【徹底解説】「オーストリア=ハプスブルク家」の歴史

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フランス革命(1789年)

フランス革命についてです。

これ、調べてみたらトンデモナイものでした・・・まあ簡単に説明しますとね。

当時のフランスは90%の国民が下層階級で毎日生きるのも必死という状況でした。そして驚くことに人口の2%の特権階級はお金持ちでありながら税金を免除されていたんです(これヤバいですよね)

残りの8%は「まあ普通の生活をできる一般人」くらいに考えてください。

つまり

POINT

→『90%の下層階級+8%の中流階級』の税金が、『2%の特権階級』を支えていたんです。

しかも!!!

フランスはイギリスとの植民地戦争やアメリカ独立戦争など、お金が無いのに数々の戦争に積極的に参戦していました。

そんな中、市民の間で「お金が無いなら特権階級からも税金を取れー」という運動が起きます。

それをルイ16世が・・・鎮圧したんです。

それにより起こった市民のバスティーユ牢獄襲撃ヴェルサイユ行進などに焦った国王夫妻は、アントワネットの実家オーストリアへ逃げようとします。

しかし結局捕まってしまい1793年にルイ16世とマリー・アントワネットはギロチンで処刑されました。

※余談ですが

パンすら食べれないほど飢えた国民に皇后アントワネットが「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」と言ったと言われていますが、実際は「パンが無ければブリオッシュを食べればいいじゃない」と言ったらしいです。

ブリオッシュとは、パンとは違い庶民的な菓子パン的なもので、後世に「ケーキ」にすり替わったと言われています。

神聖ローマ帝国滅亡(1806年)

そして遂に962年から続く神聖ローマ帝国が滅亡します。

原因はナポレオンです。

(あいつが、あいつが全てをぶっ壊したんです(´;ω;`)うぅぅ)

では神聖ローマ帝国滅亡の流れを示します

【1789年】フランス革命勃発

※1793年、ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された

【1804年】国民投票でナポレオンが皇帝に即位

イギリス&オーストリア&ロシアが対仏大同盟を結成

※フランスを警戒

【1805年】アウステルリッツの戦い(=三帝会戦とも)でフランスがオーストリアとロシアに圧勝する

※三帝とは「フランス皇帝」「オーストリア皇帝」「ロシア皇帝」の三帝がそろったから

【1806年】ナポレオンがドイツにも目を向け、ライン同盟を結成

※ラインとはドイツのライン川地域のこと

※神聖ローマ帝国内の諸侯とナポレオンが同盟を結んだ

ナポレオンがドイツ諸侯の新たな保護者になる

※「あれ、神聖ローマ帝国いらなくね?」となる

【1806年】神聖ローマ帝国滅亡

※最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世は神聖ローマ皇帝を退位し、オーストリア皇帝としてオーストリア=ハプスブルク家はその後も存続する

※ナポレオンがヨーロッパ中で大暴れした後、ロシア遠征でボロボロになったナポレオンは失脚しエルバ島に流された

※しかしエルバ島を脱出して再び皇帝になるも、周辺諸国が再びナポレオンを叩きのめし今度こそ脱出できない絶海の孤島セントヘレナ島に島流しにされ、ナポレオンはそこで一生を終えた

ウィーン会議(1814年-1815年)

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ウィーン会議とは、オーストリアの首都ウィーンで開催された、

全ヨーロッパの君主を招いて「ナポレオンがいなくなった後のヨーロッパ」をどうしていくかを話し合った会議

で、主宰者はメッテルニヒです。

この会議で各国が話し合った結果、スイスの永世中立が定められたりドイツ連邦が成立したり、フランスとスペインでブルボン王朝が復活したりしました。

オーストリア=ハプスブルク家はウィーン会議で北イタリア(ロンバルディアとヴェネツィア)を獲得しました。

しかし以降はボヘミア&ハンガリー&北イタリアなどで一斉に民族独立運動が噴出し、ハプスブルグ帝国はそれらを抑えるのに必死になります。

会議は踊る、されど進まず・・・

基本的に、1789年のフランス革命から1814年までの25年間は「民主化」という国王にとっては迷惑な時代でした。

なぜなら「国王一強の時代」から「民衆に選ばれた代表者が国を運営する時代」に転換するわけですからね。

なのでウィーン会議の目的は2つ!

・一国が突出して強くならないように勢力均衡を目指そう(ナポレオン時代の恐怖)

・国王や貴族が特権を持つ昔の絶対王制のヨーロッパに戻そう(国王や貴族の特権重視)

というものでした。

しかし、このウィーン会議は毎日宴会をしながらだらだらと続き結局その内容がまとまったのは一年後でした(結局1年間何してたんや(; ・`д・´)

これを皮肉ってウィーン会議は

会議は踊る、されど進まず

と表現されます。

普墺戦争(1866年)

※普とはプロイセン
※墺とはオーストリア

ウィーン会議によってドイツ地方はドイツ連邦になりましたが、1866年にドイツ統一の主導権を巡ってビスマルク率いるプロイセン王国とオーストリア帝国で戦争が起きました(七週間戦争

戦争はわずか7週間で終結・・・

ケーニヒグレーツの戦いでの決定的勝利が決め手となって、プロイセンはオーストリアに大勝しました。

鉄血宰相ビスマルク強し!!!

これによりオーストリアはドイツ統一から除外され、オーストリア=ハプスブルク帝国の基盤を(ドイツを諦めて)東方に向け始めました。

※もしかして普墺戦争でオーストリアが勝利していたら、現在のドイツはとても小さく逆にオーストリアがとても大きな国家になっていたのかもしれませんね。

オーストリア=ハンガリー帝国が成立(1867年)

七週間戦争で敗れたオーストリア=ハプスブルク帝国内では諸民族の独立運動がどんどん強くなっていき、皇帝フランツ・ヨーゼフはハンガリーの形式的な独立を認めました。

ここにオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。

自治は認めるけど国王はハプスブルク家の人間ね」という事です。

※これにより帝国内の様々な諸民族が独立を主張し始めます。

この皇帝フランツ・ヨーゼフの妻がシシーの愛称で知られる美し過ぎる后妃エリザベートです。シシーの話はとっても面白いんですよ(笑)

自由奔放なシシーと姑のゾフィー大公妃はまさに「ハイジとロッテンマイヤーさん」みたいな感じなんです。

ボスニア・ヘルツェゴビナ併合(1908年)

オーストリアは1878年のベルリン条約によってボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を獲得しました。

「オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを統治していいよ」という統治権であって、

「ボスニア・ヘルツェゴヴィナはオーストリアの領地にしていいですよ」っていう意味では無いので注意!!!!

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