しかし、これは「ムスリムは全て平等」とするアッラーの教えに背くとして反発する勢力が現れます。
ムハンマドの叔父の子孫である、アブー=アルアッバースはこうした勢力を率いてウマイヤ朝を倒し、カリフとなって、アッバース朝(スンナ派)を開きます。
※地図中、黄緑に塗られた勢力↓
首都は第2代のマンスールによってバグダードに移されます。
アッバース朝は、イラン人(ペルシア人)を登用して官僚組織や中央集権体制を整備します。
また、アラブ人でなくてもムスリムであればジズヤを免除し、逆にアラブ人ムスリムにもハラージュを課すなど、ムスリム間の平等をはかります。
これによって、アラブ帝国はイスラム帝国となったのです。
イスラム帝国には民族という概念はありませんでした。
同じ言語とか、同じ社会的慣習とか、どうでもいいんです。
大事なのは「あなたはムスリムですか?それとも異教徒ですか?」ということだけでした
一方、敗れたウマイヤ朝の一族はアッバース朝に対抗してイベリア半島に後ウマイヤ朝↓(スンナ派)を開きます。
首都はコルドバです。
スペインやポルトガルにイスラム建築が残っているのはこのためなんですね。
繁栄から分裂へ
アッバース朝の第5代カリフのハールーン=アッラシードは、産業を振興するほか、学芸を奨励したため、バグダートは学問・文化の中心として繁栄し、アッバース朝は最盛期を迎えます。
しかし彼の死後、イランでサーマーン朝が独立します。
またチュニジアにシーア派のファーティマ朝(シーア派)が興り、カリフを宣言し
エジプトを征服してカイロに都をおきます。
このことが当時イベリア半島にあった後ウマイヤ朝に影響を与え、その君主もカリフを宣言しました。
この時点で、ファーティマ朝・アッバース朝・後ウマイヤ朝がそれぞれカリフを宣言するというカリフ争奪三つ巴戦の状態に入りました。
さらに、イラン系でシーア派の軍事政権がバグダードに入りブワイフ朝(シーア派)を建て、カリフから大アミール(司令官)に任命されて権力を握ります。
こうしてイスラム帝国は分裂します。
トルコ人のイスラム王朝
トルコ人ムスリムが王朝を建て、イスラム世界の中心になる
・アッバース朝がトルコ人奴隷を登用
・イスラムに改宗し力をつけたトルコ人がセルジューク朝を建てる
・イスラム世界の主導権をトルコ人が握る
トルコ人奴隷マムルーク
トルコ人は中央アジアの遊牧民で、騎馬による戦闘能力に優れていたため、アッバース朝はトルコ人奴隷を軍人として登用していました。
こうしたトルコ人奴隷をマムルークといいます。
奴隷と言っても功績によっては地位も富も得ることができたので、マムルークは徐々に力をもつようになるとともに次第にイスラム教に改宗していきます。
トルコ人の王朝
マムルークは10世紀以降、中央アジアにカラ=ハン朝、アフガニスタンにガズナ朝、ゴール朝などの独自の王朝を建てます。
これによって、イスラム教は中央アジアやインドにも広がります。
シーア派のブワイフ朝に反発したトゥグリル=ベクが興したセルジューク朝は、11世紀にブワイフ朝を倒してバグダードへ入り、アッバース朝のカリフからスルタン(支配者)という称号を受けます。
スンナ派のアッバース朝にとって、シーア派のブワイフ朝を倒したセルジューク朝に感謝を示したかったのでしょうね。
※カリフは「イスラム教の指導者」、スルタンは「イスラム教の保護者」です。
キリスト教圏でいう「ローマ教会とフランク王国」みたいな関係性に近いですね
これによって、イスラム世界の実質的な主導権をトルコ人が握ることになります。
セルジューク朝は領土を拡大し、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍を破って小アジアを奪い、またイェルサレムを占領します。
※これが、キリスト教国が十字軍を送るきっかけのひとつとなります。
セルジューク朝はブワイフ朝が始めたイクター制を取り入れます。
これは、政府が軍人に俸給を与えるのではなく、俸給に応じた税金をとれる土地を割り当てて徴税する権利を与える仕組みです。
12世紀になると、セルジューク朝は分裂し事実上滅びます。
ここまでのまとめ
ではここまでの流れをもう一度おさらいしたいと思います。