最近では、完全に自由を奪われた香港の話が盛り上がっていますが、今回は少し時代を遡って「中国と台湾の対立」のお話です。
そう言えば昔、まだ台湾と中国の関係を勉強する前ですね。
台湾人の友達を中国人として扱って、激しく怒られた記憶があります
「え、台湾って中国の一部じゃないの?(゜.゜)」
そう思ってました。
無知は時として罪なんです(;´Д`)
この記事を読めば、台湾と中国が対立するまでの流れを理解することができます。
日清戦争勃発 (1894)
(出典:牙山での戦いを描いた絵)
まずはここから始めましょう。
1894年、甲午農民(こうごのうみん)戦争をきっかけとして日本は当時の大国「清」(現在の中国)と戦争をしました。
この戦争は日本が勝ったのですが、中国と台湾の対立構図はここから始まります。
下関条約で台湾をゲット!
日清戦争に勝利した日本は、下関条約で清の領土の一部である「台湾」を譲り受けました。
↑台湾はこんなに小さな島ですが、アジアに覇権を拡げようと画策していた日本にとっては大きな一歩でした!
ふ、台湾ゲットだぜ。
これからは台湾も日本の一部として改革していくぜ~
50年間の台湾支配(1895-1945)
では日本軍が実際にどう台湾を改革したのかをみていきましょう。
日本が台湾を「支配」していたのか「統治」していたのかについては、日本でも様々な議論があります。
筆者も正確なことは言えませんが、一応「支配」としておきます。
台湾民主国家樹立と消滅
台湾割譲を知らされていなかった台湾人は当初、
え、台湾が日本の土地に?
マジあるか~
日本なんかに占領されてたまるあるかよおぉぉ
と反発し、台湾民主国という独立国家樹立を宣言しました。
台湾が国家として独立すれば、日本軍に占領されることは無いと思ったからです。
ふふふ
日本もこれで諦めるあるね~
しかし日本軍が台湾受け渡しの手続きを完了させ台湾に上陸すると台湾民主国幹部は大陸に逃げたので、ほとんど無抵抗で台湾を平定することができ、台湾民主国はわずか148日間で消滅しました。
日本の台湾支配
日本軍は台湾総督府(たいわんそうとくふ)という代表政府を置き、台湾を日本領として統治し始めます。
大日本帝国としては初めて得た植民地(統治領)なので、それはそれは丁重に台湾を統治(支配?)しようと思ったわけです。
当然、様々な抵抗運動が各地で繰り広げられますが1902年頃までには日本軍は武力で抵抗運動を抑えつけて、それ以降も植民地収奪が続きました。
抵抗運動を武力で抑えつけたんかぃ!
初めての植民地!
どう運営すればいいんだ…
まあまずは、日本化するのが吉と見た
また、日本は本格的な皇民化政策(=外国を日本化すること)を実施し台湾を急激に発展させました。
反発と称賛
もちろん「母語や伝統行事の禁止、創氏改名などの日本軍の支配」に反発する人も多かったようですが、
日本軍がもたらした高等教育や日本語教育、義務教育、インフラ整備、医療・衛生面などの先進技術により住民の生活の質が向上したと称賛する台湾人の方が多かったと言われており、総じてプラスの評価がなされています。
日中戦争勃発(1937)
(出典:1937年(昭和12年)①「日中戦争勃発」日本中国侵略を開始する)
日清戦争の次は日中戦争です。
1937年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件に端を発した日中戦争で日本軍は中国本土への侵攻を本格化しました。
そうです、当時の日本は中華民国の都市をどんどん攻め落としており、かなり中華民国を追い詰めていたのです。
国共合作(1937)
そこで、それまで中国本土で互いにドンパチを繰り返し、仲の悪かった㋐国民党(代表は蒋介石)と㋑共産党(代表は毛沢東)という2大政党が「日本を追い出そう!」という理念のもとに手を組んだのです。
蒋介石「今まで敵同士やったけど、協力して一緒に日本をいてもーたろか」
毛沢東「せやな、足腰立たんようにしたろかい」
「敵の敵は味方」理論ですね。
当時の国民党の指導者は蒋介石(しょうかいせき)、共産党の指導者は毛沢東(もうたくとう)でした↓
(出典:楽天ブログ-楽天市場)
(左から)蒋介石と毛沢東
互いに争っていた彼らの前に「日本」という共通の敵が現れたのです。
これを「国民党と共産党が手を組んだ」ので国共合作(こっきょうがっさく)と言います。
これにより日中戦争は泥沼化し、日本軍が思っていたよりもはるかに戦費と時間を費やし、1945年の終戦まで8年間も戦うはめになりました。
大日本帝国敗戦後(1945)
(出典:日本敗戦と漁業)
第二次世界大戦は結局日本(=大日本帝国)が負け、ポツダム宣言を受諾し天皇陛下による玉音放送をもって日本は敗戦を認めました。
これにより、日本は今まで獲得/占領した全ての地域の支配権を放棄しました。
ぐむむ、負けた…
植民地は全て放棄せよ、か。
この時に台湾も中華民国の領土に戻りました!
台湾はそのまま中国国民党の支配下に入り、様々な搾取を受け自由を奪われ始めます。
そんな中おやおや、また中華民国本土で怪しい動きが出てきました。
国共内戦再来(1946-1949)
そう、国共内戦です(笑)
国共合作の逆ですね。
共通の敵がいなくなり、世界大戦が終結したので再び「中華民国のリーダーはおれだ」という争いが起きました。
蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍が激しい争いを繰り広げます。
状況的には国民党軍が圧倒的に有利でしたが、民衆の不満や権力の腐敗、経済復興の失敗を経て結果的には毛沢東率いる共産党軍が勝利しました。
不利だった共産党軍が勝った理由としていくつか挙げられます↓
共産党軍が勝利した理由
➀国民党軍の最大の敗因は、民衆の不満と言われています。
» 続きを読む
②また当時のソ連の指導者は独裁者スターリンであり、自分と同じ考えをもつ共産党軍を支援したとも言われています。
③もう一つ、国共合作とは言いながらも日本軍と正面衝突していたのは国民党軍であり、共産党軍は力を温存していたとも言われています。
(ある書物には「国民党軍が日本軍を追っ払った」と書いているのもあるそうです)
» 折りたたむ
国共合作の際の資料は以下の3点が挙げられます↓
- 抗日战争史稿
- 中国抗日战争史 1937-1945
- 中国抗日战争资料选编
そして毛沢東率いる共産党軍に敗れた蒋介石の中国国民党はどうしたか?
自決?降伏?
いえ、全く違います!!!
蒋介石は台湾へ逃げる(1949)
蒋介石は国民党軍と共に台湾へ逃げました↓
なんせ1945年の終戦以降、台湾は国民党政府が支配していたのでいわば仲間の元へ帰るという感じです。
少し気になります(笑)
毛沢東は中華民国を中華人民共和国と改める (1949)
国共内戦中、ほぼ勝利を確信した中国共産党は、中華民国を改め国名を現在の「中華人民共和国」にし首都を北京にしました。
初代国家主席はもちろん「毛沢東」です。
「毛沢東」は「もうたくとう」と読みます、「けさわひがし」と思った方は残念ですね(;´Д`)
このおでこの広さ、まじパネーです。
当初の中華人民共和国は「新民主主義国家」としてスタートし、まずは資本主義を目指し、その後、国が経済復興を遂げると社会主義国家にしようと考えていました。
しかし中華人民共和国自体が冷戦の中で朝鮮戦争を介してアメリカと戦うようになり、毛沢東は方針を180度変更し、1952年以降中華人民共和国は急速に中国共産党独裁国家へと変容しました。
国共内戦、あんなんはお遊びやった。
いまの世の中、いつ第三次世界大戦に巻き込まれるかもわからへんし、現にアメリカと朝鮮半島で代理戦争してるやん(=朝鮮戦争)
資本主義社会では国力が回復するまでに時間がかかる。
それなら共産党の一党独裁国家にして、権力を集中した方が管理もしやすいし楽!
この後けさわひが、いや毛沢東は恐ろしい一面を露わにしていくのである…。
おわりに
さて、こうして毛沢東率いる中国共産党軍は本土を拠点として中華人民共和国を建国し、蒋介石率いる国民党軍は台湾に逃げました。
これから台湾と中国の対立が激化していくのですが、それはまた別記事で書こうと思います。
ここまでお読み下さりありがとうございました!
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