さて、本記事では、ユダヤ人の聖典である「旧約聖書」の続編――その名も新約聖書についてなるべく噛み砕いて解説していく。
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なにせ旧約の続きである。
いきなり続編から観るのはちょっと…という慎重派の読者諸君、まずは前作をざっくりチェックしてからのほうがいいかもしれない。
以下のリンクからどうぞ↓
さて、本記事ではユダヤ人の聖書(=物語)である旧約聖書をなるべくわかりやすく解説してみました。大まかなお話は以下の記事で既に言及していますので、興味があればこちらからご覧ください↓[sitecard subtitle[…]
今回はちょっと趣向を変えて、漫画風のイラストで新約の世界を案内していくつもりだ。
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とりあえず堅苦しい話はナシ。
笑って読んで、ふと「へぇ~」とつぶやけたらそれで本望である。
では、いざ開幕。
新約の世界へレッツゴー٩( ”ω” )و
なぜイエスは裏切りを知りながら十字架にかけられたのか?
さて、前回の記事ではエルサレムに入場するやいなや、市場をぶっ壊し、ユダヤ教徒を完全論破し、その中で徐々にイエスに反意を抱くユダの存在をご紹介した。
そして最後の晩餐でイエスが突然、空気を凍らせる一言を放つ。
「この中に私を裏切る者がいる」
まさに、サスペンスドラマの終盤みたいなセリフである。
この瞬間、場の空気はカッチカチ。
「まさかオレじゃないですよね?」とザワつく弟子たちの中で、ユダだけが黙ってパンを頬張っていた。
さて、その夜最後の晩餐を終えたイエスは、祈りを捧げるために弟子たちを連れてオリーブ山のゲツセマネの園へと向かった。
そこでイエスはこの先、弟子たちが自分を見捨てることを告げた。
ペトロが
「私は決して見捨てることはありません」
と答えたところ、さらにイエスは言った。
「あなたは夜が明け、鶏が鳴く前に三度、私のことを知らないと言うだろう」
ここまで言われたら普通は逆に意地でも裏切らないと思うが、残念ながら人間とは弱い生き物である。
そして弟子たちにゲツセマネの園で待つように言いつけ、最も近しい弟子であるペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて、さらにその奥に向かった。
イエスは死の哀しみを感じて、魂を削り悶えるように祈りを捧げ始めた。
「父よ、あなたはなんでもおできになります。できることならこの私の苦しみの杯を取り除いてください。しかし、私の意志ではなく、あなたの御心のままになりますように」
まさに“神とのガチ交渉”である。
イエスが苦しみに耐え、ひたすら祈りを捧げている間、三人は寝てしまっていた。
三人「イエス様なげーなー」
イエスは三度も弟子たちを叱りつけ、起こした。
「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」
裏切り、逮捕、死刑宣告ー全ては「預言の成就」のため!
その時、ユダが剣や棒を持った大祭司たちを連れて、イエスのもとへやって来たのだ。
ユダはイエスに近づき、「先生!」とでも言いながら、にじり寄って“裏切りのキス”。
それが合図だった。
大祭司たちは「今だ!」とばかりにイエスを拘束する。
大祭司たちは、イエスを支持する群衆がいない時を見計らって計画を実行したのだ。
逮捕されるイエス
昼間やったら民衆の怒号でユダ側が袋叩きにあう。
さすがの用意周到ぶりである。
しかし、黙って見ていられなかったのが我らがペトロだ。
彼は即座に剣を抜き、大祭司の部下の耳をスパーン!と切り落とした。
「許せん!」という心の叫びがそのまま行動に出た瞬間である。
「許せん!!!!」大暴れするペトロ
だが、イエスは冷静にペトロを制した。
「剣を取る者は皆、剣によって滅ぶ」
カッコいいセリフである。
ペトロとしては「ここで先生を守らなきゃ男じゃない!」と思ったのだろうが、イエスにしてみれば、すでにこの瞬間が“予定調和”だったのだ。
そして、この逮捕は「預言の成就」のためだと告げると、弟子たちは脱兎のごとく一目散に逃げ出してしまった。
まさに蜘蛛の子を散らすように四方八方へダッシュ。
一目散に逃げる弟子たち(こんなに数は多くないが)
カイアファ、大声で死刑宣告!
捕らえられたイエスは、大祭司カイアファに引き渡され、審問にかけられた。
もともとイエスを処刑しようと考えていた彼らは、極刑に処すためのあらゆる証拠や証言を探そうとしたが、これが意外と見つからない。
イエスの落ち度を粗探しする祭司たち
「こいつは神殿を壊すと言ってた」とか「律法を無視してる」とか、粗探しに必死なのだが、なかなか“決定打”が出ない。
そこでカイアファはド直球でイエスに尋ねた。
「お前は神の子、メシアなのか?」
この問いに対し、イエスははっきりと
「そうだ、わたしはメシアだ!」
と答えた。
この回答にカイアファはテンション爆上がりである。
「これ以上、証人はいらない!!!!!!!」
と死刑に処せよと喚きたてた。
イエスの処刑を声高に叫ぶカイアファ
当時のユダヤ教では「自分は神と等しい存在だ」とすることは、唯一の神に対する冒涜だとされていたからである。
議員たちは満場一致で死刑を可決した。
“神と等しい存在”を名乗るのは、その時代のユダヤ教では完全にアウトだったのだ。
その頃、イエスの連行と同時に逃げ出したペトロは、中庭でその様子をうかがっていた。
ペトロ「先生はああ言っていたが、本当に大丈夫だろうか?」
だが不幸にも、そこにいた女中や民衆が目ざとくペトロを見つけた。
「あんた、イエスと一緒にいたでしょ?」
ペトロは咄嗟に
「いやいや、知らん!俺じゃない」
続けて別の民衆にも
「あんたもガリラヤ人だろ?イエスの弟子だろ?」
と問われ、
「ち、違うって言ってるだろ!」
三度目にも
「間違いなくあんただ!」
と詰め寄られ、
「マジで知らんから!!!!」
と叫んだ。
その直後に鶏が鳴き、ペトロはイエスの言葉を思い出し、ペトロはその場で大号泣した。
イエスの予言通りになり悔しがる弟子たち
ユダ、絶望する
一方のユダ。
彼は「イエスを売る」とは言ったものの、まさか本当に死刑になるとは思ってもいなかった。
ユダは慌てて大祭司たちに銀貨三十枚を突き返し、
「いや、話が違うぞ!こんなこと望んでない!」
と判決の取消しを詰め寄るが、大祭司たちは完全にスルー。
「死刑になるなんて聞いてなかったぞ!!!!!!!!!!」
「そっちが勝手に裏切ったんだろ」という冷たい態度だった。
追い詰められたユダは銀貨を神殿に投げ入れ、首を吊って自害したという。
イエスは"政治犯の罪"で磔にされた!
当時のユダヤは、ローマ帝国のがっつり支配下であった。
ユダヤ人たちは律法にうるさいくせに、死刑を執行する権限だけはローマ様に握られていた。
つまり、イエスを死刑にしたければ、ローマの総督様に「お伺い」を立てねばならなかったのだ。
そこで、夜が明けると同時に、イエスはローマのユダヤ総督ポンテオ・ピラトに引き渡されることになった。
尋問を受ける神の子イエス
ピラトはイエスに尋問したが、罪にあたるようなことは何も見つからなかった。
だが、大祭司たちは「ローマに逆らった!」と声高にわめき散らす。
ピラトは次第に頭が痛くなってきた。
そこで、その判断をユダヤ人に委ねることにしたのだ。
ちょうどその頃、エルサレムは過越祭で、この時期には囚人一人を釈放する習慣があった。
ピラトは殺人犯バラバとイエスのどちらを釈放するかを民衆に問うた。
当然イエスかと思いきや、民衆からはなんと
「バラバを釈放せよ、イエスは死刑だ!!」
という声が上がったのだ。
大祭司らが前もって民衆に根回ししていたこともあったが、民衆もまたイエスに失望していたのだ。
民衆がイエスに望んでいたのは、ローマの統治下から解放してくれるという意味での救世主であり、強いリーダーとしての働きだった。
民衆はイエスのその“無抵抗主義”にガッカリしていたのである。
こうしてバラバは無罪放免で自由の身に。
一方イエスは紫の服を着せられ、茨の冠を頭に押し付けられた。
そして、民衆にののしられ、兵士に鞭打たれながら処刑場のあるゴルゴダの丘へ連行された。
その日の午前九時、イエスは二人の強盗とともに十字架に釘で手足を打ちつけられた。
イエスの腕が長過ぎる件
十字架はローマの政治犯を見せしめとして処刑する方法で、つまりイエスは「政治犯枠」として、国家反逆罪で磔にされたのだ。
痛みを和らげるため、薬入りの葡萄酒が与えられたが、イエスはそれを拒否したという。
「最後まで自分の役目を果たす」という覚悟があったのだろう。
さらにイエスの頭上には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれた皮肉たっぷりの看板が掲げられた。
イエスの服も無残に引き裂かれ、兵士たちがくじ引きで山分けしていった。
これはもう完全に「敗者に対する見世物ショー」だったのだ。
その時、暗闇がたちこめ、地震が起こった!
イエスが十字架にかけられても、周囲の野次馬たちは容赦なかった。
祭司たちはしたり顔で、
「さあ、自称“神の子”さんよ、神様に頼んで今すぐ助けてもらったらどうだ?」
と煽る煽る。
群衆も負けじと、
「もし神に愛されてるなら、奇跡でも起こして助けてもらえるんじゃないの?」
とイエスをののしった。
ところがである。
その瞬間――
突如として、あたりは真っ昼間にもかかわらず漆黒の闇に包まれたのだ。
時刻は昼の十二時、その暗がりは十五時頃まで続いたそうだ。
そしておもむろにイエスが叫んだ。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
これは「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味で、イエスはそのまま息を引き取った。
つまりイエスは、最後の最後に「お父さん……助けてくれなかったじゃん……」と言い残し、そのまま静かに息を引き取ったのである。
その瞬間、神殿の垂れ幕が上下真っ二つに裂け、小さな地震が起こった。
それを目の当たりにした人たちは、
「この人は本当に神の子だったのか」
と慄いたという。
遅い。
実に遅すぎるリアクションである。
もはや手遅れ感満載だが、それが人間の悲しいところなのだ。
さて、いよいよ次は「イエス復活!弟子たちの運命が動き出す!」
ハリウッド映画もびっくりの感動ストーリーをご紹介する!
さて、本記事では、ユダヤ人の聖典である「旧約聖書」の続編――その名も新約聖書についてなるべく噛み砕いて解説していく。[show_more more=続きを読む less=折りたたむ color=#0066cc list=»][…]