、メディナで暮らしていたムハンマドは、死期を悟りメッカへ巡礼を行った。
このときに連いていった信徒は12万人とも言われ、「別離の巡礼」とも呼ばれている。
そして西暦632年、ムハンマドはメディナで亡くなった。
40歳で神の啓示を受けてから22年、62年の生涯だった。
イスラム教の経典
では次の記事ではイスラム教の経典について説明しよう。
イスラム教の聖書は「クルアーン」である。
コーランに書かれている内容は全て「ムハンマドが神から預かった言葉」なので、つまりムハンマドの口から出た言葉が聖書に書かれているのである。
そんなお話だ。
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