世界遺産1級取得に向けて、「世界史」の必要性を感じ始めた今日この頃です。
今日のテーマは「イスラム世界の展開」です。
今回は紀元前のまとめとして、キーワードを追っていきながら世界の流れを包括的にまとめたいと思います。
一緒に頑張りましょう!
参考書は
「2時間でおさらいできる世界史」
「いちばんやさしい世界史の本」
「世界史要点 図解整理 ハンドブック」
の3冊です。
イスラム教の成立
メッカの商人・ムハンマドがイスラム教を開き、アラビア半島を統一
・ムハンマドがイスラム教をおこす
・イスラム教はユダヤ教・キリスト教の影響を受けている
・メディナでは信者が増え、メッカを奪還、やがてアラビア半島へ広がる
商人・ムハンマド
イスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)は6世紀、アラビア半島のメッカで生まれました。
この頃、(地図中↓紫色の)東ローマ帝国と(地図中↓右端グレーの)ササン朝ペルシアの抗争によって、
シルクロードの通行が困難になり、代わりにアラビア半島を経由する貿易ルートが栄えていました。
地図中↓オレンジ色のルートが東ローマ帝国とササン朝ペルシアの抗争によって通行困難に!
青のルートが代わりに発展します。
メッカやメディナはその中心で、ムハンマドは裕福なアラブ人商人の子でした。
幼い頃に両親を亡くし、親戚と共に隊商貿易に従事していましたが、40歳頃から瞑想にふけるようになり、ある日、神の啓示を受けて、預言者として神の言葉を人々に伝えるようになり、イスラム教が成立しました。
イスラムの教え
それまでアラブ人の宗教は多神教でしたが、ムハンマドは、唯一神アッラーへの「絶対的服従(イスラム)」や、神の前では全ての人が平等であることなどを説きました。
イスラム教は偶像崇拝禁止なので、キリスト教のように「神」や「イエス」などの信仰対象を絵に描くことやイラストで紹介すること、彫像をつくることは論外。
実は預言者ムハンマドも信仰の対象なので、ムハンマドの外見的な記録も残っていないのです。
イスラム教の聖典はコーランです。
コーランは「アラビア語」で書かれたものだけ。
コーランの内容を解説するのは自由ですが、他の言語に翻訳することは認められていません。
なので世界中のイスラム教徒は国籍問わずコーランの言葉をアラビア語で唱えなければなりません。
もしイスラム教の日本人がいても、彼らはアラビア語を使わなければならないのです。
コーランでは、神の像などをつくって拝む偶像崇拝を厳しく禁じるとともに、六信五行を行うことをムスリムの勤めとするなど、信仰や日常生活に関する様々な戒律が定められています。
イスラム教の詳しいことは↓をどうぞ
イスラム教の広がり
ムハンマドは12年間メッカで布教しますが、信者がほとんど増えず迫害を受けて、622年に信者とともにメディナに移住します。
これをヒジュラ(聖遷)といい、この年がイスラム歴の紀元元年となります。
イスラム歴では622年7月16日が元年元日とされ、1年=354日の太陰暦を使用しています。
我々の普通の暦(グレゴリウス暦)と比べると、1年で12日もずれ、季節も関係ありません。
なので「12月」が真冬の時もあれば真夏の時もあるということですね
(※ヒジュラ後からムハンマドの好戦的な一面が顕著になります)
メディナでは信者が急速に増え、ムハンマドはメッカを占領、カーバ神殿にあったアラブの神々の像を破壊(偶像崇拝禁止だから)して、そこをイスラム教の聖殿とします。
アラブ人の部族は、次々にイスラム教徒となり、信者はやがてアラビア半島全域に広がります。
イスラム教の広がりとアラブ帝国
ジハード(聖戦)で拡大するイスラム教。正統カリフ時代からウマイヤ朝へ
・ムハンマドの死後、後継者が4代続く
・異教徒に対するジハードでイスラム教徒の領土が拡大
・ムアーウィヤがウマイヤ朝を開く
正統カリフの時代
ムハンマドが亡くなると、選挙によってアブー=バクルがカリフ(後継者)に選ばれます。
以後、第4代のアリーまでは選挙で選ばれたため、正統カリフと呼ばれます。
正統カリフの時代に、ムスリム(イスラム教の信徒)は異教徒に対してジハード(聖戦)を行います。
2代目カリフのウマルは、642年ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを撃破して滅ぼし、その領土↓を手に入れます。
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)からはシリア、パレスチナ、エジプトを奪います。
ウマイヤ朝の成立
シリア総督のムアーウィヤは第4代カリフのアリーと対立します。
※イスラム教の開祖ムハンマドにはファーティマという娘がいましたが、おそらく女性ということでカリフの資格を得ることができなかったので、ファーティマの夫であるアリーが選ばれました。
その後二人はフサインとハサンという子供を授かっています。
そして、アリーが暗殺されるとムアーウィヤがカリフになり、シリアのダマスクスに首都を移します。
これがウマイヤ朝(スンナ派)で、以後カリフは世襲制となります。
シーア派とスンナ派
シーア派は、ムハンマドの血統にのみ指導者を認めるグループで、暗殺されたアリーとその子孫がムハンマドの真の後継者だとするイスラム教の宗派
現在、イスラム教徒の1割を占める。
シーア派の比率が高い国はイラン、イラク、バーレーン。
一方、ウマイヤ朝以降のカリフを正統とするのが多数派のスンナ(スンニー)派
ウマイヤ朝でも聖戦は続き、東はインダス川まで、西は北アフリカを経て、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼします↓
さらにフランク王国へ侵攻しますが、トゥール・ポワティエ間の戦いで敗れます。
西ゴート王国やフランク王国については↓を参照(別タブで開きます)
それでもイスラムの帝国としては最大の領土を築きます。
アラブ人の帝国
この時代、ムスリムはイコール「アラブ人」でした。
彼らは征服した土地にミスルという軍事(軍営)都市をつくって移住します。
そこではアラビア語が公用語とされ、アラブ人が被征服民へジズヤ(人頭税/人に対する税)とハラージュ(地租/土地に対する税)を取り立てました。
つまり、アラブ人が異民族を支配する構造です。
こうしたことから、正統カリフ時代からウマイヤ朝までは、アラブ帝国とも呼ばれます。
イスラム帝国繁栄から分裂へ
アッバース朝のイスラム帝国が、後ウマイヤ朝やファーティマ朝に分裂
・ウマイヤ朝はアッバース朝に滅ぼされる
・アッバース朝はムスリム間の平等をはかる
・イスラム帝国は後ウマイヤ朝やファーティマ朝、ブワイフ朝などに分裂
平等重視のアッバース朝
ウマイヤ朝は、アラブ人以外のムスリムにジズヤやハラージュを課しました。