RYOです
今回はフランク王国建国と分裂までを説明します。
フランク王国と言えば、ずばり西ヨーロッパの原点です!
5回にわたってヨーロッパ30ヵ国以上を完全無学で周ってきた筆者が言うので間違いありません(笑)
では始めます!
フランク王国とは
そもそもフランク王国とは何か。
一言で言うなら
という事になります。
このフランク王国は大きく3つ(フランス・ドイツ・イタリア)に分裂し、それが現在のヨーロッパの地図になっているというお話です。
(出典:メルセン条約後の西ヨーロッパの地図)
↑870年にフランク王国が3つに分かれた直後の地図です。
ローマ帝国が東西に分かれる 395年
話はローマ帝国が分裂する時代まで遡ります。
まずは西暦395年、現在のヨーロッパを統一していた「ローマ帝国」がゲルマン人大移動に伴う混乱(後述します)で東西に分かれました。
それが
- 西ローマ帝国
- 東ローマ帝国
です。
東西分裂後のローマ帝国はこうなりました↓
これが東西分裂後のなんとなくの領域です。
東ローマ帝国 395年-1453年
東ローマ帝国はその後『ビザンツ帝国』と名前を変え(※ビザンチン帝国とも言う)、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでおよそ1,000年もの長い間繁栄することになりました。
ギリシア正教を国教とした現在の東ヨーロッパ諸国の原点ともいえる帝国です。
東ローマ帝国が影響を及ぼした東ヨーロッパ諸国は、トルコを中心とするだいたいこの黄色で囲まれた地域の国々です↓
まあ東ローマ帝国の話はここまでにしときます。
ゲルマン人大移動と西ローマ帝国滅亡 375年-476年
一方、今回の本題は東ローマ帝国ではなく西ローマ帝国です。
西ローマ帝国はゲルマン人大移動に伴って大量のゲルマン人が帝国内に流入して大混乱が起き、(約1,000年続いた東ローマ帝国と違い)わずか80年後の西暦476年に滅亡します。
ではこれから、ゲルマン人大移動が始まる前後から西ローマ帝国滅亡までを説明していきます。
ゲルマン人大移動によって西ローマ帝国が混乱状態になり滅亡したと書きましたが、「ゲルマン人大移動」自体を説明する必要があると思うので、ちょっとだけ頑張りましょう(`・ω・´)ゞ
➀ゲルマン人
ゲルマン人とは、もともとはバルト海の沿岸部にいくつかの部族に分かれて住んでいた民族のことです。
ローマ帝国とは無関係です↓
彼ら(ゲルマン人)は紀元前1世紀以降、㋐人口増加や㋑農地の不足から、北ヨーロッパのケルト民族(先住民)を圧迫しながらドナウ川やライン川の北側(つまりローマ帝国の方面)まで進出します。
それまでは、ゲルマン民族とローマ帝国民はお互いに干渉することなく共存していました(●´ω`●)
②ゲルマン人とローマ帝国
しかし上述したように、ゲルマン人が人口増加や農地の不足からローマ帝国方面に進出した結果、ゲルマン人がローマ帝国と接触するようになっていきました。
ゲルマン人の中には、奴隷や傭兵、コロヌス(小作人)としてローマ帝国内に移住する者も出てきます。
しかしゲルマン人はローマ帝国内の人々とは文化も宗教も全く違う異民族なので、基本的にローマ帝国とは干渉せずに日々を過ごしていました。
この「文化も宗教も全く違う異民族」というのが非常に重要なポイントです。
ローマ帝国側としても異民族を領内に入れるのは本当は避けたかったと思います、混乱の元なので。
③フン族の出現
しかし!!
4世紀にゲルマン民族の一部族で黒海沿岸に住んでいた東ゴート族(←もちろんゲルマン民族)が、アジア系の遊牧民族であるフン族に征服されます。
フン族に関してはあまり深く分かっていませんが、中国にしばしば侵入した匈奴(きょうど)と同じ系列の民族と考えられています。
ここからは豆知識ですが、中国の世界遺産「万里の長城」はその匈奴の侵入を防ぐために建てられたと言われています。
匈奴は中国北方の遊牧民族であり、知武勇に優れた非常に優秀な戦闘民族として知られており、春秋戦国時代の中国では非常に恐れられていました。
※匈奴は中国北方の部族
特に北方の匈奴と衝突を繰り返していた
- 秦(しん)
- 趙(ちょう)
- 燕(えん)
の3カ国は匈奴の侵入を防ぐために延々と連なる城壁をバラバラに建てていました。
それを中国統一後の秦の始皇帝が繋げたのが現在の万里の長城なのです。
つまり、これほど恐ろしい民族がヨーロッパ北方のゲルマン人を襲ったのです。
そんな最強民族に攻められたら、そらゲルマン人も逃げますよね。
④ゲルマン民族大移動の始まり
フン族(≒匈奴?)はさらに押し進んで西ゴート族を圧迫し、フン族に追われた西ゴート族は375年、ドナウ川を越えてローマ帝国内に流入します。
これが民族大移動のきっかけとなります。
フン族に攻められて仕方なくローマ帝国の領地に逃げ込んだんですね、これはまさに蟻の一穴でした。
今まで絶妙な均衡を保っていたローマ帝国とゲルマン人でしたが、一度ローマ帝国内に逃げ込んだ西ゴート族(ゲルマン人)はもう遠慮なく次から次へとローマ帝国内に逃げ込み始めます。
⑤ローマ帝国分裂
ローマ帝国の分裂は395年なので、ゲルマン人(民族)大移動が始まった375年からおよそ20年後のことですね。
フン族に追われたゲルマン人が大量にローマ帝国内に流入したことにより、ローマ帝国は混乱し統一的に国を治めることができず分裂しました。
なんせ宗教も文化も全く違う異民族が大量に入ってきたわけですからね…。
イメージ的には、現在の日本に意味不明の言語を話す難民が2億人逃げ込んできて、特に関西地方に大挙したので関西はそのままその民族に乗っ取られた的な感じです。
関東はまだ日本人が多く残っていたので、東日本として継続するような感じです。
しかし実はゲルマン人大移動は約200年間続き、ローマ帝国分裂は大移動開始から20年後と、割と大移動の序盤で東西に分裂したのでした。
⑥西ローマ帝国内にゲルマン人国家が乱立
西ゴート族はその後2回にわたってローマ市内で大規模な略奪を行うなどしたため、ローマ皇帝は帝国内に西ゴート王国をつくることを認めざるを得なくなりました。
これも蟻の一穴ですね。
これから恐ろしいことが立て続けに起こります。
西ゴート王国に続いて、
- 東ゴート族
- ヴァンダル族
- ブルグント族
- フランク族
- ランゴバルド族
- アングロ・サクソン・ジュート
などのゲルマン諸民族も移動を開始し、定住した場所にそれぞれの国を建てました。
※今回の主役はこの乱立した民族の1つ「フランク族」です。
つまり大量のゲンルマン人が「統一されていた帝国」に逃げ込んだのです。
そりゃパニックになりますよ。
ゲルマン人大移動はおよそ200年間続き、西ローマ帝国を混乱に陥れた後に滅亡させました。
⑦西ローマ帝国滅亡
ゲルマン人と一口に言っても「○○人」「△△人」「□□人」などほんと様々です。
375年に始まったゲルマン人大移動により395年にローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国内にゲルマン人たちがどんどん王国(主に7つ)を建設していきました。
その7つの王国というのが、
- フランク王国
- 西ゴート王国
- 東ゴート王国」
- ランゴバルト王国
- ブルグンド王国
- ヴァンダル王国
- アングロサクソン七王国
です。
(成立年はバラバラなので一気に同時多発的に王国が乱立したわけではありません)
~王国の「王国」を「族」にすればそっくりそのまま民族名になります。
つまり、
「西ゴート族」
「東ゴート族」
・・・
「アングロサクソン族」
ってな感じです。
こうして、弱体化した西ローマ帝国は、ゲルマン出身の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされます。
もちろん各ゲルマン国家同士の争いも多く、お隣の東ローマ帝国との争いも多いのですが、それらを語る知識は無いのでザックリいきますね。
⑧フランク王国のみ生き残る
ゲルマン民族の諸国家はフランク王国を除いて比較的短命です。
» ゲルマン人各諸国家の寿命↓
東ゴート王国(享年62歳)
西ゴート王国(享年296歳)
ロンゴバルド王国(享年206歳)
ブルグント王国(享年91歳)
ヴァンダル王国(享年105歳)
フランク王国(享年362歳)
※800年西ヨーロッパ統一
※843年に分裂
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諸国家が滅亡した理由は様々ですが、西ヨーロッパに興ったゲルマン人国家のうち、最終的に生き残ったのはフランク王国だけでした。
フランク王国も843年に分裂しましたが、滅亡とは違います。
なぜなら3人の子供たちに分割相続されただけだからです。
つまり、
西フランク王国 → 現在のフランス
中部フランク王国 → 現在のイタリア
東フランク王国 → 現在のドイツ
として、フランク王国はまだ生き続け、結局フランク王国が本当に滅亡したのは987年です。
では、唯一生き残ったフランク王国の建国から分裂までを次項で説明します。
ややこしくてすみませんね。
» これまでの流れを確認
ゲルマン人大移動開始(375)
→ローマ帝国分裂(395)
→西ローマ帝国滅亡(476)
→ローマ帝国跡地にゲルマン人国家乱立
→フランク王国の歴史(481~)
→フランク王国以外はバタバタ滅亡していく
» 折りたたむ
どうですか、ここまでの流れを確認出来たら次に移ります!
クロヴィス一世がメロヴィング朝を建国(481年-751年)
※クロヴィス一世
フランク王国を建国したクロヴィス一世は、まずは国号を決めました。
それが「メロヴィング朝」です。
ちょっとわかりにくいですがクロヴィス一世は、
が正式な名称のようです。
※例えて言えば、2023年10月現在の日本の総理大臣は岸田文雄氏ですので、日本は現在「キシダ朝」とも呼べるわけです。
もし次に河野太郎氏が総理大臣になったら「(キシダ朝を倒した)コウノ朝」となるわけです。
クロヴィス一世はフランク王国をどんどん大きくしていき、いつの間にかイタリア半島の東ゴート族と並ぶ強国にまで成長しました。
しかし(前述したように)基本的にゲルマン人国家は長続きせず、短期間で滅びました。
それには以下の3つの理由があると言われます↓
➀異端派から正統派へ改宗したから(496年)
②キリスト教世界を守ったから(732年)
③ラヴェンナ地方を教皇に寄進したから(756年)
それぞれ解説します。
➀異端派から正統派へ改宗したから(496年)
そもそもゲルマン人の多くはキリスト教でもアリウス派という異端派でした。
この〇〇派の違いがどれだけ違うかはよくわかりません。
でも争いになるくらいなので結構違うんでしょうね。
興味があれば調べてからコメントで教えてください(笑)
しかしローマ帝国の国教はアタナシウス派という正統派だったため、
「先住民と上手くやっていくには彼らと同じ宗派に改宗する方が良い」
と妻に説得され、クロヴィス一世は家臣3,000名とともにアタナシウス派の洗礼を受けました。
この結果、ローマ教会や貴族との連携に成功し、先住民との関係も円滑になり、フランク王国発展の基礎を築くことができたのです。
この時代、ヨーロッパはキリスト教一色だった事もあり、キリスト教と共存することがとても大事だったんです。
これを頭に入れておいてください。
②キリスト教世界を守ったから(732年)
732年、サウジアラビアのメッカで610年に出現したムハンマドのイスラム教勢力(ウマイヤ朝)がまさかまさかヨーロッパのイベリア半島に攻め込んできました。
皆さんは「スペイン/ポルトガル」と聞くと「イスラム教」と関係あると思いますか?
筆者は全く思いませんでした。
しかし歴史を知れば、8世紀にイスラム教の(後)ウマイヤ朝がイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、スペインを長きに渡り支配していたこともあり、スペインにはイスラム教建築が数多く残っているのです。
そんな中、フランク王国の宮宰(きゅうさい=国王の補佐)カール=マルテルがイベリア半島を制圧して乗りに乗っていたウマイヤ朝を追い払いました(=トゥール=ポワティエ間の戦い)
つまり大きな目で見れば、
とも言えるのです。
もしカール=マルテルが後ウマイヤ朝を追い払っていなかったら、現在のヨーロッパはイスラム教一色になっていたかもしれません。
これによりフランク王国はローマ教会(キリスト教の総本山)と接近し始めます。
③ラヴェンナ地方を教皇に寄進したから(756年)
そして3つ目の理由がこれ。
当時はメロヴィング朝からカロリング朝に名前が変わりましたが、カロリング朝のピピン三世がランゴバルト王国を討伐し、勝ち取った地域(ラヴェンナ地方)を教皇にプレゼントしました(=ピピンの寄進)
これにより、ローマ教皇が主権者として支配する領地ができたわけです。
これを教皇領と呼びます。
キリスト教のトップ教皇にしてみれば自分の家を持てたのと一緒ですごく嬉しかったんでしょう。
これによりフランク王国とローマ教会の関係は確固たるものになりました。
ランゴバルト王国とキリスト教
この時代、キリスト教を導き総括するローマ教皇は武力を持たなかったので、ビザンツ帝国(東ローマ帝国の後身)を保護者として頼っていました。
後にランゴバルト王国はイタリア半島の東ゴート王国を滅ぼし、イタリア半島に駐留していたビザンツ帝国軍を撤退させます。
滅ぼされた東ゴート王国はキリスト教を尊重していましたが、ランゴバルト王国はローマ教皇の権威など全く問題にしていなかったので、ローマ教会はいつ彼らに潰されるかという状況でした。
今まではキリスト教を守ってくれる存在が近くにいましたが、東ゴート王国が滅ぼされたことでローマ帝国は存続の危機に直面したんです!
そんな時にローマ教皇はフランク王国の宮宰カール=マルテルに接触し、ビザンツ帝国から乗り換えてフランク王国に守ってもらおうと考えました。
フランク王国がわざわざランゴバルト王国と戦ったのも、ローマの目前まで迫ったランゴバルト王国に対して「ランゴバルトから私たちを助けてくれ」というローマ教皇のたっての願いがあったからなんです。
ピピンがカロリング朝を建国(751年-987年)
話は前後しますが、フランク王国初代国王のクロヴィス一世から始まったメロヴィング朝でしたが、宮宰カール=マルテルの子ピピンがメロヴィング朝を倒し、新たにカロリング朝を建国しました。
その流れはこんな感じです↓
➀初めは宮宰(きゅうさい)という王の補佐役だったカロリング家のカール=マルテルが、トゥール=ポワティエ間の戦いで英雄になり、カロリング家も名声を得るようになった。
②英雄の子として権力を握ったカール=マルテルの子ピピンがメロヴィング家の王を修道院に幽閉した。
③ローマ教皇からフランク王国の国王就任を認められ、晴れてカロリング朝を建国した。
という流れです。
メロヴィング家から徐々に宮宰に権力が移行し、カロリング家が実権を握って建国したからカロリング朝と呼ばれます。
メロヴィング朝滅亡の原因は大きく分けて2つあったと言われます↓
➀好色で残忍
②分割相続制
➀好色で残忍
メロヴィング家の人間は残忍で好色だった人物が多く支配地域民からの人望はあまりありませんでした。
正妻以外にも無数の女性を後宮に置き、すぐに離婚したり再婚したり恋のもつれや愛人に唆されて正妻を殺したりなんてことが普通に起こっていたらしいのです。
そりゃあかんわ!
②分割相続制
メロヴィング朝滅亡のもう一つの原因は「分割相続制」にあったと言われています。
つまり息子が三人いれば、親は死ぬ間際に領地を三等分して三人に平等に分配します。
するとその三人は、もっと領地が欲しくなった時に自分の兄弟の領地に攻め込むようになります。(それはあかんやろΣ(゚Д゚))
ゲルマン人はこの「分割相続制」を採っていたので、争いが絶えなくなり長続きしなかったとも言われています。
=争いが少ないから
カール大帝が西ヨーロッパを統一(800年)
カール大帝
さて、ここから西ヨーロッパを統一したピピンの子カール大帝のお話ですが、その前に今までの話を軽くおさらいしましょう。
» 今までの流れを確認(クリックで開く)
【375年】 フン族に追われてゲルマン民族がローマ帝国内への大移動を始める
【395年】 ローマ帝国が東西に分かれる
【476年】 1000年続いた東ローマ帝国と違い、西ローマ帝国はゲルマン人大移動によって混乱状態になり滅亡。ゲルマン人が多くの国家を建国する(主に七つ)
【481年】 クロヴィス一世がフランク族の王国「フランク王国」メロヴィング朝を建国し、それからフランク王国は「改宗」と「宗教保護」によってローマ教会と親密になる
※その後トゥール・ポワティエ間の戦いで活躍した王の補佐役「宮宰(きゅうさい)」のカール=マルテルも名声を得る
【751年】 宮宰カール=マルテルの子ピピンがメロヴィング朝を倒しカロリング朝を建国
【756年】 ピピンがイタリアのラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進する(=ピピンの寄進)
» 折りたたむ
カロリング朝建国以降、ピピンの子カール大帝はフランク王国を囲む四方八方の敵を次々に滅ぼし、そして遂に800年フランク王国が西ヨーロッパを統一します。
当時のフランク王国の領地/支配地域はこんな感じです↓
ほぼ東ローマ帝国と変わらない大きさです。
よくぞここまで、まさにカール大帝あっぱれです。
ローマ帝国皇帝の戴冠(800年)
西ヨーロッパの主要部分を統一したカール大帝は(東ローマ帝国との不和を恐れながらも)広大な領土を統治するためにローマ皇帝の権威が必要でした。
同時にローマ教皇もキリスト教の守護者としてカール大帝の力が必要でした。
ローマ教皇(=キリスト教のトップ)
→自分たちを守ってくれる武力が必要
カール大帝(フランク王国のトップ)
→ 自分たちの地位を確立するための権威が必要
まさにウィンウィンの関係♪
そこで当時のローマ教皇レオ三世はカール大帝にローマ皇帝の冠を授与しました。
これにより、形式上ではありますが西ローマ帝国が復活しました。
※西ヨーロッパを統一したカール大帝が、かつての西ローマ帝国の皇帝として復活したイメージ
カール大帝は国内のインフラ整備や貨幣制度の見直しなど、様々な優れた政策で国を治め、特に文教政策(文化や教育)に力を入れ、聖職者の一般的教養を高めたりしました。
カール大帝は「古典文化/キリスト教/ゲルマン」という三要素が融合した新しい西ヨーロッパ世界を誕生させました。
カール大帝の戴冠から12年後の812年、それまで関係が悪化していた東ローマ帝国側もカール大帝の西ローマ帝国皇帝を承認しました。
カール大帝「あーキリスト教の我が国を一つにまとめるには、武力だけじゃなくてさー、ローマ教皇からのお墨付きがどうしても欲しいなー」
レオ三世(教皇)「うーんカール大帝スゴイ勢いやなー彼の西ローマ帝国皇帝を認める代わりに今後何か起きたら助けてもらおう」
東ローマ帝国「ローマ教皇もカール大帝も気に入らんけど、もうここまで大きな話になっては認めざるを得ない・・・」
フランク王国の分裂
西ローマ帝国再来か!!!
とも思えたフランク王国ですが、やはり分裂してしまいます。
その原因は、先ほども言いました分割相続です。
ヴェルダン条約(843年)
カール大帝の子ルートヴィッヒ一世の死後、分割相続を主張した3人の息子、
・ロタール1世(長男)
・ルートヴィヒ2世
・シャルル2世
たちによって843年ヴェルダン条約が結ばれフランク王国は三つに分かれます。
それが、
- 西フランク王国
- 中部フランク王国
- 東フランク王国
です。
これ以降、フランク王国が再び統合されることはありませんでした・・・。
このとき、カール大帝の子ルートヴィッヒ一世の長男ロタール1世が中部フランクと皇帝位を継承しました。
しかし、実際に自分たちを護ってもらう立場のローマ教皇(ローマ教会)の本音は、
「皇帝位は長男ではなく、三人の中で一番実力のある者に認めたい」
でした。
この話はまた別記事で解説します。
その後三兄弟は力を合わせてヨーロッパを繁栄させていきましたとさ、とならないのが人間の欲深いところです。
案の定、この3兄弟は争いを始めます。
ノルマン人(ヴァイキング)の侵入
フランク王国が分裂したことで、北欧の民であるノルマン人(いわゆるヴァイキング)がどんどんヨーロッパ大陸に攻め込んでくるようになりました。
海岸を荒らし回ったり、底の平らな船で川を遡り内陸深く進入して略奪を重ねたり、特に西フランクでは大いに恐れられた存在でした。
これによりノルマン人の大陸への移住はさらに加速していきました。
メルセン条約(870年)
その後も三者(3兄弟)の争いが続き、中部フランクのロタール一世(長男)が先に死ぬと弟2人は、
兄貴死んだな。
あいつの領地さ、喧嘩ならん程度に俺ら二人で分割するって、どうよ?笑
となり、
こうなりました!!!
中部フランクの領地が削られてしまいましたΣ(゚Д゚)
このメルセン条約後の地図、現在のフランス/イタリア/ドイツの地図と見比べてもほぼ一緒です
こうして、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によってフランク王国は3つの国に分かれ、それが現在のヨーロッパの地図の原点になりましたとさ。
ではここまでのまとめを軽く図で示します↓
中部フランクのロタール一世(長男)がもう少し長生きしていれば、現在のイタリアはもう少し大きな領土を持っていたのかな、と思います(笑)
おわりに
という事で、現在のフランス/イタリア/ドイツの基になったフランク王国、そして分裂後の西フランク/中部フランク/東フランクの何となくの歴史を書きました。
その後、西フランクにはカペー朝が興り、中部フランクには大小さまざまな国家が乱立し、東フランクにはかの有名な『神聖ローマ帝国』ができました。
詳しくはこちらを↓
RYOです 今回は「東フランク王国のオットー一世がローマ教皇から戴冠されたことでドイツ地方に神聖ローマ帝国が生まれ、ハプスブルク家がそれを受け継ぐまで」をまとめたいと思います。 「長々と色々言ってるけどさ、そもそも東フラ[…]
世襲を続けたカロリング家もその後、まず875年に中部フランク、次に911年に東フランク、そして最後987年に西フランクでそれぞれ断絶しカロリング朝は滅亡しました。
これからのヨーロッパは「封建社会」時代へと突入することになります。
ちなみに、西洋建築の勉強すれば無学で行くより100倍ヨーロッパを楽しめます↓
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