
さて、古代メソポタミア建築について説明しよう。
人類史上最初期の都市文明として知られるメソポタミアでは、すでに高度な建築文化が発展していた。
石材の乏しい土地で、人々はレンガを使い巨大な神殿や都市を築き上げていく
そこには後の建築史にもつながる、非常に興味深い工夫が詰まっている。
古代メソポタミア建築で学ぶポイントは以下の4つだ。
- 古代メソポタミア建築とは
- 古代メソポタミア建築の傑作『ジッグラト』
- 使用されたレンガの特徴と種類
- ペルシア帝国の建築遺構
読みやすさ重視なので、関東人には慣れない関西弁のノリなども頻出するがそこはご愛嬌として大目に見て頂きたい。
なお、読みやすさを優先して、ところどころ関西弁のノリが混ざるかもしれない。
関東の方には少し新鮮かもしれないが、そこはご愛嬌ということで。
ほな、古代文明の建築の世界へ行ってみよか。
古代メソポタミア建築とは

まずはメソポタミア地域の概略をご紹介しよう。
いきなりジッグラトの話をされてもみんな困るだろ?
メソポタミア地域の位置と歴史
まずはメソポタミアの位置を確認しておこう。
メソポタミア地域とは、現在のイラク国内に属している↓

そもそもメソポタミアとは、ギリシャ語で「2つの川のあいだの土地」を意味し、ここで言う2つの川とはもちろん「ティグリス川」と「ユーフラテス川」を指している。
「ティグリス・ユーフラテス?あ、習ったことあるわ」
そう、中学の社会科で習ったことがあるはずだ。
思い出して頂けただろうか?
なお、「ティグリス?チグリス?どっち問題」についてはわたしからはノーコメントだ。
どっちでもいい気がする(知らんけど)。

つまり、ティグリス川とユーフラテス川の間の地域をメソポタミアと呼ぶのだ。

他の古代文明にも当てはまるが、やはり文明はまず川の近くから生まれている。
メソポタミア地域の歴史
メソポタミア地域の最大の特徴は、世界四大文明の発祥地の一つで極めて平坦な地域であるということ。
この地では古くから農耕が発達し、その生産力に基づき建築と呼ばれるに相応しいモニュメントと都市が、歴史上最も早く誕生した(らしい)。
これから簡単に歴史の話をする、が、マジですぐ終わるので辛抱してくれ。
-紀元前7000年頃
この頃から人間の営みが始まる
-紀元前6000年頃
最初期の住宅遺構はイラク北部のハッスーナに残されている。

-紀元前5000年頃
都市の形成や神殿の建設がみられるのは南部の都市エリドゥで、紀元前5,000年頃まで遡る
-紀元前3000年期
この頃には都市の重要な展開が見られる
メソポタミア地域ではこの頃はシュメール・アッカド時代と呼ばれ、ジッグラト(聖塔)が現れるのもこの時期
-紀元前3000~紀元前500年
その後「古バビロニア時代」、「カッシート時代」と続き、壮大な都城や大宮殿を建造した古代初の帝国「アッシリア」の時代がおとずれ、壮麗なイシュタル門や空中庭園の建てられた「新バビロニア時代」に至り、「アケメネス朝ペルシア帝国」に滅ぼされた。
このように、メソポタミアは豊かで平らな土地という性格から、古くから様々な民族が入り乱れて覇権を争う地域でもあった。
後にエジプト建築編でも勉強するが、エジプトのように敵が攻め込みにくい地域では、王朝がほとんど変わらないまま数千年が経過している。
メソポタミアが「今日は誰が支配してるんや?」という状態だとすれば、エジプトは「まあ、いつものファラオです」という感じである。
メソポタミア地域の建築
上の歴史の中でも説明したように、メソポタミア地域の最初期の住宅遺構というのは紀元前6,000年頃からあるらしい。
そして古代オリエント建築の傑作と呼ばれるウルのジッグラトが完成するのが紀元前2,100年。
つまり最初の住宅遺構から計算すると、そこに至るまで約3,900年かかっていることになる。
まあ、建築の「け」の字もまだ存在しないような時代だし、民族同士の争いも絶えない地域だったので、ゆっくり進化していったのも無理はないのだろう。
とはいえ、もしわたしがこの時代にタイムスリップしていたなら話は別だ。
速攻でRC造のタワーマンションを建ててみせる。
まず型枠を組んで、鉄筋を入れて、コンクリートを打設して──
……などと説明しても、当時の人々はおそらくこう言うだろう。
「兄ちゃん、まずコンクリートって何や?」
そのとき、わたしは静かにこう答えるしかない。
「すまん。おれが生まれてくるのが8,000年遅かった。」
そして紀元前6,000年のメソポタミアの人々に、心の中でこう謝るのである。
「あと8,000年待ってくれたら、タワマン建てたるから。」
古代メソポタミア建築の傑作『ジッグラト』

ではここで、約3,900年という気の遠くなる年月をかけてメソポタミアの人々が生み出した建築の最高傑作、ジッグラトの説明に入ろう。
3,900年もかけたのだから、さすがに「まあまあの出来でした」では済まされない。
ジッグラトとは
ジッグラトとは「高い所」を意味し、階段状に積み上げられた巨大な建築物で「聖塔」とも呼ばれるが、機能的には現代でも不明な点が多くある。
現代の科学技術や考古学、建築の知見を総動員してもまだ不明な点が多くあるなんて、これだから古代遺跡はおもしろい。
そんな謎多き建築物、紀元前2,100年頃に建てられた古代メソポタミア建築の傑作ジッグラトがこちらだ。

代表的な遺構はウル(という地域にある)ジッグラトで、ウル第三王朝期、紀元前2,100年頃の建造と見られている。
世界史の年表でも、この時代にウル第三王朝がメソポタミア南部を支配していたことが確認できる。

このジッグラトは古代メソポタミア建築の傑作と呼ばれている。
……では、何がそんなにスゴイのか。
それを、これから説明していこう。
ジッグラトの各部説明
わたしが持っている参考書にはこのウルのジッグラトの各部の説明が難解な単語を用いて説明されていたのだが、字面だとわかりづら過ぎたので下に図で示した。

一応、参考書に書かれていることをそっくり以下にコピペしたので、興味ある人は読んでみてくれ。
各基部がほぼ東西南北に向けられた矩形(くけい)の平面をもち、規模は第1層が底面62.5m×43m、高さ11m、第2層が底面38.2m×26.4m、高さ5.7mで、壁面は上方へいくにつれ後退し、全体では上面が底面よりも小さい側面が梯形の箱を重ねたようになっています。
まあ百聞は一見に如かずなので、とりあえず何となくの形だけ認識してもらったら十分だ。
ウルのジッグラトを上から見たら下のようになっている。
そしてこの四隅がちょうど東西南北の四方向を向いているということだ。
紀元前2,100年時点での技術で、正確に東西南北を向いているってのが既にスゴイんやが。
革新的な建築技術『控え壁』
また、ジッグラトには控え壁(ひかえかべ)という技術が使われている。
控え壁
控え壁(ひかえかべ)またはバットレス (Buttress) は、建築構造の一つであり、建物本体を構成する主壁に対して直角方向に突き出した補助的な壁を作ることで、適切な支柱を持たない屋根の重量によって主壁に生じる横荷重を受け止めて、主壁を支持・補強する役割を果たす。
(引用:Wikipediaより)
字面ではわかりにくいので、こちらも図で解説しよう。
まず、建物に控え壁が無いと天井の重さに柱が耐えきれずに崩れる可能性がある。

これは日常生活でも様々な場面で見ることができる。
例えばこちら。

2018年、大阪府北部を震源地とした最大震度6弱の地震が起こった際に控え壁が無い学校の壁沿いを通学路として歩いていた小学生が倒れてきた壁の下敷きになり死亡した、という痛ましい事件が話題になった。
大阪府北部地震では小学校のブロック塀倒壊があり、小学生児童が亡くなる事例がありました。自宅に、購入しようとしている土地に…
「控え壁」という主壁の強度補強が行われていれば、あのような事故は起こっていなかったかもしれない。
紀元前2,100年に完成したジッグラトにすら控え壁が用いられていたというのに。
では、先ほどのウルのジッグラトに付いている控え壁を見つけてみよう。

それが、この黄色矢印で示した壁面に付けられた凹凸の凸の部分である。
煉瓦をただ並べただけでは単調になりがちな外観に、バットレスは陰影のある表情を与えている。
また、底面の各辺や壁体の稜線は中央で膨らみがつけられ、全体は引き締まってみえる。
このように、(紀元前2,100年には)すでに視覚的な補正効果をねらったとみられる表現も見出されていたのである(天才か?)。
使用されたレンガの特徴と種類

では次に、古代メソポタミア建築で使用されていたレンガの種類と特徴、その応用についてみていこう。
使われていたレンガには3種類ある
当たり前の話だが、建物を造るには石なり木なり何かしらの「部材」が必要なわけよ?
では、紀元前2,100年頃に建てられたウルのジッグラトにはどんな部材が使われていたのだろうか。

そう、答えはレンガである。
「なんや、そんな普通の答えか」と思うかもしれないが、このレンガ、実は文明の知恵が詰まりまくったハイテク素材なのだ。
Dr. STONEで取り上げてくれてもよかったのに、とわたしは思っている。
(「ほぅ、レンガか。実にエレガントじゃないか」というドクターゼノを見てみたかった気もする。)
では、そんな古代メソポタミアのレンガの歴史をみていこう。
練土(ねりつち)
メソポタミアでは建築に使える質の良い木材がほとんど手に入らず、最初期は単に泥を塗って固めただけの練土(ねりつち)が使われていた。

……いや、冷静に考えてほしい。
それ、ほぼ泥である。

当たり前だが、これでは耐久性のある建物は造れない。
というか雨が降ったら「あっ」っと言う間に泥に戻りそうだ。
もしこの素材で造られた家に住めと言われたら、私はこう言うだろう。
「雨の日は野宿します」と。
日乾煉瓦(にっかんれんが)
次に採用されたのが、現在でもなお使われる日乾煉瓦(ひぼしれんが/にっかんれんが)で、住宅から大きな構築物にまで利用された。

これは少々粘り気のある土と砂を混ぜて水で練り、粘土状になったものを型に入れて2〜3日ほど天日で乾燥させたものだ。
練土に比べると、強度はかなり上がっている。
……たぶん。
あくまで私の主観だが、泥よりはだいぶマシそうである。
とはいえ、もしこれで造られた屋根が自分の頭の上にあったら、私はきっと毎日こう思う。
「頼むから今日は雨降らんといてくれ」
焼成煉瓦(しょうせいれんが)
しかし古代メソポタミア人はここで満足しない。
日乾煉瓦でもかなりの革命だったが、古代メソポタミア人はさらに焼成煉瓦(しょうせいれんが)も使用するようになった。

これは簡単に言うと、日乾煉瓦をさらに窯で焼いたものである。
つまりかなり本格的なレンガだ。
ここまで来ると、もう現代のレンガとほとんど変わらないレベルになる。
紀元前の人類、普通に技術力が高い。
もしレンガで作られた住宅に住めと言われたら、わたしは迷わずこう言うだろう。
「え、いいっすけど?レンガのポテンシャルなめんなよ?」
アーチやヴォールトへの応用
さて、ここまでレンガの種類を見てきた。
では古代メソポタミア人は、このレンガを使ってどんな建築技術を生み出したのだろうか。
ジッグラトについてはすでに説明したので、写真だけ再掲しておく。

しかし彼らの技術は、単純に積み上げるだけでは終わらない。
なんと、紀元前3,000年頃にはすでにアーチやヴォールトも採用していたと考えられている。
ここで疑問が出る。
「アーチはなんとなくわかるけど、ヴォールトってなんや?」
簡単に言うとこうだ。
アーチ → 半円(2次元)
ヴォールト → それを奥にビューーーンと伸ばしたトンネル(3次元)
つまり、アーチを長くしたらヴォールト。
建築史、意外とシンプルである。
わたしがパワポで作成した以下の図を見てくれ、答えはそこにある。

アーチをビューーーンと伸ばして三次元にしたものを、専門用語でヴォールトと呼ぶ。
しかし後の古代ローマ建築とは異なり、メソポタミアでは型枠を使用せず煉瓦を少しずつせり出すように積んでいく「迫り出し式」のアーチやヴォールト構法が発展し、曲線も正円ではなく放物線を描いている。
結果どうなるか。
アーチが微妙にとんがる。

放物線状のジッグラトのアーチ
見た瞬間こうツッコミたくなる。
「もうちょい丸くならへんかったんか?」
まあ紀元前の建築なので、そこは大目に見よう。
ちなみに後のローマ建築のアーチはこうなる。

見ての通り、完成度が段違いである。
とはいえ、これも当然だ。
ジッグラトが建てられたのは紀元前2,100年頃、ローマの高度なアーチが登場するのは西暦400年頃。
実に約2,500年の技術差がある。
つまり何が言いたいかというと、ローマ建築はスゴイ。
しかし同時に、紀元前のメソポタミア人も普通にスゴイ。
結論。
人類、だいぶ前から頑張っている。
ペルシア帝国が残した優れた建築遺構

では最後に、ペルシア帝国の優れた建築以降についても紹介しておこう。
ペルシア帝国とは
2026年2月28日にアメリカがイスラエルと共に空爆したことでお馴染みの、メソポタミアの東に位置するイラン高原(↓図中緑色)も、メソポタミア同様古い建築伝統をもった地域である。

イラクの東側の国がイラン。
そしてこの地域から、とんでもない強さの帝国が登場する。
それがペルシア帝国(アケメネス朝ペルシア 紀元前550〜前330)だ。
この国、何がすごいかというと、
- メソポタミア
- 小アジア
- エジプト
という、いわゆる古代オリエント世界をほぼ丸ごと統一してしまった。
つまりどういうことか。
オリエント世界征服。
スケールがデカすぎる。

オリエント世界を征服したアケメネス朝ペルシア
世界歴史年表を見たら、そのヤバさの一端がわかるだろう。

オリエント世界の全ての国を滅ぼしたのが、アケメネス朝ペルシアなのである。
ちなみにペルシア帝国の勢力範囲はこんな感じである↓

(出典:ペルシア帝国の支配)
とんでもない大帝国である。
もうこれは「強い」とかいうレベルの話ではない。
ペルセポリスの宮殿

そのアケメネス朝ペルシア(ペルシア帝国)の優れた建築遺構が残っているのが、主に紀元前520年頃から前460年頃にかけて造営された帝都ペルセポリスの宮殿なのである。
ペルセポリスの建築遺構…
どうだろう、がぜん興味が湧いてきたのではなかろうか。
ペルセポリスの宮殿の全体像がこちら。

宮殿全体は、
- 西側 約428m
- 南側 約300m
- 高さ 最大12m
という巨大な基壇の上に建てられている。
この時点で既に「だいぶ本気の国家プロジェクト」である。
宮殿の構成
北西側には大階段が設けられ、その先に
- 万国の門
- アパダーナ(謁見の間)
- 百柱の間
などが配置されている。
つまり、簡単に言えば偉い人が登っていくほど、どんどんスゴイ建物が出てくる構成である。


(大階段)

(万国の門)

(アパダーナ)

(百柱の間)
この中で最も重要と考えられているのがアパダーナ(謁見の間)である。
(中央広間は一辺約59mの正方形で、その三方向に列柱廊が付く構造になっている。)
さらに驚くのは柱だ。
この柱、高さ18m以上。
しかも柱の頂部には、牡牛を背中合わせにした巨大な柱頭(約3m)が載っている。
普通に考えてほしい。
2頭の牛が背中合わせで柱に乗っている。
なかなかのインパクトである。

柱頭(キャピタル)
柱頭とは、柱の頂部に載せられる装飾のこと。
以下、ギリシャ建築編より↓

ペルシア帝国の建築はギリシャ建築よりも後
ここで読者の中にはこう思う人がいるかもしれない。
ちょっと待って、それは違う。
なぜならペルシア帝国が建築遺構を残している紀元前520-前460年というのは、がっつりギリシャ建築が完成している時代だからだ。
つまり時系列はこうなる。
メソポタミア建築
↓
ギリシャ建築(完成)
↓
ペルシア帝国建築
一応古代オリエント建築の一つとして、古代メソポタミア建築の中に含めて説明はしているが、このペルシア帝国の時代には既にギリシャ建築が完成している。
ここは建築史でよく誤解されるポイントなので覚えておこう。
ペルセポリスの意味
この宮殿は王の住居というより、
- 帝国の象徴
- 儀式の場
として機能していたと考えられている。
つまりここは、「帝国の威厳を見せつける巨大ステージ」のようなものだ。
さらに面白いのは、ペルセポリスの建築には
- メソポタミア
- エジプト
- 小アジア
など、帝国内の様々な地域の技術や美術が取り入れられている点である。
要するに、帝国オールスター建築である。
おわりに
以上で古代メソポタミア建築の説明は終了である。
ここまで読んでくださった読者の皆さま、本当にお疲れさまでした。
紀元前数千年の世界に付き合っていただいたわけで、もはや軽い時間旅行である。
しかし安心してほしい。
建築史の旅はまだまだ続く。
というわけで、次は古代エジプト建築について見ていこう。

こちらの記事で詳しく解説している。
さて、ここで一つ重要なポイントを押さえておこう。
古代メソポタミア建築は、ジッグラトで見られるように「軸線」という概念にそれほど強いこだわりを持っていない。
言い方を少し乱暴にすると、「とりあえず高く積んだろ」という勢いを感じる建築である。
それに対して、古代エジプト建築はまったく違う。
エジプトでは「軸」が非常に重要視される。
建物の中心線をきっちり通し、入口から奥へと空間が一直線に展開していく。
つまり、めちゃくちゃ几帳面な建築なのである。
そしてこの「軸」という概念は、その後の
- ギリシャ建築
- ローマ建築
にも引き継がれ、西洋建築の重要な原則になっていく。
つまり建築史的に言えば、【メソポタミア → エジプト → ギリシャ → ローマ】という流れの中で、エジプトはかなり重要なバトンを握っているわけである。
ということで次は、巨大ピラミッドと神殿建築の世界――古代エジプト建築である。
引き続き、一緒に頑張っていこう。

