⑦【ロマネスク建築】ゲルマン人とキリスト教【2/5】

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ヨーロッパを旅する前に知っておくべき西洋建築の知識として、今回はロマネスク建築について説明します。

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※明言しますが、西洋建築の勉強をしてからヨーロッパに行けば無学で行くより100倍楽しめます。

筆者
5回にわたってヨーロッパ30ヵ国以上を完全無学で周ってきた僕が言うので間違いありません(笑)

※「この部分がわかりにくいです」とか「これはどうなんですか?」などの質問やコメント等ありましたら遠慮なく下部のコメント欄からお問い合わせください!

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本記事は「ゲルマン人とキリスト教」を解説しています。

ゲルマン人とキリスト教

この章の特に重要な点を挙げると以下の3点になります↓

この記事のPOINT

➀ゲルマン人大移動

②キリスト教の普及

③古典建築の衰退と中世建築の開花

それぞれ解説します。

ローマ建築衰退以降、ロマネスク建築成立までは長い時間(およそ600年)かかります。

その間の歴史的な出来事の1つがゲルマン人大移動です。

下に大まかな流れを記しましたので、先にざっと目を通してください。

ローマ帝国の東部にゲルマン人という民族が住んでいた。

→フン族という民族に攻められて西(ローマ帝国方面)に逃げた。

→フン族の追撃が激しく、大量のゲルマン人がローマ帝国内に逃げ込んだ。

→異民族の侵入によりローマ帝国大パニック

→結局ローマ帝国は東西に分かれ、特にゲルマン人が多く侵入した西ローマ帝国はすぐ滅亡

→滅亡した西ローマ帝国跡地でゲルマン人たちが色んな国家を建て始めた。

まあゲルマン人に乗っ取られたってことですね、ローマ帝国が(笑)

【超重要】ゲルマン人と一口に言っても、○○人とか△△人などバラバラで、1つの民族ではありません‼

イメージ的には、

・中国人

・韓国人

・日本人

・インド人

・フィリピン人

・ベトナム人

を全て「アジア人」と一括りにしている感じです。

ゲルマン人は(本書曰く)文字をもたず、都市を知らず、自然を崇拝し、厳しい自然環境のなかで素朴な生活を営んでいた民族らしいです。

➀ゲルマン人大移動

まず、下に示したのは紀元前2世紀頃の地図ですがローマ帝国は現在のヨーロッパや北アフリカを支配していた超強大広大な帝国でした。

ゲルマン人とは、もともとはバルト海の沿岸部にいくつかの部族に分かれて住んでいた民族のことです。

彼らは紀元前1世紀以降、人口増加や農地の不足から、北ヨーロッパのケルト民族を圧迫しながらドナウ川やライン川の北側(つまりローマ帝国の方面)まで進出します。

ゲルマン人とローマ帝国

その結果、ゲルマン人がローマ帝国と接触するようになっていきました

ゲルマン人の中には、奴隷や傭兵、コロヌス(小作人)としてローマ帝国内に移住する者も出てきます。

しかしゲルマン人はローマ帝国内の人々とは文化も宗教も全く違う異民族なので、基本的にローマ帝国とは干渉せずに日々を過ごしていました。

地図上ではゲルマン民族の勢力図を1つの塊としていますが、ゲルマン民族は様々な部族の寄せ集めのため、まとまった集団ではありません。

フン族の出現

しかし!!

4世紀にゲルマン民族の一部族で黒海沿岸に住んでいた東ゴート族が、アジア系の遊牧民族であるフン族に征服されます↓

※フン族に関してはあまり深く分かっていませんが、中国にしばしば侵入した匈奴(きょうど)と同じ系列の民族と考えられています。

フン族(≒匈奴?)は非常に猛々しい民族で(つまりめっちゃ強い‼)、当時の中国では非常に恐れられていました。

万里の長城はその匈奴の侵入を防ぐために建てられたと言われています。

ゲルマン民族大移動の始まり

フン族はさらに押し進んで西ゴート族を圧迫し、フン族に追われた西ゴート族は375年、ついにドナウ川を越えてローマ帝国内に流入します。

これが民族大移動のきっかけとなります。

まさに蟻の一穴ですね(´っ・ω・)っ

一度ローマ帝国内に逃げ込んだ西ゴート族(ゲルマン人)はもう遠慮なく次から次へとローマ帝国内に逃げ込み始めます。

おぉーっと、西ゴート族の流入が止まる気配がなーーーーい!!!!!!
と古舘伊知郎なら実況しているでしょう、フン族恐ろしい。

ローマ帝国分裂

ローマ帝国の分裂は395年なので、ゲルマン人(民族)大移動が始まっておよそ20年後のことですね。

フン族から追われたゲルマン人が大量にローマ帝国内に流入したことにより、ローマ帝国は混乱し統一的に国を治めることができず、分裂しました。

なんせ宗教も文化も全く違う異民族が大量に入ってきたわけですからね・・・。

分裂後の大体のイメージがこれです↓

しかし実はゲルマン人大移動はこれから約200年間続き、ローマ帝国分裂は大移動開始から20年後と、割と大移動の序盤で東西に分裂したのでした。

西ローマ帝国内にゲルマン人国家が乱立

西ゴート族はその後2回にわたってローマ市内で大規模な略奪を行うなどしたため、ローマ皇帝は帝国内に西ゴート王国をつくることを認めざるを得なくなりました。

ローマ皇帝「もうお前ら自分の国作ってええから、帝国内では悪さすな!」

これも蟻の一穴ですね。

もはやホラーです。

これに続いて、

「東ゴート族」
「ヴァンダル族」
「ブルグント族」
「フランク族」
「ランゴバルド族」
「アングロ・サクソン・ジュート」

などのゲルマン諸民族も大移動を開始し、(西ローマ帝国内の)定住した場所にそれぞれの国を建てました。

つまり言葉も文化も違う大量のゲンルマン人が「統一されていた帝国」に逃げ込んだのです。

そりゃパニックになりますよね。

ゲルマン人大移動はおよそ200年間続き、西ローマ帝国を混乱に陥れた後に滅亡させました。

既に述べましたが、東ローマ帝国はその後1,000年以上存続します。

西ローマ帝国滅亡

こうして、弱体化した西ローマ帝国は、ゲルマン出身の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされます。

もちろん各ゲルマン国家同士の争いも多く、お隣の東ローマ帝国との争いも多いのですが、それはまた別のお話(←というか筆者が知らないだけww)

ゲルマン人大移動の影響が少なかった東ローマ帝国は、分裂から1,000年以上繁栄しました。

そこで発展したのがビザンティン建築です。

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とりあえずここまでの流れはOKでしょうか?

ゲルマン人大移動については、別の記事でも説明していますので参考にして下さい↓

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②キリスト教の普及

ゲルマン人大移動の前の話になりますが、西暦400年頃のローマ帝国の時代にキリスト教はローマ帝国の国教となり、爆発的に帝国内外に広まりました。

その状態で、

「ゲルマン人大移動」

→「ローマ帝国の東西分裂」

→「西ローマ帝国滅亡」

→「ゲルマン人達が国家を乱立」(ここまでは既述)

も同時に起きました。

もともとゲルマン人は、帝国民と同じキリスト教でもローマ帝国で認められていたのとは違う宗派(アリウス派)を信仰していたようで、アタナシウス派を信仰する国家領内の民たちとのわだかまりが大きく新たな国家が興亡を繰り返していました。

※同じキリスト教徒でも、宗派が違うだけでお互いに分かり合えないらしい。

その中で唯一、領民と同じアタナシウス派に改宗したフランク王国が、その後西ヨーロッパを統一(=カール大帝)し、再びキリスト教が西ヨーロッパで落ち着きを取り戻しました。

現在のヨーロッパの地図の基となったフランク王国はこちらで解説↓(別タブで開きます)

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ではここで質問です。

Q. キリスト教が爆発的に普及するのに伴って建てられる建築物は何でしょうか?

A. そう、教会堂(※)です。

※「教会」をカッコよく表現しただけと考えてください

4世紀にローマ帝国でキリスト教が公認されると、信者のための教会堂が各地に一斉に建てられ始めました。

ですので、

中世以降の建築物は全て教会堂としての機能に焦点を当てています。

↑ローマ帝国衰退期~ロマネスク建築完成までの期間は、木造天井と屋根をもったバシリカ式(これを初期キリスト教建築と呼ぶ)でしたが、

↑ロマネスク建築では石造り天井をもった耐久性のある教会堂建設を目指しました。

中世建築はロマネスク建築から始まったのでだいぶしっかりめに説明しています!

初期キリスト教建築についてまだ読んでいない方はこちらから↓(別タブで開きます)

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③古典建築の衰退と中世建築の開花

ということで、ここまでの内容をザっとおさらいします↓

➀ローマ帝国でローマ建築が発展した。

➁キリスト教が国教となり、教会が重要になった。

③ゲルマン人大移動が起きてローマ帝国が分裂した。

④西ローマ帝国跡地でゲルマン人が国家を乱立した。

⑤ゲルマン人は各地に残るローマ建築を教会として利用しようとした。

さて、ここからが本題です。

ゲルマン人は初め、ローマ帝国の跡地に残っているローマ建築物を利用して更なる発展を目指しました。

しかし、文明と触れてこなかったゲルマン人たちにとって、完成されたローマ建築をそのまま受け継ぐことは不可能でした。

冒頭でも書きましたが、なぜならゲルマン人は(本書曰く)

➀文字をもたず

➁都市を知らず

③自然を崇拝し

④厳しい自然環境のなかで素朴な生活を営んでいた

民族だからです。

お、ローマ人が創ったローマ建築そのまんま使えるやん!
ラッキー棚ぼた棚ぼた~♪
5分後・・・。
え、ちょ待って…。
あいつらの技術高過ぎるねんけど。
神業ワロタww

って状態です。

結局、ローマ建築を参考にしながらも(逆に言えば参考にするのが精一杯だった)、自分たちのオリジナルの建築様式を創造するまでに600年の歳月がかかります。

なので6世紀以降、建設技術はどんどん低下の一途をたどっていきました。

古典的教養のある建築家や技術に優れた職人はしだいに姿を消し、ローマ時代の石切場は生産を停止しました。

建設工事で最も労力を要する「石材の運搬」も、なるべく地元に産する比較的小さな石材を使う事で解決しました。

つまり、

小規模な建物しか造れない!!

という事です。

ギリシャ建築のような、大きな一本石から正確に切り出す必要のある古典的な円柱は望んでも得られない高嶺の花になってしまいました。

そんな中、西ヨーロッパの大部分を統一したフランク王国のカール大帝の時代に完成した建築様式がロマネスク建築なのです。

長々と説明してきましたが、つまりロマネスク建築とは

ローマ人が用いたローマ建築の技術を参考にしながらも、完全に真似することは不可能だったので、自分たちで新しい建築様式を創造するしかなかった

ってことです。


では次に、キリスト教会堂の2つの形式についてお話したいと思います↓

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