実は物語になっていた?『般若心経』を徹底解説【前編】

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先日、芸人の笑い飯哲夫さんが書いた「笑い飯哲夫訳 般若心経」を買いました。

この本を買った理由は僕が比叡山高校出身だからだと思います。

筆者
これも因縁ですね(笑)

余談ですが比叡山高校では毎日般若心経を唱えます。

僕の母校の比叡山高校は仏教系の高校で、毎日朝礼で般若心経とかいうわけのわからないお経を全校一斉に朗読する儀式があります。

3年間毎日です。

入学から半年後には誰もが、紙が無くても暗唱できるようになっていましたし、在学中には山の上でお坊さんの修行を泊まりで体験するという必須科目もありました。

※例年、修行しているお坊さんの罵詈雑言・厳しい修行に耐えられずキレて途中放棄して下山する奴がいます。

そいつらは留年確定です(笑)

そんな般若心経の意味を知りたいと、高校卒業から10年弱経って突然思い立ち購入を決意しました。

※本書では、ブログには書かない方が良い表現も多いのである程度文言を変えて解説していきます。

目次

般若心経とは

般若心経とは仏教の経典の一つで、いわゆる

葬式などでお坊さんがなんの抑揚もなくひたすら唱え続けるアレ

です。

POINT

わずか262文字の漢字ですが、実はこの中に仏陀が言いたかった教えが全て書かれています。

それに般若心経を訳していくと、ちゃんとお話(ストーリー)になっているのです。

いやー面白いですよ~

これは観自在菩薩(かんじざいぼさつ)という人が喋った内容を誰かが記録したものだからです。

筆者
なので仏陀が話した内容では無いのですが、観自在菩薩は仏陀の教えを正確に受け継いでいるのでイコール仏陀の教えと思ってもらってもいいです。

ではこれから訳す般若心経を以下に記します。

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智、亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罜礙、無罜礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
般若心経

です。

(ヾノ・∀・`)ムリムリムリムリ

はい、気持ちはわかります。

が、笑い飯哲夫さんと共にゆっくり意味を理解していきましょう。

筆者

般若心経を理解するうえで最も重要なこと、それは

これは物語だ!

と常に頭に置いておくことです。

でないと、ただの「古文訳」になり、非常にハードタイムになります(笑)

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時

まず最初の14文字ですが、これは

「観自在菩薩」が「行深般若波羅蜜多」の「時」

となります。

いわゆる「前振り」で、まだ観自在菩薩が話した内容の記録ではありません。

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)とはいわゆる「観音さん」のことで、仏陀とは別の人です。

仏陀が他のことで忙しいから代わりに観自在菩薩が喋っているんです。

菩薩には「真理を求めて修行する者」という意味があります。

ランク的には真理を悟った者を意味する「仏(ほとけ)」または「如来(にょらい)」の一つ下です。

読者
そんな中途半端な奴で大丈夫か!!?

と思いますが、菩薩には更に

「真理を悟っているにもかかわらず、苦から逃れようとしている者すべてが救われるまで仏にならない者」

という深い意味もあり、観自在菩薩は後者の菩薩なのでやはり相当スゴイ人なんです!

という事で、観自在菩薩が人物の呼び名だということがわかりました。

「行深般若波羅蜜多」に移ります。

行深(ぎょうじん)

行深(ぎょうじん)の

行は「修行」

深は「度がスゴイ」

=スゴイ修行

という事です。

深い眠りとか言いますもんね。

なので「行深」はスゴイ修行という意味です。

般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)

般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)は超特殊なタイプです。

結論から言いますと、この「般若波羅蜜多」は音写なんです。

元のサンスクリット語の発音をそのまま漢字に直しているんです。

ヤンキーの「夜露死苦(よろしく)」みたいな感じです。

先の「行深」では、サンスクリット語の意味を漢字に変換してたのに、今回はサンスクリット語の発音を漢字に変換しました。

なぜか?

この部分がとても重要だったので、その文章をそのまま伝えたかったからです。

この部分、サンスクリット語では「プラジュニャーパーラミター」と言い、「はんにゃー」とは少しだけ違いますがインドの方言で地方によっては「パンニャー」と言うらしく、そっちを音写したとか言われています。

この「プラジュニャーパーラミター」の意味を簡単に言うと知恵の完成です。

つまり「絶対的真理への到達」です。

具体的に言うと「世の中の真理を悟る」で、もっと具体的に言うと「この世の中がどうなっているかということが分かり、煩悩から解放されている」です。

時(じ)

そして時(じ)です。

これはそのまま「とき」です。

この文の訳

という事で、この14文字ですが

観自在菩薩という人が、知恵を完成させるスゴイ修行をしていた時

です。

筆者
始まりからしてストーリっぽいですね(笑)

照見五蘊皆空度一切苦厄

では次の11文字にいきましょう。

これは、

「照」らし「見」た。なにを?「五蘊皆空」だと。それで「度」した。なにを?「一切苦厄」を

と読みます。

照見(しょうけん)

まずは照見(しょうけん)の状況を考えてみましょう。

夜家に帰ってくると部屋の中は真っ暗です。

電気を付けると机の上に母親のストッキングが置いてあるのを発見しました。

しかし電気で照らさなかったらストッキングは発見できず、目がだんだん暗闇に慣れてきた時に初めて「ストッキングかな?」と考えるわけですよね。

はっきりストッキングだとわかるためには照らす必要があるんです。

照らしたからはっきり理解できたんです。

つまり照見とは、

ちゃんと分かった

ということです。

では何を「ちゃんと分かった」のでしょうか?

五蘊が皆空だとちゃんと分かったんです。

五蘊皆空(ごうんかいくう)

五蘊(ごうん)とは5つの蘊蓄(うんちく)という意味です。

蘊蓄とは脳に蓄えられた要素のことで、何となく「要素」としておきましょう。

ここでは5つの要素とします。

では5つの要素とは何と何と何と何と何なんですかね?

これが後で出てくる、

色(しき)

受(じゅ)

想(そう)

行(ぎょう)

識(しき)

です。

さて、一つずつ説明します。

色(しき)

とは「この世の認識できるもの全て」です。

車も人も音も臭いも温度も湿度も全て「色(しき)」です。

例えば、あなたが公園を歩いていたとします。

近くでは少年たちが草野球をしていました。

その時に「カーン」という音が聞こえました。

※この公園も少年たちもカーンという音も全て色(しき)です。

受(じゅ)

とは「印象的な感覚」です。

感受性みたいなもんです。

そんな感じです。

ハッと振り向くと、あなたの方に白い丸い何かが真っ直ぐ飛んできています。

※この咄嗟に見えた「白い丸い何か」という印象が受(じゅ)です。

想(そう)

とは「物事の形やありさまを心の中に思い定めること」です。

さっきのカーンという音と、白い丸い見た目からあなたはそれが野球ボールだとわかりました。

※この「野球ボールだとわかる」が想です。

行(ぎょう)

とは「対象となるものがはっきり分かった時、何をすべきか」という脳内に働く意思のことです。

「このままでは直撃するから回避しないと!」と思いあなたはしゃがみました。

※この「直撃するから回避する」という脳内に働く意思が行です。

識(しき)

とは「知識」のことで、いわゆる「学ぶこと」くらいのイメージです。

ギリギリで無事にボールをよけれたあなたは「少年たちが公園で草野球をしている時の散歩は危ない」と学びました。

※この「学び」が識です。


つまり、

色 ⇒ この世の認識できるものすべて

受 ⇒ 感受

想 ⇒ イメージ

行 ⇒ 意思

識 ⇒ 知識

としました。

「色」以外は何かを認識した後の脳内作用のことです。

皆空(かいくう)とは、何となくわかります。

皆は「みんな」、空は「そら」では無く「から」です。

では「空」の状況を考えてみましょう。

お菓子の箱が置いてあって、ちょっとひとつ食べよ、と思って箱を持ってみたら、

えらい箱が軽くて中を見たら何も入っていない時「なんや、からやんけ」と言いますよね。

つまり「空」は、箱だけあっていかにも中身がありそうやのに、真に食べられるものは何も無い。

つまり「実体がない」ということです。

後でいっぱい出てくるので念を押しますが、この「実体がない」という概念を漢字一文字で表したのが「空(くう)」です。

なので皆空とは「みんな実体がない」となります。

という事で、五蘊皆空(ごうんかいくう)とは。

5つの要素はみんな実体がない

となります。

度一切苦厄(どいっさいくやく)

では度(ど)と一切苦厄(いっさいくやく)の説明に入ります。

「度」を漢和辞典で調べてみると、度が動詞の役割をする時、「わたる」つまり「渡る」の意味になり「過ぎる、通過する、越えてくる」の意味になるそうです。

また、仏教的には「悟りの世界に達する、此岸から彼岸にわたる」という意味になります。

一切苦厄は漢字見たら何となくわかりますね。

一切とは「全て」、苦厄は難しく考えずに「苦しみ」とでもしときましょう。

なので度一切苦厄は、

全ての苦しみから解放された

にしましょう。

この文の訳

という事で、この11文字ですが

この世の認識できるものすべて、感受、イメージ、意思、知識という5つの要素はみな実体がない、ということがちゃんと分かって、全ての苦しみから解放された

です。

舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色

では次の19文字に進みます。これは、

「舎利子」よ、「色」は「不異空」だ。「空」は「不異色」だ。「色」は「即」ち「是空」だ。「空」は「即」ち「是色」だ。

と読みます。

皆さん、ようやくここから観自在菩薩の発言が始まります。

舎利子(しゃーりーしー)

まず舎利子(しゃーりーしー)ですが、これも人の名前です。

この人の本名は「シャーリプトラ」なので「舎利」までは音写です。

でもその後の「プトラ」のところは「子」になってます。

なんで?(゜.゜)

そこで「子」について説明します。

これは中国における尊称です。

尊称とは偉い人に付ける名前です。

孔子とか荘氏とか老子とか全部そうです。

「子曰く」と言えば「あー偉い人が言ったんだな」とわかります。

そんな感じです。

なので「舎利子」は「シャーリプトラ」を敬って呼んでいるのです。

筆者
プトラはどこかに消えましたが、あまり深く考えません。

ちなみにシャーリプトラは仏陀の弟子で、知恵があって偉いから、「知恵の完成」のやり方を観自在菩薩に訊いて教えてもらってるらしいんです。

般若心経は、観自在菩薩がこのシャーリプトラに話している形で記述されています。

ですからこの「舎利子」は「シャーリプトラよ」と呼びかけている感じです。

色不異空(しきふいくう)

次に色不異空(しきふいくう)ですが、この「色(しき)」はさっきの五蘊のところで出てきた「色(しき)」と同じです。

「この世の認識できるものすべて」です。

「この世の認識できるものすべて」は少し長いので「物質的現象」と訳しましょう。

後の「不異空」も何となくわかると思います。

「不異」は「異なっていることが無い=他ならない」で、「空」は先ほども出てきました「実体のないもの」です。

という事は「物質的現象は実体のないものに他ならない」=「物質的現象は実体がない」ということです。

仏陀は「実体が無いからこそ変化していくのだ」と言いました。

もし実体があって真に実在するものであれば、衰えたりしないだろう

ということです。

空不異色(くうふいしき)

次に空不異色(くうふいしき)ですが、今度は逆に「空」が「不異色」だと言っています。

上の例でいくと「実体のないものは物質的現象に他ならない」=「実体のないものは物質的現象だ」ということです。

色即是空(しきそくぜくう)

次に色即是空(しきそくぜくう)ですが、「色」は「即」ち「是空」です。

即(すなわ)ちは、国語辞典によると「それがそのまま」という意味らしいです。

そして「是」も国語辞典で調べると、是が動詞の役割をする時は「である。」の意味になるそうです。

という事は「物質的現象は、それがそのまま、実体のないものである」ですね。

空即是色(くうそくぜしき)

空即是色(くうそうぜーしき)も同様で「実体のないものはそれがそのまま物質的現象である」ですね。

この文の訳

という事で、この19文字ですが

シャーリプトラよ、物質的現象は実体のないことに他ならないのであり、実体がないということは、物質的現象に他ならない。

物質的現象はそれがそのまま実体のないものであり、実体のないものは、それがそのまま物質的現象であるのだ!

です。(うーん、これは難しい・・・

受想行識亦復如是

では次は少なめに8文字を見てみましょう。

「受想行識」も「亦復如是」だ

と読みます。

受想行識(じゅそうぎょうしき)

受想行識(じゅそうぎょうしき)ここは比較的楽ちんですよね。

先ほどの「五蘊」のところで出てきた「色受想行識」の「色」がないバージョンです。

つまり「感受」「イメージ」「意思」「知識」です。

亦復如是(やくぶにょーぜー)

亦復如是(やくぶーにょーぜー)はすこし難しそうですね。

漢和辞典で一文字ずつ調べてみます。

亦は「また」と書いてありました。

復も「また」と書いてありました。

同じ意味です。

哲夫氏曰く「インリンで十分やのに、足りないからオブジョイトイを付け足しているんでしょうか」と言っています。

如は「同様である」と書いてあります。その下に「ごとし」とも。

是は、前にも調べましたが「である。」と書いてあります。その下に「これ」とも。

という事は「またまたこれのごとし」と訳せます。

「これ」はどう考えても先に出てきた「受想行識」のことだとわかります。

つまり、

感受、イメージ、意思、知識といった脳内作用もまた同様であり、物質的現象であり、実体がない

となります。

この文の訳

という事で、この8文字ですが

感受、イメージ、意思、知識といった脳内作用もまた同様であり、物質的現象であり、実体がない

です。

舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減

先ほどはたったの8文字だったので、今度は多めに20文字いきましょう。

「舎利子」よ「是諸法」は「空相」で「不生不滅」、「不垢不浄」、「不増不減」だ

と読みます。

舎利子(しゃーりーしー)

舎利子(しゃーりーしー)はもう解説しませんよ。

シャーリプトラよ、という意味ですから

なぜ観自在菩薩は2度もシャーリプトラに呼び掛けているのでしょうか?

それは観自在菩薩が優しいからです。

優しい先生は何度も名前を言ってくれるのです。

「はよせんかえ中西、よう、中西、みなもう食い終わっとんぞ、中西よ、せやろがえ、なんで食われへんねや中西よ、はよ食わんかえ、せやろがえ、中西、よう、中西よう、食べても死なへんやろ、せやろ」

ってな感じです。

※中西とは笑い飯哲夫の本名

観自在菩薩も、とても親身になって、シャーリプトラに教えてあげているんです。

是諸法空相(ぜしょうほうくうそう)

そして是諸法(ぜしょほう)です。

また「是」が出てきました。もう説明しません

「諸法」の意味を調べましょう。

「諸法」は宇宙に存在するいっさいの事物や現象とあります。

筆者
カッコイイですね!

それがまた空相(くうそう)だと言ってるんです。

「空」です。

しかし今回はその下に「相」があります。

「相」には「かたち、容貌」などの意味があるらしいんですが、「是諸法空相」で、

宇宙に存在するいっさいの事物や現象には実体がないかたちである

と訳すとブサイクなので、この際「相(かたち)」を無視して

宇宙に存在するいっさいの事物や現象には実体がない

にしましょう。

※この「かたち」は「じゃあ30分後に集合するかたちで」とかの「かたち」なのであっても無くても意味は一緒なんです。

不生不滅不垢不浄不増不減(ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん)

不生不滅不垢不浄不増不減(ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん)です。

これは何となくわかりますね。

㋐不生不滅は「生まれることもなければ滅びることもない」、つまり「不老不死」みたいな感じです。

㋑不垢不浄の「垢」は「アカ」と読みますね。

つまり汚いものです。

逆に「浄」は「浄化」などに使われるので「綺麗になる」くらいにしときましょう。

なので「汚くなることもなければ、綺麗になることもない」

㋒不増不減はそのままで「増えることもなければ、減ることもない」となります。

この文の訳

という事で、この20文字ですが

シャーリプトラよ、この宇宙に存在するいっさいの事物や現象には実体がない。

生まれることもなければ滅びることもなく、汚れることもなければ綺麗になることもなく、増えることもなければ減ることもない

です。

是故空中無色無受想行識

続いて11文字を見ていきましょう。

「是故」、「空中」では「色」が「無」いんだ。そして「受想行識」が「無」いんだ。

と読みます。

是故空中(ぜこくうちゅう)

是故(ぜこ)は簡単ですね。

これゆえ、です。

現代の言葉では「だから」、関西弁では「せやから」です。

空中(くうちゅう)は・・・

また「空」が出てきましたが、今度は「中」が付いてます。

筆者
仏教用語では「空」は「そら」ではなく「くう」だと説明しました。

つまり「実体がない」です。

中は「なか」と訳すと意味が通らないので、再び辞典で調べてみると「なか」「あいだ」「の状態で」「の状況の中で」とあります。

ここは後者を採用して、さっきの是故をくっつけて、

だから実体がないという状態において

とでもしときましょっか。

無色(むしき)

ここから「無」が連発します。

無色(むしき)は「物質的現象が無い」ですよね。

無受想行識(むじゅそうぎょうしき)

無受想行識(むじゅそうぎょうしき)も簡単ですね。

さっきの「五蘊」で出てきた「受想行識」です。

先ほども説明しました。

「色」は「物質的現象」で、「受想行識」は「脳内作用」であって物質的現象ではありません。

筆者
やから分けてるんですね。

その受想行識が無いと言っているので、「感受、イメージ、意思、知識も無い」となります。

この文の訳

という事で、この11文字ですが

だから実体が無いという状態において、物質的現象も無ければ、感受、イメージ、意思、知識も無いのだ

となります。

もうほぼ同じような事ばかり言ってますね。

でもこれが大事なので、優しい観自在菩薩は何度も繰り返しているんです。

無眼耳鼻舌身意無色声香味触法

その後も「無」シリーズが続く14文字です。

「無」いんだ、「眼耳鼻舌身意」が。「無」いんだ、「色声香味触法」が。

と読みます。

無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんい)

無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんい)ももう分かると思います。

眼も耳も鼻も舌も身も意思も無いのだ。

ですよね

簡単過ぎます。

初めの5つは人間の身体の部分ですよね。

筆者
という事は「意」は「意思」というより「心」にしましょうか!

なので、

眼も耳も鼻も舌も身も心も無いのだ

がいいと思います。

そう思います。

無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)

無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)

お、今回はよく見ると上の「眼耳鼻舌身」に対応していますね

眼で見るのが「色」

耳で聞くのが「音」

鼻でにおうのが「香」

舌で味わうのが「味」

身で感じるのが「触」

です。

この場合、「色」を「物質的現象」と訳すと変な感じになるのでやめましょう。

眼で見るのが「色」なわけですから、「見えるもの」くらいいいでしょう。

意だけわかりにくく、対応するのが「法」となってます。

再び「法」を漢和辞典で調べてみましょう。

法とは「規則」「決まり」「仏の教え」「手本」とありますが、しっくりこないので単純に「心で感じるもの」としましょう。

すると、

見えるものも音もにおいも味も感触も心で感じるものも無い

になりました。

この文の訳

という事で、この14文字ですが

眼も耳も鼻も舌も身も心もなく、それぞれに対応する、見えるものも、声も、においも、味も、感触も、心で感じるものもない

です。

無眼界乃至無意識界(むげんかいないしむいしきかい)

次はまた少なめに9文字でいきましょう。

「無」いんだ、「眼界」が。「乃至」「無」いんだ、「意識界」が。

となります。

もうここまで辛抱強く読んで頂いている仏のように心の広い方ならわかりますよね。

しかし問題は「乃至」です。

筆者
こいつだけ少しややこしいんです。

「乃至」を辞典で調べると「… から … にかけて」「ないしは」とありました。

後者は簡単ですね。

「1年生の面倒は5年生ないしは6年生がみてあげなさい」とあれば、「5年生、または6年生」となります。

しかし同時に「5年生~6年生」ともとれるわけです。これが前者の訳です。

例えば「5x+5y」を因数分解しなさいと言われれば「5(x+y)」とすぐわかります。

この因数分解と同様に無眼界乃至無意識界を因数分解してみましょう↓

すると無(眼界~意識界)と分解できました。

眼界は「見えている世界」、意識界は「心の世界」。

それらが無いと言っているんです。

つまり、

見えている世界から心の世界まで、まったく無い

ってな感じです。

この文の訳

という事で、この9文字ですが

見えている世界から心の世界まで、まったく無い

です。

ここまでの訳おさらい

ではここまでの般若心経の意味をおさらいしましょう。

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界

般若心経訳

観自在菩薩という人が、知恵を完成させるすごい修行をしていた時、

この世の認識できるもの、感受、イメージ、意思、知識、という五つの要素はみんな実体がない、ということがちゃんと分かって、全ての苦しみから解放された。

観自在菩薩は言った。

「シャーリプトラよ、物質的現象は実体のないことに他ならないのであり、実体がないということは、物質的現象に他ならない、また、物質的現象は、それがそのまま実体のないものであり、実体がないものは、それがそのまま物質的現象であるのだ。感受、イメージ、意思、知識といった脳内作用もまた、物質的現象であり、実体がない。

シャーリプトラよ、この宇宙に存在する一切の事物や現象には実体がない。

生まれることもなければ滅することもなく、汚れることもなければ綺麗になることもなく、増えることもなければ、減ることもない。

だから、この宇宙に存在する一切の事物や現象には実体がないという状態において、物質的現象もなければ、感受、イメージ、意思、知識もない。目も耳も鼻も舌も身も心もなく、それぞれに対応する、見えるものも、声も、匂いも、味も、感触も、心で感じるものもない。

見えている世界から心の世界まで、まったくない。

おわりに

さて、般若心経の教え(前編)はいかがでしたでしょうか?

まだ僕みたいな凡人では何を言っているのかわからないという部分も多いですが、まあこれが世界三大宗教と呼ばれる「仏教」の経典の一つであることは間違いなく、この教えによって誰かが救われているということもまあ有り得そうです。

筆者
哲夫氏の著書の中にはもっと下品でもっとアホみたいな表現も多く、楽しく読めるというのは間違いありません。

気になったら是非読んでみてください。

では後編に続きます↓

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