さて、本記事では、ユダヤ人の聖典である「旧約聖書」の続編――その名も新約聖書についてなるべく噛み砕いて解説していく。
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なにせ旧約の続きである。
いきなり続編から観るのはちょっと…という慎重派の読者諸君、まずは前作をざっくりチェックしてからのほうがいいかもしれない。
以下のリンクからどうぞ↓
さて、本記事ではユダヤ人の聖書(=物語)である旧約聖書をなるべくわかりやすく解説してみました。大まかなお話は以下の記事で既に言及していますので、興味があればこちらからご覧ください↓[sitecard subtitle[…]
今回はちょっと趣向を変えて、漫画風のイラストで新約の世界を案内していくつもりだ。
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とりあえず堅苦しい話はナシ。
笑って読んで、ふと「へぇ~」とつぶやけたらそれで本望である。
では、いざ開幕。
新約の世界へレッツゴー٩( ”ω” )و
「最後の晩餐」でイエスと十二弟子は何を話したか?
さて、前回の記事では各地で奇跡を起こしながらも敬虔なユダヤ教徒に憎まれ、最終的に自分の死に様を語るイエスをご紹介した。
エルサレムに入城するイエス
預言どおりロバに乗ってエルサレムに入城したイエス。
イエスの到着をエルサレムの人々は喜びをもって迎えた。
大歓声を浴びるイエス
通り道に自分の服を敷き、木の枝を切って道を飾り、歓喜の言葉を叫んでいた民たち。
ファリサイ派やサドカイ派の祭司たちもまた、イエスの到着を首を長くして待っていたのだった。
民たちの大歓迎とは裏腹に、なんとかしてイエスを陥れようと画策していたからである。
そんな中、イエスはエルサレムに着くやいなや、驚くべき行動に出たのだ。
神殿の敷地内で商売をする人々
神殿に向かい、中庭で売り買いをしていた商人たちをなんと無理矢理追い出し、両替人の机をバタァァン、鳩を売る者の腰掛けをガシャーン!
大暴れしたのである。
大暴れする救世主イエス
「『私の家は祈りの家と呼ばれるべきだ』と、聖書に書かれているではないか。それをあなたたちは強盗の巣にしている!!!!」
イエスは神殿を祈りの場所として清めたのである。
まさに救世主の逆襲である。
神殿を清めるイエスに、誰も文句は言えなかった。
しかし筆者はここでちょっと気になることがあった。
イエスは前回の記事で、安息日に麦の穂を食べた弟子に「安息日に収穫という”仕事”をするな」と批判してきたファリサイ派の人間たちに、
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」
と、めちゃくちゃカッコよく人間中心論で論破していたが、今回の件は”神中心”の姿勢で、ちょっとイエスの言動に一貫性が無い気もする。
だが、そんなことを気にする余裕は祭司たちにはない。
そして当然、これを見た神殿の祭司たちはおもしろくない。
怒り狂う祭司たち「なんじゃあの若造はあぁぁぁ」
神殿での商売を認め、利益を得ていたのは自分たちだったからである。
祭司たちは激しい議論をふっかけるが、イエスはそれを次々に論破していくのだった。
祭司たち「人間が神殿の前で商売するのを神はお喜びになっているはずだぁ!!!!」
イエス「え、神が喜んでる?それってあなたの感想ですよね?」
祭司たち「ぐ、ぐむぅ…神がお喜びに…」
イエス「“はい”か”いいえ”で答えてください。それってあなたの感想ですよね?」
祭司たちはもう言い返せず、もはや口ごもるしかなかった。
──イエスの論破力、半端なし。
さて、これが「最後の晩餐」の前日、エルサレムで起きた一幕である。
"ユダの裏切り"は「神のプログラムの一つ」だった?
そんな中、イエスは人々に㋐神の愛と㋑隣人愛をわかりやすく説き続け、ユダヤ教の律法主義を非難しまくっていた。
「掟ばっかり守ってるけど、大事な中身が抜けてるんじゃない?」とでも言わんばかりに、鋭く批判。
その結果、民衆からの支持は爆上がり。
──が、それに比例して祭司たちの敵意も爆上がりである。
ますますイエスを敵視する祭司たち(コワイ…)
と同時に、イエスと弟子たちの間にも微妙なすきま風が吹き始めていたのだ!!!!
たとえばヤコブとヨハネは、図々しくもイエスにこう願い出た。
「神の国が実現したなら、あなたの右と左に私たちを座らせて欲しい」
イエスは迷わず一蹴した。
ヤコブとヨハネにとってみれば、全ての財産をなげうって命懸けで巡礼の旅を共にしてきたのだ。
巡礼するイエス一行
「それくらいの恩恵は…」ということなのだろうが、見返りを求める行為をイエスは良しとしなかった。
イエスは「見返りを求める愛は愛じゃない」という、現代でも通用しそうな信念を崩さなかったのだ。
ユダの不満が爆発寸前
そして、あの有名なユダもイエスに不満を覚えた一人だった。
ある時、一人の女性(信者?)がイエスの足に高価な香油を塗り、自分の髪でその足を拭うという、なかなかの“情熱演出”を披露した。
え、どういう状況?
それを見たユダは、
「その香油を売ってお金にすれば、貧しい人に施しができるものを」
と非難した。
筆者「うん、ユダ君、おれもそう思う。それは正しい。むしろもっと言ってくれ!」
しかしイエスは彼女をかばい、こう言い放った。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」
弟子たち「は、はい。(え、、、?なにそれ…)」
このとき、弟子たちはイエスの「教え」や「奇跡」を信じてはいたものの、心のどこかで「この人、本当に何をしようとしてるのか、よく分からん」と思っていたのだろう。
イエスの教えを十分に理解できていたわけでは無かったのだ。
そして、ユダは動いた
こうしてイエス殺害計画を立て始めた祭司長たちに対し、積もり積もった不満の果てにユダが裏切り行為に出るのだ。
ユダは大祭司カイアファのもとを訪れ、こう尋ねた。
「イエスをあなたたちに引き渡せば、いくらくれますか?」
イエスを売る決心をしたユダ
大祭司たちは銀貨三十枚だと伝え、ユダはそれを受け取ったのである。
こうして、世界史上最も有名な“契約”が成立した。
この裏切りの背景には、今でも様々な憶測が囁かれている。
- 単に欲望に目がくらんだという説
- 悪魔に取り憑かれたという説
- イエスに失望したという説
イエスこそ、かつてのダビデやソロモンのように、ユダヤに再び栄華をもたらす英雄と見込んで自分はついて行ったのに、イエスは軍事面ではなく精神面で人々を満たそうとした。そこに、ユダ自身が裏切られたような感覚を覚えたのでは。 - あえて悪役を買って出た説
神の計画は、イエスが自ら十字架にかかって死ぬことで成就する。ユダの裏切り行為は、神のプログラムの一つだったのでは。
などなど、枚挙にいとまがない。
もしかすると、ユダの裏切りは、「イエスが十字架で死ぬ」という神の壮大なプログラムの中で、最も重要な“トリガー”だったのかもしれない。
だとしたら──
ユダは、歴史上最も誤解され続けている“悲しき名役者”なのかもしれない。
なぜキリスト教では"パンと葡萄酒"が重要な意味を持つのか
時は過越祭。
ユダヤ人にとっては、エジプト脱出の奇跡を祝う超重要な祭りである。
そんな中、イエスは弟子たちと共に一室に集まり、ひとときの食事を共にしていた。
これが後に「最後の晩餐」と呼ばれるパーリナイ(party night)である。
レオナルドダヴィンチ作「最後の晩餐」
この時点で、イエスは自分が裏切られ、やがて処刑される運命にあることを知っていた。
しかも、その裏切り者は今この食卓に一緒に座っているというのだから、なかなかの修羅場である。
そんな緊張感の中、イエスは弟子たちにパンを割いて分け与え、こう語った。
「取って食べなさい。これは私の体である」
次に葡萄酒の入った杯を弟子たちに回し、こう言った。
「飲みなさい。これは私の契約の血である」
これが後に「聖餐(せいさん)式」として受け継がれ、キリスト教において
「パン=イエスの体」「葡萄酒=イエスの血」
という象徴的意味を持つようになったのだ。
キリスト教にとって「パン」と「葡萄酒」は特別なもの
それは現代でも変わらない…
イエスの爆弾発言「裏切り者が、この中にいる」
続いてイエスは、さらにこう断言した。
「ここに座っているあなたがたのうちの一人が、私を裏切ろうとしている」
弟子たちは驚きうろたえ、口々に、
「まさか私のことでは!!!??\(゜ロ\)(/ロ゜)/」
とイエスに問うた。
しかし「裏切り者」を知っていたのはイエスと、既に大祭司らと取引を終えていたユダのみだった。
この時の弟子たちの慌てふためく様子を見事に描いたのが、レオナルドダヴィンチの最後の晩餐なのである。
両手を開いて無実を示す者、隣の者に話しかける者、思わず立ち上がる者。
その中に、ひときわ影のある男が一人
──そう、ユダ(正式名称イスカリオテのユダ)である。
彼は右手に、小さな袋を握っている。
あれは、まさに銀貨三十枚が入った袋……なのかもしれない。
筆者「実際の食事の場で銀貨の袋持ってたらアホの極みだが…」
イエスと同じ食卓を囲みながら、彼の心はすでに裏切りの道へと進んでいたのだ。
では次回、「なぜイエスは裏切りを知りながら十字架にかけられる道を選んだのか?」という核心に迫っていく。
さて、本記事では、ユダヤ人の聖典である「旧約聖書」の続編――その名も新約聖書についてなるべく噛み砕いて解説していく。[show_more more=続きを読む less=折りたたむ color=#0066cc list=»][…]