【徹底解説】「ハプスブルク家」の歴史 ~前編~

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ルターの宗教改革が始まる(1517年)

ルターの宗教改革

なんか言葉だけは習った記憶ありますよね(笑)

簡単に説明します。

宗教改革

ローマ教会は財政的に厳しくなってきたので、ある時「免罪符(贖宥状とも)」という「このお札を買えば死後天国に行けますよ♡」というインチキチケットを売り始めました↓

キリスト教 宗派

ルターは「聖書の教え通りに行動することが大事なので、そんなチケットはインチキだ」と批判し、キリスト教を改革しようとしました。

結果、弾圧されながらもキリスト教は旧態依然のカトリックとより無駄を省いたプロテスタントに二分しヨーロッパのキリスト教世界を震撼させました。

これを宗教改革と呼び、神聖ローマ帝国滅亡の原因の一つとなりました。

カール五世がスペイン王と神聖ローマ皇帝に即位

フィリップとファナの子スペイン王カルロス一世(1516年戴冠)は同時に神聖ローマ皇帝カール五世(1519年戴冠)となったので、フランスを左右から挟むようにハプスブルク家が領土を獲得しました↓

※カルロス一世とカール五世は同一人物です

スペイン王国(赤)とフランス王国(青)と神聖ローマ帝国(緑)です。

フランス王国、冷や冷やもんですね。

さらにハプスブルク家はスペイン王も兼ねているんですよ?

ということは・・・

スペインが支配していたアメリカ大陸も手に入れたということ!!!

このカール五世(カルロス一世)の時代にハプスブルク家は最大領土を有し、ヨーロッパのみならずアメリカ大陸やフィリピンも支配下に置きます。

ヨーロッパだけでもハプスブルク家の支配領域は以下のようになりました↓


※上のオレンジ色はあくまでハプスブルク家所有の領土です。

なので神聖ローマ帝国はその領土の中には入っていません。

コルテスがアステカ王国(メキシコ)を征服(1521年)


※上の地図はだいたいです。正確な範囲を表しているわけではありませんのでご注意を!

スペイン軍はコロンブスが発見した新大陸に続々と乗り込んでどんどん領土を拡大していきました。

これによりアステカ王国(メキシコ)もスペイン領になりました。

オスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)

この頃、イスラム教国であるオスマン帝国のスレイマン一世は大軍を率いて神聖ローマ帝国の拠点であるウィーンを包囲しました(=第一次ウィーン包囲

当時のキリスト教世界であるヨーロッパにとっては非常に大きな脅威でしたが、冬の到来と大砲到着の遅延(←笑)によりオスマン帝国は撤退しました。

オスマン帝国によるウィーン攻略は実現しませんでしたが、ハプスブルク家の都が異教徒に包囲されたのはヨーロッパに衝撃を与えました。

ピサロがインカ帝国(ペルー)を征服(1533年)

神聖ローマ帝国 ハプスブルク家 ハプスブルク帝国
※上の地図はだいたいです。正確な範囲を表しているわけではありませんのでご注意を!

スペイン軍は、メキシコからもっと南下してブラジル以外の南米大陸も支配しました。

なのでメキシコ以南の国々の公用語はスペイン語で、ブラジルのみポルトガル語が公用語なんです。

カール五世が退位し広大な領土を二分割(1556年)

こんな領土を支配していたカール五世(カルロス一世)でしたが、やはり彼も人間。

退位の時がやってきます。

この広大な領土を一人で統治するのはどう考えても無理ゲーだぜ

そう考え、領土をどう分けるべきか、悩みに悩みました。

その結果、弟のフェルディナント一世は「オーストリア=ハプスブルク家」を、息子のフェリペ二世は「スペイン=ハプスブルク家」を継承しました。

つまりカール五世は弟と息子にそれぞれ領地を引き継いだのです。

  1. オーストリア=ハプスブルク家(図中赤色)
    カール五世の弟フェルディナント一世は、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、神聖ローマ帝国を継承
  2. スペイン=ハプスブルク家(図中青色)
    カール五世の息子フェリペ二世は、スペイン、ベネルクス三国、シチリア、ナポリ、南米大陸を継承

ここでハプスブルク帝国は2分割され、2つの家系に分かれることになりました。

ここまでのまとめ

ではここまでのまとめです。

  1. 【伝説の始まり】元々スイスで興ったハプスブルク家だが、1273年にルドルフ一世が初めて神聖ローマ皇帝に選ばれ、1278年のマルヒフェルトの戦いでオーストリアの地を獲得したことで、以降ウィーンがハプスブルク家の本拠地となる。
    神聖ローマ帝国 ハプスブルク家 ハプスブルク帝国
    ハプスブルク家繁栄の初代王ルドルフ一世
  2. 【暗黒時代の到来】しかし1291年にルドルフ一世が死去し、これから約130年間はハプスブルク家からは神聖ローマ皇帝に選ばれず、ひたすらオーストリアの地で地盤固めに専念する。
    神聖ローマ帝国 ハプスブルク家 ハプスブルク帝国
    優秀な一族(笑)
  3. 【新時代の幕開け】1356年にはルクセンブルク家のカール四世が金印勅書によって7選帝侯を規定し、神聖ローマ皇帝選出に関する法律を定めた。
    神聖ローマ帝国 ハプスブルク家 ハプスブルク帝国
    7選帝侯
  4. 【大躍進】カール四世の息子ジギスムントはハンガリー王&神聖ローマ皇帝&ボヘミア王になり、その娘と結婚したのがハプスブルク家のアルブレヒト二世だった。
  5. 1438年、ハプスブルク家のアルブレヒト二世が神聖ローマ皇帝に選ばれ、ボヘミア王とハンガリー王を兼ねたが、即位後まもなく死去し、1440年にその従弟フリードリヒ三世が後を継ぐ。
  6. 【無敗ののんびり王】フリードリヒ三世は超慎重派でのんびり長生きするうちに相手が自滅していくという強運の持ち主だったが、彼の功績はただ一つ。
    神聖ローマ帝国 ハプスブルク家 ハプスブルク帝国
    忍耐強く相手の自滅を待つフリードリヒ三世
  7. 【政略結婚に目覚める】ベネルクス三国のブルゴーニュ公シャルルの一人娘マリーを息子のマクシミリアンの妃に迎えたことである。
  8. 【フランスとの確執】1477年にベネルクス三国も手に入れたハプスブルク家だが、地理的条件からこれ以降大国フランスとの抗争が激化していく。
    ちょうどこの時期1492年にコロンブスが新大陸(アメリカ大陸)を発見する。
    神聖ローマ帝国 ハプスブルク家 ハプスブルク帝国
    大虐殺を行った人間のクズ、コロンブス
  9. 【歴史が動いた】1494年にはイタリア戦争でフランスと衝突し、結局両者は和議を結び戦争は終結するが、「軍事革命」「主権国家の形成」「イタリア=ルネッサンスの終焉」という影響をヨーロッパに与える。
  10. 【超拡大戦略】1496年、マクシミリアン一世の息子フィリップがスペイン王女ファナと結婚し、ハプスブルク家はスペインにも進出し始める。
  11. 1517年にはルターの宗教改革でキリスト教会は大きく揺れ、「プロテスタント」という新たな宗派が生まれる。
    キリスト教 宗派
    卑劣な金儲けを始めたカトリック教会
  12. 【日の沈まぬ国】1516年、フィリップとファナの子カルロス一世がスペイン王になり、同時に神聖ローマ皇帝にもなり、当然ボヘミア王とハンガリー王も継続するというヤバい状況になった。
    また、スペインが支配していたアメリカ大陸も手に入れ、1521年にはアステカ王国(メキシコ)を、1533年にはインカ帝国(ペルー)をも征服してスペイン領とした。
  13. 【ヨーロッパに激震走る】ちょうどこの頃、1529年にオスマン帝国がハプスブルク家の拠点であるウィーンを包囲するというトンデモナイことが起こる。
    神聖ローマ帝国 ハプスブルク家 ハプスブルク帝国
  14. 【運命の相続】1556年、カール五世は弟フェルディナント一世と息子フェリペ二世にそれぞれ「オーストリア=ハプスブルク家」「スペイン=ハプスブルク家」を引き継いだ。

おわりに

ということで、ハプスブルク家勃興から㋐オーストリア=ハプスブルク家と㋑スペイン=ハプスブルク家に分かれるまでを書きました。

いやー、長い!!

もう人の名前とかすぐに忘れそう。

しかも「ハプスブルク家の歴史」とは「=ヨーロッパの歴史」なので、ハプスブルク家の歴史のみを説明してもどうしても長くなってしまいました。

ではこれから、二つに分かれたハプスブルク家をそれぞれ解説していきます(スペイン=ハプスブルク家はすぐに終わります↓)

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オーストリア ハプスブルク家

オーストリア=ハプスブルク家の後編ではあの有名な「マリアテレジア」や「マリ-アントワネット」が出てきますので、お楽しみに。

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