世界遺産誕生までの流れ
チェコのチェスキー・クルムロフ地区
世界遺産条約の大きな特徴は、文化遺産と自然遺産をひとつの条約の下で保護している点です。
世界遺産条約ができるまでは、文化財保護と自然保護は別々の枠組みで行われていました。
文化財はそもそも、個人(王家や貴族)に属するものと考えられることが多く、文化や歴史に裏付けられた「集団」に属する公共の財産であるという考え方は19世紀のヨーロッパでようやく誕生しました。
たとえば、4500年前に建てられたといわれるエジプトのピラミッドは当時のエジプト王ファラオの所有物でしたが、
それを4500年後(つまり現在)のエジプト大統領が
あのピラミッドはエジプトのトップである私個人のものだ。
私がピラミッドを勝手に解体しようが私の自由だろ?
と言ったらおかしいですよね?
ピラミッドを建てた頃のエジプトと現在のエジプトは全く違うので、ピラミッドは「個人の財産」ではなく「エジプトという国の財産」ということになります。
しかし絶対王政の時代では、その国のものは全て王様の所有物という考え方がありました。
アテネ憲章とハーグ条約
1931年、ギリシャのアテネで第1回「歴史的記念建造物に関する建築家・技術者国際会議」が開催され、記念物や建造物などの保存や修復に関する基本的な考え方を示したアテネ憲章が採択されました。
アテネ憲章では、「歴史的な建造物の維持や保存の重要性」など後の世界遺産条約の考え方につながる概念が出された一方、その修復方法で近代的な技術や材料の使用を認めている点が世界遺産条約と大きく異なります。
え、ちょ待って。修復の際は、近代的な技術や材料を使ってもいいん・・・?
まあこの件は一旦置いておいてください。
えーその後、第二次世界大戦で各国は遺産や記念建造物の保存の重要性と、その保護の難しさに直面しました。
1954年にはユネスコがオランダのハーグにて「武力紛争の際の文化財の保存に関する条約(ハーグ条約)」を採択し、国際紛争や内戦、民族紛争などの非常時において文化財を守るための基本的な方針が定められました。
ヴェネツィア憲章と真正性
その後、1964年にイタリアのヴェネツィアで第2回「歴史的記念建造物に関する建築家・技術者国際会議」が開催され、アテネ憲章を批判的に継承したヴェネツィア憲章が採択されました。
ヴェネツィア憲章では、アテネ憲章で示された記念物や建造物の保存・修復の重要性を引き継ぐ一方で、アテネ憲章とは異なり修復の際には建設当時の工法や素材を尊重すべきとする真正性という概念が示されました。
真正性
真正性とは、主に文化遺産に求められる概念で、建造物や景観などがそれぞれの文化的背景の独自性や伝統を継承していることが求められる概念。
なので修復の際には特に創建時の素材や工法、構造などが可能な限り保たれている必要がある。
たとえば大地震でピラミッドが崩れ、修復の際に二度と崩れないように石同士を近代的な樹脂で固めたとします↓
これは外見上世界遺産を保護していますが、修復方法は建設当時とは遥かに異なりますので、真正性はありませんね。
世界で最初の世界遺産
イエローストーン国立公園
世界遺産条約誕生の100年前にあたる1872年にはアメリカ合衆国で、自然保護を目的とした世界最初の国立公園であるイエローストーン国立公園が誕生しています。
国立公園の自然保護で重要なのが、手つかずの自然を意味する「ウィルダネス(Wilderness)」という考え方で、これは世界遺産の自然保護の考え方にも受け継がれています。
つまり、
「それが自然には一番良い」ということなんです。
そして第二次世界大戦後間もない1948年にはユネスコ主導でIUCNが設立され、国や民族などを超えて自然を守ってゆく方法が整えられました。
1964年にヴェネツィア憲章が採択された翌1965年には、同憲章の考え方に基づき、ICOMOSが設立されました。
※後で簡単に説明します
1960年代に入ると、経済開発と遺跡や自然の保護に関する問題が表面化するようになり、文化財と自然保護を分けて考えることが現実的ではないとして、ヌビアの遺跡群救済キャンぺーンを経て1972年にスウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議で一つにまとめられ、同年11月のユネスコ総会で「世界遺産条約」が採択されました。
IUCN、ICOMOS、ICCROMの説明↓
» 非常におもんないので飛ばしてもらっても構いません(笑)
- IUCN(アイユーシーエヌ)
「国際自然保護連合」のことで、本部をスイスのグランに置く世界的組織で、1948年に設立されました。
要するに自然遺産の専門調査を行う機関です。 - ICOMOS(イコモス)
「国際記念物遺跡会議」のことで、本部をフランスのパリに置くNGOで、1965年に設立されました。
要するに文化遺産の専門調査を行う機関です。 - ICCROM(イクロム)
文化財の保存及び修復の研究のための国際センターで、本部をイタリアのローマに置く政府間機関で、1956年に設立されました。
要するに文化遺産の保全強化を目的に技術者や専門家を養成する機関です。
» 折りたたむ
ヌビアの遺跡群救済キャンぺーン
エジプトのアブ・シンベル神殿
エジプトのナイル川沿いにあるアブ・シンベル神殿からフィラエまでのヌビア地方にある遺跡群の救済キャンペーンは、世界遺産条約の理念に大きな影響を与えました。
1952年、エジプトのナセル大統領は、国家の近代化と国民の生活向上のためにアスワン・ハイ・ダムの建設計画を策定。
その計画が実行に移されると「アブ・シンベル神殿」や「フィラエのイシス神殿」などのヌビア地方の遺跡群がダム湖に水没してしまう。
そのためナセル大統領から救済を依頼されたユネスコは、経済開発と遺産保護の両立という難題に取り組むべく、遺産救済キャンペーンを1960年より開始し、1964年には本格的な募金活動が始まりました。
結局、アブ・シンベル神殿の石像をブロックに裁断し、ダム湖の水面より高い丘の上に移設するスウェーデン案が採用されました。
このユネスコの遺産救済キャンペーンでは、アブ・シンベル神殿が救済されただけでなく、一国の遺産の救済に約50カ国もの国々や民間団体、個人が協力したことで「人類共通の遺産」という理念が生まれ、それが後の世界遺産条約の理念にも繋がっていきました。
ユネスコはこの事例を受けて、1968年に「文化遺産の保存と経済開発との調和を図ることは各国の義務である」と強調する「公的又は私的の工事によって危機にさらされる文化財の保存に関する勧告」を採択しました。
その他の救済キャンペーン
この他にもユネスコは
- 地盤の悪化により水没しつつあるイタリアのヴェネツィアに対する1966年の救済キャンペーン
- 風雨にさらされたことにより劣化の進んでいたインドネシアのボロブドゥールの仏教寺院群に対する1968年からの救済キャンペーン
などを行っています。
では次ページでは「世界遺産登録の条件」についてお話していきます!