どうも、旅する歴史マニア(見習い)のRYOである。
今回の記事では、これからキューバに行こうと目論むそこの君、そう、そこの旅人予備軍のために──
いや、正確には未来の自分のために、キューバの歴史をギュギュっとまとめてみた。
サルサよりもノリよく、ラム酒よりも濃い内容を目指した次第である。
なぜそんな殊勝なことをしようと思ったか?
それは、2019年の4月から5月にかけて、またもやキューバに殴り込みをかけようと思ったからだ。
実を言うと、筆者はすでに2018年の同じ時期にキューバへと渡っている。
約1週間、陽気な音楽とクラシックカーに囲まれながら、そこそこ楽しんできたのだが──歴史の予習が全っ然足りていなかったのである。
キューバ革命?ゲバラ?それ誰?みたいな体たらくであった。
旅の極意は、ガイドブック片手に地図を眺めることにあらず。
まずその土地の歴史を知ることこそ、旅の醍醐味である!
これを怠ると、ただの観光地巡りマシーンと化してしまう。
歴史というスパイスを加えることで、観光地の一つひとつがドラマチックに立ち上がってくるのだ。
単なる廃墟が「革命の聖地」に早変わりし、ただの壁画が「自由への渇望の象徴」に見えてくる。
そう、歴史を知れば旅は100倍楽しくなるのである!
というわけで、次回のキューバ遠征に向けて、予習はバッチリ。
今回は一味違う、深掘り旅をキメてやろうというわけだ。
- 1 キューバの位置
- 2 なぜ中南米ではスペイン語を話すのか?
- 3 キューバの歴史
- 3.1 キューバはずっとスペインの植民地だった
- 3.2 1898年 米西戦争、勃発!
- 3.3 1903年 グアンタナモ基地、爆誕
- 3.4 1952年──バティスタ、突然の独裁モード突入!
- 3.5 1953年 カストロが立ち上がる
- 3.6 亡命先で運命の出会い──チェ・ゲバラ現る!
- 3.7 1956年12月──伝説の再上陸!帰ってきたカストロ
- 3.8 1959年1月1日──キューバ革命、ついに成功!
- 3.9 1960年──カストロ、やりたい放題モードに突入
- 3.10 アメリカ「もう砂糖いらんわ」→キューバ、終了のお知らせ
- 3.11 1960年~ 救世主ソ連、ここに爆誕!
- 3.12 ついに始まる──キューバ危機前夜
- 3.13 1962年10月──キューバ危機、世界が止まった13日間
- 3.14 以降は冷戦の裏で核競争が激化
- 3.15 1991年──ソ連崩壊、最大の後ろ盾を失う
- 3.16 キューバではリユースがめちゃくちゃ盛ん
- 3.17 2014年12月 アメリカとキューバとの関係改善を発表
- 3.18 2015年7月 アメリカがキューバと国交回復
- 3.19 2016年3月 オバマ大統領がキューバ訪問
- 3.20 2016年11月 フィデル・カストロ死去
- 4 キューバが近代化する前に行きましょう
キューバの位置
まず最初に、キューバとは何者か?
──これを知らずして話は始まらぬ。
キューバは、アメリカ合衆国のすぐ南、メキシコ合衆国のすぐ東に浮かぶ、小さくて陽気で革命的な島国である。
地図で見れば、あまりの近さに思わず「え、これ泳げば行けるんじゃ?」と錯覚しそうな距離感であり、実際アメリカ・フロリダ半島からキューバまではわずか150kmしか離れていない。
150km──ピンとこないそこの君に説明しよう。
これは、京都から名古屋までの新幹線移動とほぼ同じ距離である。
つまり、のぞみに乗れば35分で到着ってくらいの近さ。
この圧倒的な距離感の近さが、後々に大事件を巻き起こす。
そう、キューバ革命!キューバ危機!ミサイル!チェ・ゲバラ!フィデル・カストロ!
──全部この「近すぎる隣人関係」が根っこにあるのだ。
もしキューバが太平洋のど真ん中にでもあったなら、アメリカもそこまでムキにならなかっただろう。
だが現実は違った。
まるで火薬庫の上でバーベキューしてるような距離感で、歴史は燃え上がることになるのである。
なぜ中南米ではスペイン語を話すのか?
まずはこちらを見て頂こう。
※見やすいように加工している。
これはハバナ某所のレストランのメニューである。
文字がスペイン語でズラリと並び、英語などという甘えは一切ない。
外国人から見た漢字並みに意味不明。
さて、これは中南米旅行におけるわりとメジャーかつ見落とされがちな落とし穴である。
つまり──
「中南米は英語が通じない!」という事実である。
筆者はかつて、こう考えていた。
「アメリカ大陸?アメリカがあるんだから英語で余裕っしょ。HAHAHA!」
と。
これには未来の自分が全力でツッコませてもらう。
あまい!!!
↑こうなります。
三ツ星シェフのスイーツより甘い。
マカロン級の思考回路である。
筆者は、スペイン語の「ス」の字も知らぬまま、2018年のキューバ旅行に突入。
確かにアメリカやカナダは英語圏です。
言葉の壁?いや、あれは言語のグレートウォールだった。
たしかにアメリカやカナダは英語圏である。
が、南へ一歩踏み出せば、そこはもうスペイン語ワールド。
例外としてカナダ・ケベック州ではフランス語が飛び交い、ブラジルではポルトガル語が主役だが、基本的にメキシコ以南の国々はスペイン語がデフォルト装備である。
スペイン語と言えばあの有名なフレーズ群──
「グラシアス(ありがとう)」「ウノ(1)」「シー(はい)」などが代表選手である。
なのでアメリカ大陸を旅行したい人はまずスペイン語を学びましょう。
結論として、アメリカ大陸をガチで旅したいなら、英語だけでは片手落ち。
スペイン語という「旅の鍵」を手に入れてからが本番である。
そしてなぜこの広大な中南米エリアでスペイン語が支配的なのか?
それには、ちゃんと歴史的なワケがある。しかもけっこうエグい。
コロンブスの新大陸発見
そう、すべての元凶はコロンブスである。
クリストファー・コロンブス。
彼はスペインのイザベラ女王に「おら、インドに行くっす!」とプレゼンをかまし、見事スポンサー契約に成功。
そして1492年、期待と野望と多少の地図の読み違いを胸に大海原へと漕ぎ出した。
しかし1492年に到達したのは、インドでもアジアでもなく、現在のバハマ諸島あたり。
「おいおい、ここどこだよ」と誰かが言う間もなく、彼はこう断言した。
「ここ、インドっしょ!」
驚くべき思い込み力である。
GPSもGoogleマップもない時代とはいえ、最初から最後までずーーっとインドだと信じて疑わなかったらしい。
結果として、そこに住んでいた先住民たちは「インディオ」と名付けられ、悲劇が始まった。
コロンブスとその後の征服者たちは、金と土地と権力のために暴れまくり、虐殺と略奪の限りを尽くした。
※ちなみに今では「インディオ」という呼び方は避け、「ネイティブアメリカン」や「先住民族」と呼ぶのが一般的である。
コロンブスのネーミングセンス、罪深し。
そんなコロンブスの「インド勘違い報告書」を受けたスペイン王国は、「おお、それは我が国の新天地だな!」と即断即決。
そこから怒涛の勢いでカリブ海の島々から中南米にかけての領土をガンガン拡大していった。
結果として、征服者たちの言語──すなわちスペイン語がこの一帯に根付くこととなった。
これが、なぜ中南米でスペイン語が公用語になっているのかという、やや血なまぐさいルーツである。
一方その頃、北アメリカはというと──
なんと開発が遅れていたため、スペインの手が回らず。
そのスキをついてイギリス、フランス、オランダといった欧州列強が参戦し、結果として英語が北米に根付いたというわけだ。
というわけで現在、キューバを含む中南米の国々ではスペイン語が公用語としてガッチリ定着している。
それもこれも、地図の読み間違いから始まった大航海ドタバタ劇の産物なのだ。
いやはや、歴史とは実に皮肉なものである。
キューバの歴史
キューバの歴史を語る上で、絶対に外してはならぬ事実がある。
それは──キューバの運命はアメリカとソ連という“世界の大ボス”たちに、ガッツリ翻弄されてきたということだ。
この2大国の覇権争いの真っただ中に巻き込まれたキューバは、まさに冷戦時代のホットスポット。
革命博物館?ただの建物ではない。
街角のポスター?ゲバラの遺志そのものである。
つまり、歴史を知れば知るほど、キューバが面白くなるのだ。
そしてこのキューバの物語で、絶対に見逃してはならないキーパーソンがいる。
それがフィデル・カストロである。
彼こそが、近代キューバの生みの親にして、“革命”という名のカーニバルの主催者。
もうこう言っても過言ではない──
当時のカストロ氏、こんな感じである。
このセリフ、脳内で炎をバックに再生していただきたい。
革命ポスターにして売れそうな勢いである。
しかも彼は単独で戦ったわけではない。
忘れてはならぬもう一人の英雄──
カストロ議長と共にキューバ革命を成功させたチェ・ゲバラである。
そう、あのTシャツでよく見るヒゲの人である。
彼はカストロと共に山にこもり、ゲリラ戦を展開し、ついにはキューバ革命を勝利へと導いた、革命界のロックスター的存在である。
この2人が手を組んだ瞬間、歴史は動いた。
火薬と理想が混ざり合い、独立と社会主義の名のもとに国が塗り替えられていったのだ。
…と、興奮のあまりつい語ってしまったが、実はカストロ議長の登場シーンはもう少し後である。
筆者としては、「次回お楽しみに!」のタイミングを完全にスルーして、勢いだけで先にネタバレしてしまった。
笑って許していただきたい。
キューバはずっとスペインの植民地だった
さて、そもそもキューバという国は、先ほどのコロンブス先輩の“勘違い上陸事件”以降、スペインの植民地となっていた。
スペインは当時、世界に冠たる超パワー国家。
太陽の沈まぬ帝国などと名乗っていた時代である。
だいぶ調子に乗っていた。
しかし時は流れ、19世紀後半──
キューバの人々もこう思い始めた。
「いやもう、そろそろ独立したいんですけど。」
だが、相手はスペイン。
ただでさえ日差しが強いというのに、政治の圧力まで強烈。
そう簡単には離婚(独立)できない。
1898年 米西戦争、勃発!
そんな中、突然発生したのが──
アメリカとスペインの戦争(=米西戦争)
キューバ近海で、アメリカの戦艦メイン号が「何者か」によって爆発・沈没した。
アメリカ「これは絶対スペインの仕業だッッ!っのやろう!!」
スペイン「いや、知らんがな!」
と、泥仕合スタート。結果はというと──
アメリカ(米)がスペイン(西)に勝利!!!
スペインが負け、キューバは晴れて独立。
そしてキューバは、全力でアメリカに感謝を叫ぶ。
キューバ「アメさん、あざっす!!」
アメリカ「いやいや、近所ですし全然いいすよ(*´ω`*)」
こうしてアメリカとキューバは、急接近。
あっという間に「お隣り仲良しムード」が漂い始めた。
1903年 グアンタナモ基地、爆誕
お近づきの印として、キューバは自国内にアメリカ海軍の基地設置を許可した。
それがあの──グアンタナモ基地である。
ちなみにアメリカの初めての海外基地で、最も古く歴史のある米軍基地らしい。
ちなみにこの基地、単なる海軍拠点かと思いきや、2002年以降はテロ容疑者収容施設として使われている。
アフガニスタンやイラクで拘束された人物たちが連行され、尋問、そして拷問が行われていたというウワサもある。
「アメリカ国内で収容すると、法律により弁護士を付けねばならず、拷問NGになる。だから海外の基地に連れてきたのでは?」
──という、なんとも都合のいい抜け道的展開である。
このあたりから、「キューバとアメリカの蜜月関係」にひびが入り始める。
ここから先は、さらに波乱と革命とロマンの歴史が始まる。
1952年──バティスタ、突然の独裁モード突入!
時は流れ、キューバ政界はざわついていた。
そこへやってきたのが、かつて一度大統領を経験済みの男──
フルヘンシオ・バティスタである。
選挙?そんなもんやってられるか!とばかりに、クーデターを決行。
あっという間に政権を掌握し、ここからキューバは暗黒モードへ突入する。
バチスタおじさん
バティスタ「国民の声?知らんがな。ワシの声がすべてだ。」
言論統制、拷問、粛清、賄賂、裏金、全力でフルスロットルの圧政コンボ発動。
国民は次第に、怒りと絶望を煮詰めたような表情になっていった。
1953年 カストロが立ち上がる
そんななか、バチスタの独裁政治に苦しめられていた国民を憂えて、バチスタの独裁政権打倒を誓うフィデル・カストロが仲間を率いてバチスタ軍の兵営を襲撃したのだ。。
バティスタの独裁、もはや看過できん。
おれたちでキューバを変えるしかないんだッ!!
若き弁護士カストロは、弟ラウルや仲間たちと共に立ち上がり、カーニバルの人混みに紛れてバティスタ軍の拠点であるモンカダ兵営を襲撃。
作戦は、ギリギリの命がけの計画だった。
…しかし!
悲しいかな、結果は失敗。
仲間たちは次々と逮捕。カストロ兄弟も投獄されてしまう。
が、ここで運命のセリフが生まれる。
「歴史は私に無罪を宣告するだろう!」
──by カストロ(裁判での名スピーチ)
この名言が評価されたのか、なんと後に恩赦で釈放。
だがさすがに居づらくなったため、兄弟そろってメキシコへ亡命することとなる。
亡命先で運命の出会い──チェ・ゲバラ現る!
亡命先のメキシコで、カストロが出会ったのは──
アルゼンチン出身の医師にして、理想に燃える革命家。
その名も……チェ・ゲバラ
カストロ「ゲバラ、お前がいると……なんか革命、成功しそうな気がするぞ!(笑)」
ゲバラ「革命?いいね、それ、のった。」
ゲバラは軍医としてだけでなく、理論家、戦略家、そして戦闘の先頭に立つ闘士として、革命運動の中心人物へと成長していく。
こうして──
という、伝説のツートップが誕生したのである。
まさに革命界のタッグチャンピオンである。
余談:今も街角で出会える革命の面影
キューバを歩くと、やたらと目にするのが──
- 全身緑のカストロファッション
- ヒゲも映えるゲバラTシャツ
どちらも現地民にも観光客にも大人気。
キューバに来たからには、一着はゲットしておきたいところである。
カストロファッションがこちら。
カストロが人生を捧げた国・キューバと言えども、全身緑ファッションが多少浮いている気がするのは筆者だけだろうか?
1956年12月──伝説の再上陸!帰ってきたカストロ
亡命先メキシコで準備を整えたフィデル・カストロは、ついにキューバへの逆襲を決意する。
乗り込んだのはその名も「グランマ号」。
現在は首都ハバナに展示されている
豪華クルーズ?
いや、革命仕様の夢を乗せた鉄の棺桶である。
この船、本来は12人乗りのヨット。それに無理やり82人を詰め込むという狂気の挑戦だ。
「いや、無理やろ!」と全員が思ったが、革命に不可能はないらしい。
出発!地獄の7日間クルーズ!
12月2日、メキシコを出発したグランマ号。
がしかし、途中で荒天に見舞われ、全員船酔い&疲労困憊。
おまけに食糧も水もギリギリ。
もう「これ革命じゃなくて拷問じゃね?」というレベルの旅路である。
さらに船内は、
- 定員オーバーによる衛生環境の悪化:生乾きの雑巾の香りが船全体に漂っていた
- 荒天により航路が長引いた:船にGPS? あるわけがない
と、とにかくボロボロ。
上陸即バトル!まさかの70人死亡…ッ!!
それでも彼らはなんとかキューバのラス・コロラーダスに到達した。
だがここで大問題。
事前に上陸日を発表していたカストロ氏(←は?なにしてんの?)、まさかのフルオープン作戦。
カストロ「ワシら〇月〇日〇時に上陸するから、よろしくな!」
バチスタ軍「了解、待ってるわ☆」
この致命的なうっかり(と呼んでいいかわからないが)により、上陸した瞬間、政府軍にボッコボコにされる。
82人中、70人が戦死または行方不明。
残ったのは──なんとたったの12人。
まさに現代における「リアル・ダズン(汚れた十二人)」である。
それでも立ち上がる…!ここから始まる山岳ゲリラ伝説!
ほぼ壊滅状態からスタートしたゲリラ部隊。
だがそのわずかな12人の中には、カストロ兄弟、ゲバラ、そして熱き同志たちがいた。
カストロ「たった12人?上等だ。我々には信念がある!」
ゲバラ「あと銃と、ちょっとの食料もね。」
カストロ「こないだみたいなうっかりはなしでいくわ!」
ゲバラ「それはマスト、マジで頼むわ。」
彼らはキューバ東部のシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、そこからゲリラ戦法で革命の火を灯していく。
噂は村から村へと広がり、農民、学生、インテリ、ジャーナリストまで、次第に人々が彼らのもとへ集まってくる。
「あの山に、本気で国を変えようとしてる連中がいるらしいぞ。」
1959年1月1日──キューバ革命、ついに成功!
2年間にわたるゲリラ戦の末、フィデル・カストロ率いる革命軍は首都ハバナへ突入。
仲間を大幅に増やしたカストロがバチスタ政権を倒し、「フィデル・カストロ体制」が誕生する。
これをキューバ革命と呼ぶ。
1960年──カストロ、やりたい放題モードに突入
革命成功からわずか1年。
カストロの放つ第一弾政策はこれだった!
´60年3月
まずは農業改革を始める。
その手始めにアメリカ所有の農地を取り上げて国有化した。
え、、カストロさん…?(゜.゜)
今までずっとアメリカ企業が所有していた広大な農地を、突然強制的に国有化した。
しかも補償金?そんなもんない!
アメリカ「おいおい!それ俺らの土地やぞ!!」
カストロ
「いや、今はもう人民の土地や(キリッ)」
「ってか、そもそもお前らの土地ちゃうやろ?」
「うちの国の土地を”俺らの土地”ってドヤ顔で言えるおまえらの神経が意味不明なんですが(笑)」
「恥を知れ!恥を!」
当然、アメリカ激怒。
しかしカストロは止まらない!
10月──さらなる暴走、銀行・工場まで全部国有化!!
‘60年10月(7カ月後)
キューバ革命政府(カストロたち)は銀行や工場などを含む外国企業まで国有化する
ついに農地だけでなく、外国企業の銀行・工場・通信インフラまで国のモノに!
これでアメリカ、完全にキレる。
アメリカ「もう砂糖いらんわ」→キューバ、終了のお知らせ
さすがにぶちギレたアメリカが、キューバの唯一の輸出産業である砂糖を買わなくなり、石油の輸出も止めてしまった。
アメリカ「もう砂糖買わない。石油も売ってあげない」
キューバ「\(^o^)/オワタ」
こうしてアメリカとキューバの国交、正式に終了。
キューバ大打撃!!!
1960年~ 救世主ソ連、ここに爆誕!
キューバを見捨てたアメリカの代わりに手を差し伸べたのが──
ソ連(USSR)!
- 砂糖は買ってくれる
- 石油も安くくれる
- 革命も褒めてくれる
カストロ「もうアメリカなんかいらん。これからはソ連兄貴についてくわ!」
こうしてキューバは社会主義国家への道をまっしぐら。
そしてソ連はと言うと…
ソ連「お、キューバってアメリカの目の前じゃん。そこにミサイル置けば勝ち確じゃね?」
ついに始まる──キューバ危機前夜
アメリカとキューバの距離、たった150km。
ここにソ連製の核ミサイルが配備され始めたことで、アメリカ政府は超パニック!
アメリカ「おいおいおい!!これ、フロリダ州即死コースやないか!!!」
当時、アメリカはトルコにミサイルを置いてソ連を狙っていた。
ソ連はその報復として、キューバにミサイルを配備したのである。
これはもう…
- アメリカ→トルコからソ連に核攻撃可能
- ソ連→キューバからアメリカに核攻撃可能
という冷戦ガチンコバランス崩壊の危機。
1962年10月──キューバ危機、世界が止まった13日間
アメリカはソ連から核ミサイルをキューバに運ばせないために、キューバの周りを海軍で囲んで海上封鎖を実施。
もしソ連がアメリカの海上封鎖を強行突破でもすれば米ソの全面核戦争に発展する。
この時期、キューバではアメリカ軍からの攻撃に備えて総動員令を発動し、完全に戦争前夜の空気に包まれていたのだ。
そんな時、最悪の事件が起こってしまったのである。
アメリカの偵察機がソ連のミサイルに撃墜されたのだ。
この事件をきっかけにアメリカでは核シェルターが爆売れする。
市民たちは地下に潜り、政府は緊急事態モードに突入。
そして、奇跡の着地
しかし当時のアメリカ大統領ケネディとソ連書記長フルシチョフとの間で両首脳が秘密裏に交渉を開始、妥協を経てキューバ危機は無事回避。
ソ連「アメリカがトルコからミサイルを撤去するなら、ソ連はキューバからミサイルを撤去するわ」
アメリカ「おけ!」
こうして世界はギリギリで核戦争を回避。
人類は破滅の縁から戻ってきたのである。
以降は冷戦の裏で核競争が激化
表面的には危機は去ったものの、この事件以降、アメリカとソ連はより精密な核兵器=ICBM(大陸間弾道ミサイル)を本格開発。
アメリカ・ソ連「ん、ってかもっと高性能なミサイル作ればわざわざ他国の基地にミサイル置かんでもよくね?」
結果、ICBMの登場により、もはやキューバにミサイルを置く必要は無くなった。
1991年──ソ連崩壊、最大の後ろ盾を失う
1991年、キューバの親友、ソビエト連邦が崩壊した。
「頼れる兄貴」が突然蒸発したのだから、キューバにとっては青天の霹靂どころの話ではない。
スコール級のショックである。
これにより、キューバはこうなった。
- アメリカとは昔に絶交済み
- 西側諸国はアメリカの機嫌を取るのに必死
- 東側最大の後ろ盾がまさかの消滅
つまり「誰も味方がいない詰み国家」の誕生である。
キューバではリユースがめちゃくちゃ盛ん
物資は入ってこない。
石油もない。
輸出もままならない。
だが、国は回さなければならない。
その結果、キューバ国民は驚異的なリユース技術とサバイバル力を身に付けていった。
では、キューバのマジの写真をいくつかご紹介する(筆者撮影)
» キューバの写真をもっと見る
» 折りたたむ
西側の代表アメリカ合衆国とは国交断絶、サポーターのソ連が崩壊し、砂糖も買ってもらえず石油も手に入らない。
つまり冷戦中から経済成長がほとんどできていない国なのである、キューバは。
技術革新も経済成長も遅れを取り、物資は不足し、暮らしは質素。
しかしその中で、人々は知恵と工夫で日常を乗り切っている。
効率やスピードが重視される現代とは真逆の、のんびりとした時間が流れる国。
そこには“発展”ではなく“生き延びること”に全力を注ぐリアルな生活がある。
- 靴のソールが剥がれた → 縫って履く
- 壊れたライター → 部品を分解・再組立
- エンジンの不調 → 自作部品で修理
- バネのないシャープペンシル → 他の廃材から代用パーツを作成
全てリユースするのである、キューバ国民は。
キューバでは、使い残しのシャンプーをかき集め、水で薄めて“新品”として再販売することが普通に行われている。
2014年12月 アメリカとキューバとの関係改善を発表
1961年、フィデル・カストロの「アメリカ?なにそれ美味しいの?」政策により国交断絶となったキューバ。
だが、2014年──
バラク・オバマという男がついに立ち上がった。
オバマ「そろそろキューバと仲直りしても良くね?」
これは俗にキューバの雪解けと呼ばれている。
まるで恋愛ドラマの仲人である。
2015年7月 アメリカがキューバと国交回復
この裏には、キューバを国際的に孤立させ、キューバの民主化促進を目指すというアメリカの政策が失敗だと認識したからだと言われている。
アメリカ「あかん、完全にぶちギレたわ。おまえとは国交断絶な」
キューバ「えーーーそれは困るっすよ。もう砂糖買ってくれないの?石油売ってくれないの?」
アメリカ「NEVER、だ。」
キューバ「オワタ…」
ソ連「あ、おれ助けてあげるよ。だから社会主義国になっちゃいなよ。」
キューバ「了解っす、兄貴!(アメリカざまぁ)」
アメリカ「くそっ、ソ連のせいでキューバが社会主義国になっちまった。」
1991年、ソ連崩壊。
ソ連「おれは…もうダメだ…。(バタンッッ!!!!)」
アメリカ「今度こそキューバおわたー(笑)」
「アメリカにひれ伏して、もう一度民主主義国家としてやり直すなら少しは助けてやるが、どうするぅ?」
キューバ「ほいさ、ほいさ。」
アメリカ「え!!!?? キューバ人バイタリティあり過ぎて物資不足でも全然気にせず生活できてるやん…どういうこと?泣きついてこないの?」
アメリカの目論見は大きく外れ、長年の「キューバいじめ外交」は意味がなかったと反省。
ついにキューバとの国交回復を決断する。
そして互いの国の首都に自国の大使館を設置。
2016年3月 オバマ大統領がキューバ訪問
現職のアメリカ大統領がキューバを訪れるのは実に88年ぶり。
訪問時、オバマ元大統領はこんなセリフを残している。
3時間の旅が50年以上かかった
──これはもはや詩である。
空の旅は短くても、政治の旅路は果てしなかった。
1959年のキューバ革命以来続いていた対立の歴史にようやく終止符が打たれたと言える。
2016年11月 フィデル・カストロ死去
そしてキューバの英雄、フィデル・カストロが死去。
長きにわたり「革命の顔」であった男がこの世を去った。
政権自体は2006年に弟のラウル・カストロに引き継がれていたが、多くのキューバ国民がその死を悼んだ。
弟のラウル・カストロは初期から兄フィデルやゲバラと共に革命を成し遂げた人物で人望はあるが、フィデルほどのカリスマ性はなく、キューバ統治の手腕が今後の課題とされている。
キューバが近代化する前に行きましょう
キューバとアメリカの国交回復が進みつつあるということは、つまり――いつ外国資本がキューバにドカッと流れ込んでくるのか、もはやカウントダウン状態である。
……と、思いきや。
この記事を書いてから早6年。2025年5月現在、キューバには相変わらず外国資本のガの字も見えない(笑)
コカ・コーラ?マクドナルド?スタバ?無印良品?ユニクロ?
残念ながら、キューバにはこの手の“世界のどこにでもあるはずの光景”はまだ一切存在しない。
しかし、ひとたび外国資本が流れ込めば、キューバの街並みは急ピッチで近代化され、もはや「古き良きキューバ」は過去のものとなるだろう。
歴史は巻き戻せない。だからこそ――
今のうちに、味のあるキューバをこの目で見ておくべきでと筆者は思う。
時は2019年5月。 アメリカ大陸を渡り歩いた大冒険を終え、ついに3週間ぶりに祖国・日本の土を踏んだ。 そして本日で帰国4日目。 キューバ滞在に伴って野菜という文明の象徴が圧倒的に不足した結果、筆者の腸はストライキ[…]
おいおいキューバ人頼むぜ~(゜.゜) 筆者は2018年と2019年で合わせて17日ほどキューバに滞在し、様々なものを見たり聞いたり多くの人と触れ合う中で「自分の人生観が広がったな」と本当に思いました。 そう思わせてくれた[…]
2018年4月後半——筆者はついに、あの伝説のカリブ海の浮遊要塞「キューバ」へ、たった1週間という儚くも濃密な旅路に身を投じた。 そう、葉巻とクラシックカーとチェ・ゲバラの亡霊が街角で踊るあのキューバである。 これはその冒険の全[…]
皆さんはご存じだろうか? キューバがWi-Fi砂漠であるという事実を…。 筆者は現地に降り立って初めて思い知らされた。 「フリーWi-Fi? なにそれ美味しいの?」と。 そう、キューバには無料Wi-Fiという[…]
今回は、キューバの首都ハバナから世界遺産にも登録されている町「ビニャーレス渓谷」への行き方をご紹介する。 実はタクシーを使ってもそこまで高くはないのだが、ここではキューバ流、つまりトラック移動に挑戦してみたい。 キューバ[…]