【徹底解説】「東フランク」のその後 ~神聖ローマ帝国編~

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ハインリヒ五世はローマ教会とも和解し、ローマ教皇の権威を確立するも跡継ぎが無くザーリアー朝は断絶し、代わって一代だけロタール三世のズップリンブルク朝(1126-1137)が成立しますが、あんまり詳しくわからなかったのでパスします(笑)

シュタウフェン朝(1138-1254)

ロタール三世のズップリンブルク朝に代わって成立したのが、6代続くことになるシュタウフェン朝です。

有名なのが赤髭王(バルバロッサ)フリードリヒ一世とその孫フリードリヒ二世です。

歴代のシュタウフェン朝皇帝は、一度ハインリヒ五世が仲直りしたのに神聖ローマ帝国皇帝の権威回復に努め再びローマ教皇と激しく対立します。

また、イタリア政策に重点を置いたので、本国ドイツ内では多くの有力諸侯が分立し全く統一されていませんでした。

キリスト教 宗派
ドイツ国民

あれ、皇帝ずっとイタリア行ってるやん。もうこっちは好きなことしよーや。

どうせ親愛なる皇帝様はドイツには興味ないんやし

神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世は、イタリア全土の支配を目指し、息子ハインリヒを(イタリアの)シチリア王国の王女と政略結婚させました。

案の定ハインリヒはシチリア王になり、その子フリードリヒ二世もシチリア王と神聖ローマ皇帝になってドイツ王とシチリア王を兼任しました。

当時のシチリアはヨーロッパで最も進んだ文化を生み出しフリードリヒ二世は「最初の近代的人間」と呼ばれるようになりましたが、ほとんどシチリアから離れなかったので、ドイツ国内がどんどん分裂し、コンラート四世を最後に1254年から神聖ローマ帝国は「大空位時代」に突入しました。

大空位時代(1254-1273)

木

大空位時代

神聖ローマ帝国の皇帝が実質的に空位になっていた20年間を指す言葉

そりゃイタリア政策ばっかやってシチリア王としてイタリアに君臨してたらドイツでは混乱が起きるわ!という感じですけどね・・・

※しかし注意したいのは、神聖ローマ皇帝はいたがドイツ人では無かったという事です。

つまり「大空位時代」とはドイツ史的にそう呼ばれるだけで、実際は神聖ローマ皇帝は存在しました。

当時、神聖ローマ帝国がイタリア政策に夢中なのを見てフランスとイギリスが神聖ローマ帝国解体を目的に「ドイツ人以外の皇帝」選出を目論んでいました。

フランスやイギリス側の人間が神聖ローマ皇帝になれば、将来ドイツの領土はそっくりそのまま自分たちの領土にできそうですからね。

しかし非ドイツ人の皇帝はいたものの結局ドイツを統一的に支配することはできずに、その状態が20年続きました。

金印勅書と7選帝侯(1356年)

東フランク王国 神聖ローマ帝国

神聖ローマ皇帝不在の大空位時代(だいくういじだい)を経て1273年にハプスブルク家のルドルフ一世が神聖ローマ皇帝になり帝国内の安定を図りました。

しかし帝位はハプスブルク家→ナッサウ家→ルクセンブルク家→ヴィッテルスバッハ家と目まぐるしく交替し、同時に二人が皇帝に選出される状態も起き神聖ローマ帝国は完全にパニック状態に。

1273年~1356年まで完全に政治的混乱の時代です。

1356年ようやくルクセンブルク家のカール四世が金印勅書(きんいんちょくしょ)を定めて7選帝侯(ななせんていこう)を固定し、神聖ローマ帝国が安定の時代に入りました。

では金印勅書とは何か?簡単に言うと

金印勅書

神聖ローマ皇帝選出の原則を定めた法律

です。

その中で金印勅書は7選帝侯(せんていこう)という存在を規定しました。

では7選帝侯とは何か?簡単に言うと

7選帝侯

神聖ローマ皇帝を選ぶことができる(投票権のある)7つの諸侯

です。

この当時の神聖ローマ皇帝は世襲制では無く選挙制だったので、神聖ローマ皇帝は7人の多数決で決めるという事です。

7人のうち3人が聖職者、4人が有力諸侯で構成されており、マインツ大司教が最も力を持ち彼は「神聖ローマ皇帝の補佐役」でもありました。

金印勅書の内容とは?

では金印勅書の内容に軽く触れておきます。

要は「神聖ローマ皇帝選出の際にもめないように」が大原則であります。

金印勅書は全部で31条あり、例えば・・・

» 続きを読む↓

・選帝侯は3聖職諸侯、4世俗諸侯で構成される

・選挙は公開投票で多数決原理に従って行われる

・選挙結果に従わない選帝侯は、選帝侯位そのものを失う

・選挙はフランクフルト市で行い、戴冠式はアーヘンで行う

・選挙結果は教皇の承認を必要としない

・選帝侯は領内における様々な特権(裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造兼、ユダヤ人保護権)を付与される

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などがあります。

初めの3項目は「神聖ローマ皇帝選出」に重要であり、次の2項目は「ローマ教皇の介入防止」に重要であり、最後の1項目は「選帝侯の特権確保」に重要でした。

ハプスブルク家はカール四世に「将来の対抗勢力」と見なされ、この名誉ある選帝侯には選ばれませんでした。

(金印勅書を出したカール四世の娘とハプスブルク家のルドルフ四世は結婚しているのに)

※しかしハプスブルク家は選帝侯には選ばれませんでしたが、地道に勢力を拡大し、後に選帝侯国を上回る領邦国家を建設します。

ハプスブルク家 1438年-1918年

双頭の鷲

1438年、オーストリアを本拠とするハプスブルク家のアルブレヒト二世が神聖ローマ皇帝に選出され、それ以降1806年の神聖ローマ帝国滅亡まで皇帝位を独占することになりました。

ハプスブルク家と言えば「女帝マリア・テレジア」や「后妃エリザベート」、「マリーアントワネット」など有名な人物が数多く登場します。

ハプスブルク家のルドルフ一世は1273年に一度神聖ローマ皇帝になっていましたが、混乱状態のなか長続きはしませんでした。

ハプスブルク家のお話はとっっっっても長くて複雑なので、これこそ簡単にパッパッといきますね!

ちょっと詳しめの話は別の記事でしますのでお楽しみに↓

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