RYOです
今回は、
東フランク王国のオットー一世がローマ教皇から戴冠されたことでドイツ地方に神聖ローマ帝国が生まれ、ハプスブルク家がそれを受け継ぐまで
をまとめたいと思います。
「東フランク王国ってなに?」
って方は先にこちらをお読みください↓
【図解でわかる】西ヨーロッパの原点「フランク王国建設と分裂」の話
カロリング朝が滅亡し、ザクセン朝が建国される(911年)
フランク王国はメロヴィング朝のクロヴィスの改宗に始まり、ピピンの寄進などでラヴェンナを教皇に寄進したカロリング朝がずっと続いていました。
西暦800年にはフランク王国のカール大帝が西ヨーロッパを統一しましたが、その3人の息子たちに領地を分割相続したので(普通は長男が全てを相続する)、息子たちは↓のようにそれぞれの領地を獲得しました。
それが
「西フランク王国」
「中部フランク王国」
「東フランク王国」
でした。
しかし、西フランク&中部フランク&東フランクでも徐々にカロリング朝の跡継ぎがいなくなり、東フランクでは911年にルートヴィッヒが死去したことによりカロリング家が断絶しました。
分裂した3つの国でカロリング朝が途絶え諸侯が分立し、これでカロリング朝終了です。
カロリング家の人間が途絶え、東フランク王国で次に出てきたのがザクセン家の人間でした。
これからの呼び名は「東フランク王国」では無く「ドイツ王国」となり、その後「神聖ローマ帝国」になりました。
ややこしいんですがしっかりと理解してください↓
911年 カロリング朝滅亡(東フランク王国)
911年-918年 フランケン朝(ドイツ王国)←一代だけわけわからん国王が混じってる
918年-962年 ザクセン朝(ドイツ王国)
962年-1806年 ザクセン朝(神聖ローマ帝国)
()は呼び名
※カロリング朝滅亡後、一代だけフランケン家の人間が国王となり、その後ザクセン家に引き継がれます。
当然すんなりとザクセン家の人間が国王になれたわけでは無く、当時ノルマン人やマジャール人の侵攻に対して彼らを追い払って手柄を立てたのがザクセン家のハインリッヒ一世だったんです。
ここからザクセン朝の時代になり、ハインリッヒ一世の息子オットー一世が神聖ローマ帝国の初代皇帝になりました。
オットー一世の戴冠と神聖ローマ帝国成立 962年
東フランク王国のハインリッヒ一世は東から攻めてきたマジャール人たちを見事に撃退しザクセン朝を開きました。
その子のオットー一世も、955年にマジャール人を破り、周辺のスラヴ人に対して軍事植民を行い、北イタリアで教皇領を脅かしていた「キリスト教の敵」も倒し、キリスト教布教に努めました。
父と同様に優れた功績をあげたオットー一世は962年の戴冠式でローマ教皇から「君こそローマ帝国の皇帝にふさわしい!」というお墨付きをもらい、ドイツを中心に諸侯をまとめあげました。
※当時は「神聖ローマ帝国」とは呼ばず、単に「ローマ帝国」「ドイツ王国」と呼ばれていた。しかし便宜上初期も「神聖ローマ帝国」と呼びます。
オットー一世が行った政策の一つに「帝国教会政策」があります。これは何かを簡単に言うと
政府が聖職者を任命して教会に送り込みまーす
というトンデモナイ政策です。(神に仕える人間って政府が決めれるもんなん?笑
少し詳しい説明はこちらでどうぞ↓(別タブで開きます)
歴代神聖ローマ皇帝の『イタリア政策』
オットー一世のみならず、歴代の神聖ローマ帝国の皇帝たちは皆「イタリア政策」を行います。イタリア政策を一言で言うと
キリスト教で最も権威が高い「ローマ教会」のあるイタリアを支配しようと頑張り続けた政策
です。歴代です、歴代の神聖ローマ帝国皇帝はほぼ全員です!!!!
ドイツ国王やのにドイツにはほとんど滞在せずにイタリア政策に邁進していました(笑)
ではなぜ「イタリア」に固執したのか?理由は主に3つありました。
➀神聖ローマ帝国が名ばかりだから
『神聖ローマ帝国』なんて名前のくせに「ローマ」を持っていない国、それが神聖ローマ帝国なんです。キリスト教の最高権威であるローマ教会を保持することが最重要課題だったんです。
つまり
【神聖ローマ帝国皇帝】なんて仰々しく名乗ってるくせに、キリスト教最高権威であるローマ教会のあるイタリアを神聖ローマ帝国が支配していなかったから
です。
②かつてのローマ帝国復活を目指したから
ローマ帝国の領地は下図の赤と青を合わせたくらい広かったんです↓
(ローマ帝国が東西に分かれた時点での地図)
それに比べて「神聖ローマ帝国」は下図↓のピンク色の部分しか領土として持っていませんでした。
(まあ現在のドイツの基になってる国ですからね)
つまり
かつてのローマ帝国は西ヨーロッパ全土(当然イタリアも含む)を支配していたのに、神聖ローマ帝国は主に現在のドイツ・オーストリアしか領土として持っていなかったから
でもあります。
③イタリアは経済的に豊かだったから
当時、イタリアはとても経済的に豊かで、上記の理由➀➁に加えて
北イタリアの豊かな経済力が欲しかったから
もイタリア政策の大きな目的であったといえます。
カノッサの屈辱と大空位時代
962年にオットー一世がドイツ王になりザクセン朝を建国しましたが長くは続かずその後様々な王朝が興亡します。
そしてイタリア政策に熱中し過ぎて大空位時代(だいくういじだい)という、20年間神聖ローマ帝国皇帝の不在時代が訪れます。
では簡単に各王朝の出来事を説明していきます。
ザクセン朝(962-1024)
ザクセン朝と言えば、何と言ってもオットー一世ですね!
父親のハインリヒ一世と同様に東方から侵攻してきたマジャール人を撃退し、教皇領を脅かしていた「キリスト教の敵」も撃退し、キリスト教の守護者としての使命を果たし962年ローマ教皇から戴冠されました(=神聖ローマ帝国の始まり)
4代に渡ってザクセン家が神聖ローマ帝国の皇帝になるも、1024年に断絶しザーリアー朝に。
ザーリアー朝(またはフランケン朝)(1024-1125)
ザーリアー朝と言えば、何と言ってもハインリッヒ四世ですね!
このハインリヒ四世は、父親ハインリッヒ三世が急死しわずか6歳で神聖ローマ帝国の皇帝に就きました。
オットー一世から続く帝国教会政策を続けており、1073年に教皇になったグレゴリウス七世と激しく対立し『カノッサの屈辱』が起きてしまいます。
もう一度言いますが、帝国教会政策とは「政府が聖職者を任命し教会に送り込んで統治する政策」です。
カノッサの屈辱をなるべく簡単に言いますと・・・
カノッサの屈辱
教皇が帝国教会政策を批判し「政府が聖職者を任命するのは禁止する」と決定し、それに対して皇帝も「あの教皇は不正な方法で教皇に即位したので、違う人物を教皇に選出する!」と対抗しました。
(=教皇 VS 皇帝)
結局、教皇は皇帝をキリスト教から破門し皇帝は統率力を失い国は大混乱。
皇帝は仕方なく教皇のいるカノッサ城まで出向いて三日三晩雪の降る中、謝罪し続けようやく破門を解いてもらえました。
という事件です。詳しくはこちら↓(別タブで開きます)
しかしハインリッヒ四世(皇帝)は破門撤回から4年後、大軍を率いてローマに遠征&占領し、対立教皇の手によって神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式を挙行しました。
教皇を武力で脅して「私に戴冠せよ」と命令したということですね。
その後ハインリッヒ四世は2人の息子にも裏切られ、次男(後のハインリッヒ五世)の手で捕らえられて王座から追われました。
ハインリヒ五世はローマ教会とも和解し、ローマ教皇の権威を確立するも跡継ぎが無くザーリアー朝は断絶し、代わって一代だけロタール三世のズップリンブルク朝(1126-1137)が成立しますが、あんまり詳しくわからなかったのでパスします(笑)
シュタウフェン朝(1138-1254)
ロタール三世のズップリンブルク朝に代わって成立したのが、6代続くことになるシュタウフェン朝です。
有名なのが
赤髭王(バルバロッサ)フリードリヒ一世とその孫フリードリヒ二世
です。
歴代のシュタウフェン朝皇帝は、一度ハインリヒ五世が仲直りしたのに神聖ローマ帝国皇帝の権威回復に努め再びローマ教皇と激しく対立します。
また、イタリア政策に重点を置いたので、本国ドイツ内では多くの有力諸侯が分立し全く統一されていませんでした。
ドイツ国内「あれ、皇帝ずっとイタリア行ってるやん。もうこっちは好きなことしよーや。どうせ親愛なる皇帝様はドイツには興味ないんやし」
神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世は、イタリア全土の支配を目指し、息子ハインリヒを(イタリアの)シチリア王国の王女と政略結婚させました。
案の定ハインリヒはシチリア王になり、その子フリードリヒ二世もシチリア王と神聖ローマ皇帝になってドイツ王とシチリア王を兼任しました。
当時のシチリアはヨーロッパで最も進んだ文化を生み出しフリードリヒ二世は「最初の近代的人間」と呼ばれるようになりましたが、ほとんどシチリアから離れなかったので、ドイツ国内がどんどん分裂し、コンラート四世を最後に1254年から神聖ローマ帝国は「大空位時代」に突入しました。
大空位時代(1254-1273)
大空位時代
神聖ローマ帝国の皇帝が実質的に空位になっていた20年間を指す言葉
そりゃイタリア政策ばっかやってシチリア王としてイタリアに君臨してたらドイツでは混乱が起きるわ!という感じですけどね・・・
※しかし注意したいのは、神聖ローマ皇帝はいたがドイツ人では無かったという事です。つまり「大空位時代」とはドイツ史的にそう呼ばれるだけで、実際は神聖ローマ皇帝は存在しました。
当時、神聖ローマ帝国がイタリア政策に夢中なのを見てフランスとイギリスが神聖ローマ帝国解体を目的に「ドイツ人以外の皇帝」選出を目論んでいました。
フランスやイギリス側の人間が神聖ローマ皇帝になれば、将来ドイツの領土はそっくりそのまま自分たちの領土にできそうですからね。
しかし非ドイツ人の皇帝はいたものの結局ドイツを統一的に支配することはできずに、その状態が20年続きました。
金印勅書と7選帝侯(1356年)
【神聖ローマ帝国安泰】
神聖ローマ皇帝不在の大空位時代(だいくういじだい)を経て1273年にハプスブルク家のルドルフ一世が神聖ローマ皇帝になり帝国内の安定を図りました。
しかし帝位はハプスブルク家→ナッサウ家→ルクセンブルク家→ヴィッテルスバッハ家と目まぐるしく交替し、同時に二人が皇帝に選出される状態も起き神聖ローマ帝国は完全にパニック状態に。
1273年~1356年まで完全に政治的混乱の時代。1356年ようやくルクセンブルク家のカール四世が金印勅書(きんいんちょくしょ)を定めて7選帝侯(ななせんていこう)を固定し、神聖ローマ帝国が安定の時代に入りました。
では金印勅書とは何か?簡単に言うと
金印勅書
神聖ローマ皇帝選出の原則を定めた法律
です。その中で金印勅書は7選帝侯(せんていこう)という存在を規定しました。では7選帝侯とは何か?簡単に言うと
7選帝侯
神聖ローマ皇帝を選ぶことができる(投票権のある)7つの諸侯
です。この当時の神聖ローマ皇帝は世襲制では無く選挙制だったので、神聖ローマ皇帝は7人の多数決で決めるという事です。
7人のうち3人が聖職者、4人が有力諸侯で構成されており、マインツ大司教が最も力を持ち彼は「神聖ローマ皇帝の補佐役」でもありました。
金印勅書の内容とは?
では金印勅書の内容に軽く触れておきます。要は「神聖ローマ皇帝選出の際にもめないように」が大原則であります。
金印勅書は全部で31条あり、例えば
・選帝侯は3聖職諸侯、4世俗諸侯で構成される
・選挙は公開投票で多数決原理に従って行われる
・選挙結果に従わない選帝侯は、選帝侯位そのものを失う
・選挙はフランクフルト市で行い、戴冠式はアーヘンで行う
・選挙結果は教皇の承認を必要としない
・選帝侯は領内における様々な特権(裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造兼、ユダヤ人保護権)を付与される
などがあります。
初めの3項目は「神聖ローマ皇帝選出」に重要であり、次の2項目は「ローマ教皇の介入防止」に重要であり、最後の1項目は「選帝侯の特権確保」に重要でした。
ハプスブルク家はカール四世に「将来の対抗勢力」と見なされ、この名誉ある選帝侯には選ばれませんでした。
(金印勅書を出したカール四世の娘とハプスブルク家のルドルフ四世は結婚しているのに)
※しかしハプスブルク家は選帝侯には選ばれませんでしたが、地道に勢力を拡大し、後に選帝侯国を上回る領邦国家を建設します。
ハプスブルク家 1438年-1918年
1438年、オーストリアを本拠とするハプスブルク家のアルブレヒト二世が神聖ローマ皇帝に選出され、それ以降1806年の神聖ローマ帝国滅亡まで皇帝位を独占することになりました。
ハプスブルク家と言えば「女帝マリア・テレジア」や「后妃エリザベート」、「マリーアントワネット」など有名な人物が数多く登場します。
ハプスブルク家のルドルフ一世は1273年に一度神聖ローマ皇帝になっていましたが、混乱状態のなか長続きはしませんでした。
ハプスブルク家のお話はとっっっっても長くて複雑なので、これこそ簡単にパッパッといきますね!
ちょっと詳しめの話は別の記事でしますのでお楽しみに