【おもしろいヨーロッパ旅行記】ドイツのミュンヘン【10/10】

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2014年の驚きと発見の連続だった1ヶ月間を振り返りつつ、今回はオーストリアの古都ザルツブルク滞在について語る。

今思えば、右も左も分からない状態でよくそんな大胆な決断をしたものだが、この旅が人生において多くの発見や学びをもたらしたことは間違いない。

一応、前回の記事も載せておく。

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オーストリア ザルツブルグ 旅行記

ミュンヘン滞在記

今回は、ミュンヘンに2〜3日ほど滞在し、その後、日本へと帰国した。

2014年の旅も、ここでいよいよフィナーレを迎える。

路線図は必ず写真で残す

ミュンヘン市内から郊外へと足を延ばす際にも、やはり路線図は重要である。

ウィーン編やプラハ編でも触れたが、都市部で迷子にならないためには「路線図」が必須アイテムとなる。

これさえスマートフォンのカメラで撮影しておけば、もはや怖いものはない。

現在地はどこか、近くの駅はどこか、そしてその路線が目的地方面へ向かっているかどうか──全てを把握できる。

路線図とは、バックパッカーにとっての「地図」であり「コンパス」であり、まさに命綱とも言える存在なのだ。

強制収容所再び

明後日に帰国を控えた本日は、ミュンヘン市内の観光名所を、ガイドブック『地球の歩き方』に従ってゆっくり巡ることにした。

その中でも特に印象に残ったのが、ダッハウ強制収容所である。

ここはナチス・ドイツが設置した最初の強制収容所であり、現在は見学が可能となっている。

そうだ、ダッハウ収容所へ行こう

ドイツでは、戦争の悲惨さを風化させないために、あえてこうした施設を保存し、子どもたちに戦争とは何かを教育している。

ヨーロッパの人たちから、

欧米人
日本人は後世の人間に原爆ドームだけを見せて、あたかも「日本は第二次世界大戦の被害者である」という意識だけを日本国民に植え付けているよね

こうした見方に対して、少なからず耳が痛くなる思いがあったのも事実である。

さて、ミュンヘン市内から電車で少し移動し、徒歩を経てダッハウ強制収容所の入り口に到着した。

敷地は非常に広大であり、1週間前に訪れたポーランドのアウシュヴィッツ収容所と造りに共通点が多く見られた。

こちらは、実際に収容者が暮らしていた部屋の外にある廊下の写真である↓

次に、収容者たちが押し込まれていた部屋そのもの↓

逃走を防ぐため、建物内にはこのような柵が張り巡らされていた↓

敷地内には犠牲者を追悼するモニュメントもある↓

さらに進むと、「GRAVE OF MANY THOUSANDS UNKNOWN(数千の無名の人々の墓)」と刻まれた碑が見えた↓

そして、同じ敷地内には実際に使用されていた焼却炉も保存されている↓

最も衝撃を受けたのは、ガス室であった。

ここでは、「シャワーの時間だ」と言って数十人の収容者に自分で服を脱がせ、遺体処理の手間を省く目的も含め、効率的に命を奪っていたという。

軽い気持ちでは決して訪れるべきではない。

見学後、言葉を失い、ただ重いものを抱えながら敷地を後にした。

ヨーロッパあるある炸裂

収容所の見学を終え、帰りの電車に乗った。しばらくすると扉が閉まり、電車は出発の準備に入った。

すると、ホーム側に走ってくる一人の男性が見えた。どうやらギリギリで電車に乗り遅れたようで、扉のすぐ向こう側に立っていた。

筆者は「気の毒だが、こういうこともある」と思った。

遅れてしまえば仕方がない。それがというものである。

しかし、その直後だった。
その男性が、突然ドアに向かって怒鳴りながら蹴り始めたのだ。

叫び声の雰囲気としては「開けろ!ふざけんな!」といった具合であった。
驚くべきことに、それは冗談や軽い苛立ちというレベルではなく、かなり本気の怒りであるように見受けられた。

筆者は窓越しにその様子を見つつ、「ああ、ヨーロッパにはこういう人も割といるよな」と妙に冷静な気持ちでその光景を眺めていた。

そして何事もなかったかのように電車は静かに動き出し、走り出したのであった。

興味ある方はこちらもどうぞ↓(別タブで開きます)

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ヨーロッパ あるある バックパッカー

「トモダチ」は旅の醍醐味

ヨーロッパ最後の夜である。

ダッハウ収容所から戻り、翌朝は早朝に空港へ向かう予定だったため、特に出歩くこともなくホステルの共用スペースでスマホをいじっていた。

どういう経緯だったかは忘れてしまったが、トルコから来ていた学童の団体と、ふとしたことから仲良くなった。

その中でも、赤いセーターを着た中央の少年(見た目に反してまだ16歳程度らしい)とは特に打ち解け、Facebookを交換し、その後も何度かメッセージのやり取りをした。

↑この真ん中の少年は筆者のことを非常に気に入ってくれたようで、およそ1時間ほど一緒に遊んで過ごした。

しかし、彼らには夜23時には就寝しなければならないという規則があったため、その時間になると「ぐっないー」と別れを告げた。

すると彼はこう聞いてきた。

「RYOは明日の朝、何時に起きるの?」

筆者は答えた。

「明日は朝一番で空港に向かう予定やからな~。6時には食堂で朝食をとって、7時には出発かな」

すると彼は少し寂しげな表情を浮かべながら、こう言った。

「明日の朝、もう一度会いたいな」

筆者は「ははは」と笑って、その言葉を軽く受け流した。
そしてそのまま、その夜は静かに更けていった。


翌朝、6時頃に食堂で朝食をとっていると、まさかと思っていたあの少年が本当に一人で現れた。
朝早くということもあり、広い食堂にいたのは筆者とその少年の二人だけだった。

少年は何も食べず、筆者の向かいの席に座って、ずっと話しかけてきた。
「ぼくのこと、忘れないでね」――そんなことを、少し寂しげに、しかしまっすぐな目で言ってきた。

なんというか、非常に可愛らしく、父性本能をくすぐられる思いがした。
思わず財布から日本の1円、5円、10円、50円、100円、500円――全種類のコインを1枚ずつ取り出し、彼に手渡した。

総額666円である。

「これは日本のコインだよ。いつか日本に来てな。これだけあればラーメンくらいは食べられるよ」

そう伝えると、彼は嬉しそうに頷き、最後までホステルの外まで付いてきてくれた。

名残惜しいが、そこでお別れとなった。

今思えば、FacebookやWhatsAppの連絡先を渡しておけばよかったかもしれない。
だが、何だったのかはわからないままでも、心に残る出会いであったことに変わりはない。

本当に、可愛かったな、あの子。

そして、さらばミュンヘン

日本食シック

旅の最後に正直な思いを綴る。

当時のFBの投稿より↓

世間「ヨーロッパ行ってまで日本食食べてんじゃねーぞ!
たった一ヶ月くらい白米なしでもいけるっしょ( ̄Д ̄)ノ」

…はい、僕もこういう時期がありました。

これは旅の最中からなんとなく想像していたことではあったが――
実際に体験すると、想像以上であった。

日本食が1週間も途絶えると、正直、気が狂いそうになる。

美味しいヨーロッパ料理もたくさん食べた。
だが、味噌や醤油の風味、炊き立ての白ごはんの優しさは、じわじわと恋しくなる。

ミュンヘンを出発し、長いフライトを経て降り立った成田空港。
着いた瞬間、最初に探したのは「ラーメン」であった。

迷うことなく店に入り、湯気の立つ一杯をすする――
その瞬間、身体中の細胞が一斉に歓喜の声を上げた気がした。

やはり、日本のラーメンは世界一である。
いや、それ以上に、「帰ってきた」という実感を一番くれたのが、あのラーメンだったのかもしれない。

おわりに

初めての一人旅。

宿も、航空券も、ユーレイルパスも――何もかもすべて自分で手配して思ったのは、

海外は、案外すぐそこにあるということである。

特にアジア圏であれば、2~3万円もあれば2泊3日の旅が可能だ。
これはもう、国内でスキー旅行に行くのと変わらないレベルの出費である。

さらに言えば、英語力に関しても心配はいらない。
話せるに越したことはないが、中学英語を理解できれば、十分に旅は成立する。

道を尋ねる、注文する、駅の案内を見る――
どれも難しいことではない。

必要なのは、ほんの少しの勇気と好奇心だけだ。

2015年の旅も是非ご覧ください↓

ドイツ ミュンヘン 旅行記
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