【徹底解説】「東フランク」のその後 ~神聖ローマ帝国編~

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カノッサの屈辱と大空位時代

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962年にオットー一世がドイツ王になりザクセン朝を建国しましたが長くは続かずその後様々な王朝が興亡します。

そしてイタリア政策に熱中し過ぎて大空位時代(だいくういじだい)という、20年間神聖ローマ帝国皇帝の不在時代が訪れます。

イタリア政策に熱中し過ぎて、20年間も神聖ローマ帝国皇帝が不在の時期があった!!!!

では簡単に各王朝の出来事を説明していきます。

ザクセン朝(962-1024)

ザクセン朝と言えば、何と言ってもオットー一世ですね!

父親のハインリヒ一世と同様に東方から侵攻してきたマジャール人を撃退し、教皇領を脅かしていた「キリスト教の敵」も撃退し、キリスト教の守護者としての使命を果たし962年ローマ教皇から戴冠されました(=神聖ローマ帝国の始まり

4代に渡ってザクセン家が神聖ローマ帝国の皇帝になるも、1024年に断絶しザーリアー朝に。

ザーリアー朝(1024-1125)

ザーリアー朝と言えば、何と言ってもハインリッヒ四世ですね!

このハインリヒ四世は、父親ハインリッヒ三世が急死しわずか6歳で神聖ローマ帝国の皇帝に就きました。

オットー一世から続く帝国教会政策を続けており、1073年に教皇になったグレゴリウス七世と激しく対立し『カノッサの屈辱』が起きてしまいます。

もう一度言いますが、帝国教会政策とは「政府が聖職者を任命し教会に送り込んで統治する政策」です。

カノッサの屈辱を超ざっくり言いますと・・・

子供のように幼稚な喧嘩をしていた皇帝と教皇でしたが、結局教皇が勝って皇帝が雪の降る中三日三晩謝罪してなんとか許してもらえた。

という事件です。

詳しくはこちら↓(別タブで開きます)

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カノッサの屈辱

しかしハインリッヒ四世(皇帝)は破門撤回から4年後、大軍を率いてローマに遠征&占領し、対立教皇の手によって神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式を挙行しました。

教皇を武力で脅して「私に戴冠せよ」と命令したということですね。

その後ハインリッヒ四世は2人の息子にも裏切られ、次男(後のハインリッヒ五世)の手で捕らえられて王座から追われました。

オーストリア ハプスブルク家
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