【徹底解説】「ハプスブルク家」の歴史 ~前編~

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金印勅書を発布したカール四世の息子ジギスムント

アルブレヒト二世(ハプスブルク家)の前、1411年-1437年まで神聖ローマ皇帝を務めていたのが天才的外交家と称されていたカール四世の息子ジギスムントでした。


天才的外交家のジギスムント

ジギスムントは㋐1387年にハンガリー王になり、㋑1411年に神聖ローマ皇帝になり、㋒1436年にボヘミア王になりました。

※このトンデモナイ王位を受け継いだのがハプスブルク家のアルブレヒト二世なのです…

また(ジギスムントは)十字軍を結成しオスマン帝国と戦い、当時大分裂の状態にあったローマ教皇権&カトリック教会の統一を果たし、ローマ教皇を批判するボヘミアのフスを異端派として処刑したりしました。

この時期のとても重要な人物です。


筆者も未だに理解できていない…

えーとにかくですね!

ハプスブルク家のアルブレヒト二世はそのジギスムントの娘と結婚した娘婿だったんです!!

ジギスムントは1437年に死去しましたが、彼には男子の跡継ぎがいませんでした・・・つまり?

ジギスムントが死去し、娘婿のアルブレヒト二世が次期神聖ローマ皇帝に選ばれ、ボヘミア王位とハンガリー王位も相続したんです。

とんでもない相続度合いです(笑)

しかし即位間もなく赤痢に罹り死去し、その従弟フリードリヒ三世が跡を継ぎます。

フリードリヒ三世が神聖ローマ皇帝に(1440年)

【強運の長生き王】

フリードリヒ三世は巧みに対抗馬を退け、なんと53年に渡って在位し、その後のハプスブルク家繁栄の出発点となりました。

なんと言ってもフリードリヒ三世は「スゴイ強運の持ち主」だったようなんです。

面と向かって戦ったら絶対に勝てないような強敵が大勢現れながらも戦争はせず、耐えて耐えて耐え忍んでいるうちに相手が死んだり諦めたりして勝ちを拾った人物なんです( ˘•ω•˘ )

実の弟とも、広大なオーストリアの領地を巡って争いを続け、息子と妻を人質に取られて超不利な内容で和解しましたが、和解後に弟が急死し再び何事も無くオーストリア大公に戻れました。

しかし、ナマズのように超慎重派でのんびり長生きして相手の自滅を待つ作戦のフリードリヒ三世はオーストリアから追放されたり、ハンガリーとボヘミアがハプスブルク家の支配から離脱したりと功績はあまりありません。

ベネルクス三国獲得(1477年)

そんなナマズ男、フリードリヒ三世ですが…

彼の唯一の功績は、現在のベネルクス三国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)に位置する領邦のブルゴーニュ公シャルルの一人娘マリーを息子マクシミリアンの妃に迎えたことでした。


ベネルクス三国とはベルギー、オランダ、ルクセンブルクのこと。

ここら辺から、政略結婚で領地を手に入れるというハプスブルク家のお家芸が次々に炸裂します。

ハプスブルク家はマクシミリアンの妃にマリーを迎えたことでベネルクス三国を手に入れました↓


色が付いている部分がハプスブルク家の領地(着実に拡がっている)

しかしブルゴーニュ地方はフランスとの境界にあったため、これ以降大国フランスとの抗争にも巻き込まれることになります。

マクシミリアン一世が神聖ローマ皇帝に即位(1493年)

【中世最後の騎士】

もうお気付きかもしれませんが、ハプスブルク家は事実上世襲していきます。

選帝侯らはいるけれども世襲です(笑)

選帝侯の存在意義よ(;゚Д゚)

神聖ローマ皇帝に即位したマクシミリアン一世は彼の時代に広大なハプスブルク帝国を建設しました。

マクシミリアン一世はチロル地方も継承しており、それによって銀山経営で巨万の富を築いた史上有名な財閥家系「フッガー家」との関係が始まり、その資金援助を受けれるようにもなりました。

※フッガー家は経済学上でも「フッガー時代」と言われるほど顕著な存在で、ローマ教皇&国王&皇帝などにも資金援助し、その代わりに鉱山開発の特権や商業上の独占権を獲得していた。

しかしスペイン王室にあまりにも深く肩入れし過ぎたので、16世紀後半に同王室が経済破綻したのと同時にフッガー家の繁栄も終了した。

これ以降、ハプスブルク家がブルゴーニュや北イタリア地方に進出し、フランス王家との長い対立の歴史が始まります。

また、マクシミリアン一世の時代にハンガリー王&ボヘミア王の継承権も再び獲得しました。

コロンブスが新大陸発見(1492年)


※コロンブスは第二次航海でアメリカ先住民を大虐殺したクズなので筆者は大嫌いです。

え、何でここでコロンブス?

そう思った方もいると思います。

実はコロンブスの新大陸発見はハプスブルク家にとっても非常に重要な新発見だったんです。

コロンブスはスペイン王の支援を受けてインド到達を目指して航海を始めましたが、 到着したのはアメリカ大陸でした。

まあ有名な話ですけど、インドと勘違いしたコロンブスは、アメリカ大陸にいた先住民をインディオと名付けたんですよね。

ちなみにコロンブスが初めに上陸したのがバハマ諸島のサン・サルバドル島と言われています。

ということで、スペイン王国の支援でコロンブスがアメリカ大陸発見…

ということは?

それからスペイン王国はアメリカ大陸をどんどん侵略&支配していくんです!!!

この話が後で出てきます。

イタリア戦争(1494年-1559年)

ここらへんから、大国フランスと神聖ローマ帝国との戦争がイタリアを戦場として起きるようになります↓

フランスがイタリアを獲得しようと侵出し、それに対して神聖ローマ帝国が軍を出したという感じです。

なぜなら神聖ローマ皇帝はローマ教会(イタリア)の守護者だから。

さっきやりましたよね、覚えてますか?

冒頭で説明した「東フランク王国=キリスト教の守護者」というフレーズ↓

この戦争は結局、財政的に疲れ切った両者が和議を結び終結しますが、このイタリア戦争はその後のヨーロッパに、大きく以下の3つの影響を与えました↓

  1. 軍事革命
  2. 主権国家形成
  3. イタリア=ルネッサンスの終焉

それぞれ説明します。

➀軍事革命

当時のヨーロッパの戦争体制は、騎士を主体とした一騎当千的な戦争でした。

つまり体が大きい英雄が勝つ時代です。

しかし、イタリア戦争を経て鉄砲を持った歩兵の集団戦に変化しました。

つまり圧倒的な火器と圧倒的な戦力で相手を倒す戦争です。

三国志の張飛や関羽、馬超や呂布はもう時代的に必要なくなってきたのです。

体力が無くても、背が低くても、力が無くても鉄砲さえ扱えれば相手を倒せるんですから!

これから「力が強く大きな剣を振り回せる大男」から「国民から徴兵した国民軍に武器を持たせて戦わせよう」と軍事的に変化しました。

➁主権国家形成

また、領邦国家の集まりである神聖ローマ帝国の場合、いざ戦争になってもなかなか団結して戦えませんよね。

なんせそれぞれが得意な戦法も違うし、自分の国の兵士をなるべく第一線に送り込みたくないし。

このイタリア戦争以来、スペインとフランスでは

「国境を明確にし、その領域内の国民を一人の権力者(=国王)が一元的に支配しよう」

と考えが変わりました。

ドイツは領邦国家の権力が依然として強くそこまでの変化は受け入れられませんでした。

③イタリア=ルネッサンスの終焉

ルネッサンスとはラテン語で「再生/復興」を意味し、要するに

「過去のギリシア文化やローマ文化を再生しよう」

という動きです。

文化&芸術を復興しようという事で、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロなどが活躍した時代でしたが、神聖ローマ帝国のカール五世の派遣した軍隊にローマが破壊され、イタリア=ルネッサンスは終わりを迎えました。

マクシミリアン一世の息子フィリップがスペイン王女と結婚(1496年)

そして、マクシミリアン一世は息子フィリップをスペイン王国の王女ファナ(可愛い名前(*´ω`*))と結婚させ、ハプスブルク家はスペインにも進出していくことになりました。

お察しの通り、スペイン王国の国王が亡くなったらスペイン王国は誰のものになるか・・・

ハプスブルク家、恐ろしい。

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