【徹底解説】「スペイン=ハプスブルク家」の歴史

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今回は、現在のドイツ地方に存在した「神聖ローマ帝国」を繁栄させたハプスブルク家について説明します。

この項は前後編に分かれており、それぞれの解説範囲は以下の通りです↓

前編:ハプスブルク家の始まり~ハプスブルク家の分割まで

後編:ハプスブルク家の分割~ハプスブルク家滅亡まで(今回)

中世ヨーロッパは○○一世とか△△三世とかややこしい名前が多数出てくるのですが、覚える必要はありません!!

誰の息子とか従兄弟とか孫とかコロコロ名前が変わって僕は覚えきれませんでした・・・

※例えば

「アンリ二世」
「ハインリヒ二世」
「ヘンリー二世」

は(同じ時代なら)全て同じ人物を指します。ただ、フランス語読みかドイツ語読みか英語読みかの違いなんです。

「シャルル」
「カレル」
「カール」
「カルロス」
「チャールズ」

も全て同じ人物を指します。

まあ、大事なのは時代の流れです!!!頭の中で絵本を読むように想像力を働かせればそんなに難しい話では無いと思います。

個人名はすっ飛ばしてください。

では始めます。

ハプスブルク家が勃興してからスペインとオーストリアの2つに分裂するまでの前編をお読みでない方は先にそちらをお読みください↓

【徹底解説】「ハプスブルク家」の歴史 ~前編~

前編のあらすじ

前編のあらすじをまとめました。

10世紀にスイスで興ったハプスブルク家は、1273年にルドルフ一世が初めて神聖ローマ帝国の皇帝に大抜擢され、オーストリアの地を獲得し以降ウィーンがハプスブルク家の本拠地となりました。

しかし1308年を最後に一度ハプスブルク家には暗黒の時代が訪れ、130年間神聖ローマ皇帝には選ばれませんでした。1438年再びアルブレヒト二世が神聖ローマ皇帝に選ばれ、それからは神聖ローマ帝国滅亡の1806年まで皇帝位を独占しました。

ハプスブルク家はカール五世の時代(1516-1556)に最大勢力を誇り、政略結婚によって支配地域をヨーロッパだけでなく南米大陸やアフリカ大陸にも拡大し、神聖ローマ皇帝/ハンガリー王/ボヘミア王/スペイン王などを兼任しました。

カルロス一世もカール五世も同じ人物ですが、スペインではカルロス一世、オーストリアではカール五世と呼ばれている!!!

超巨大帝国の長となったカール五世でしたが、退位の際に「これほど広い領地を一人で統治するのは不可能」と考え、領地を二分割し後継者に託したのでハプスブルク家系も二つに分かれました。

それがスペイン=ハプスブルク家オーストリア=ハプスブルク家です。

本記事はその後のスペイン=ハプスブルク家の歴史を中心に書いていきます。

※スペイン=ハプスブルク家はすぐ終わります(笑)

カルロス一世の子フェリペ二世がスペイン王に(1556年)

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1556年にカルロス一世(カール五世)が死去すると、その子フェリペ二世がスペイン=ハプスブルク家としてスペイン王を継承しました。

このフェリペ二世時代にスペイン=ハプスブルク家は「太陽の沈まぬ国」と言われるほど繁栄しますが、すぐに滅亡します。

コトバンクの説明でも、

ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系に分立することになる。スペイン帝国ではフェリペ2世の時全盛期をむかえるが,1700年に断絶,スペイン継承戦争を招いた。一方,オーストリアでは(後略)

(コトバンクより)

と書かれており

「スペイン帝国ではフェリペ二世の時全盛期をむかえるが, 1700年に断絶, スペイン継承戦争を招いた」

というだけの説明です。

フェリペ二世の継承領土

フェリペ二世は、スペイン=ハプスブルク家として

スペイン、ベネルクス三国、シチリア、ナポリ、南米大陸

を継承しました。地図で言うと↓

この緑色の領地です。

ネーデルラントで独立運動(1568年)

まず、カルロス一世(カール五世)が死去してからスペイン=ハプスブルク家の領地となったネーデルラント地方(現在のベネルクス三国地方)でフェリペ二世

みんなカトリックになるのだ!その他の宗教は認めないよ

という「旧教政策」を行い、カトリック以外の新教徒を認めませんでした。

これに対し経済的自立と宗教の自由を求めるネーデルラントの人々は1568年に反乱を起こしました。

スペインの無敵艦隊(1571年)

スペイン艦隊は1538年のプレヴェザの戦いでオスマン帝国海軍に敗れて東地中海の制海権をオスマン帝国に支配されていました。

リベンジで1571年、スペイン=ハプスブルク家はレパントの海戦でオスマン帝国海軍に挑戦してそれを破り、この勝利で無敵艦隊と称されるようになり(一度勝っただけやのに)、同時に制海権も取り戻すことができました。

ポルトガル併合(1580年)

また当時、ポルトガル王国の王朝断絶を契機にその王位を継承してポルトガル併合を実行しました。フェリペ二世の母親はポルトガル王家出身だったんです。

その結果、スペイン=ハプスブルク家はポルトガル領の植民地も獲得し、スペイン領はヨーロッパからアメリカ、アジアに至る地球一周に分布したので「太陽の沈まぬ国」と呼ばれました。

つまりスペイン領のどこかで必ず陽が昇っているという事ですね。こっちが日没でもあっちは日の出みたいな。

しかし、フェリペ二世は1598年に死去しました。

ネーデルラントが事実上独立(1609年)

新教徒を弾圧したフェリペ二世に対してネーデルラントは、イギリスの支援を受けて1581年に独立(仮)を宣言しました。

それに怒ったフェリペ二世は1588年に無敵艦隊を派遣しましたがイギリス海軍に敗れ、事実上ネーデルラント独立を認めざるを得ませんでした。

しかし国際的に正式にオランダ独立が承認されたのは、三十年戦争後の1648年ウェストファリア条約によってでした。

フェリペ二世の破産宣告

また、フェリペ二世は過去数回に渡って破産宣告をしました。

1557年、1560年、1575年、1596年の計4回です。

Q. 太陽の沈まぬ国と呼ばれたスペイン=ハプスブルク家がなぜ破産宣告したのですか?
アメリカ大陸の資源(銀など)を独占し莫大な収入を得、フッガー家から莫大な資金援助も受けていたのに。

A. 理由は至って単純で、戦争のし過ぎ&贅沢のし過ぎで国内の発展にお金を使わなかったからです。

前編でやりましたが、イタリア戦争で軍事革命が起き、以降の戦争は形式が変わりました。

つまり、【最強ワントップが指揮して勝つ戦争】から【兵隊に鉄砲を持たせて兵力の平均点をぐんと上げる戦争】へと変わったのです。

別の言い方をすれば、頭を使って相手に奇襲技を仕掛ける肉弾戦からお金を大量に使って相手を圧倒する消耗戦へと変わりました。

もちろんお金はめっちゃかかります。

また、エル・エスコリアル宮殿という贅を極めた宮殿建設も実はスペイン=ハプスブルク家の財政を逼迫していたのでした。

最後に破産宣告した2年後、1598年にフェリペ二世は死去し、太陽の沈まぬ国は急速に衰退していきました。

スペイン=ハプスブルク家滅亡(1700年)

フェリペ二世が1598年に死去してから、

フェリペ三世(1598-1621)、フェリペ四世(1621-1665)を経て、スペイン=ハプスブルク家最後の君主カルロス二世(1665-1700)の時代が訪れます。

カルロス二世は超病弱で、跡継ぎを残す前に病死しました。

これにより、1700年にスペイン=ハプスブルク家は滅亡しました。

スペイン=ハプスブルク家は近親婚を繰り返しており、遺伝子疾患を持った子供が多くスペイン=ハプスブルク家内の乳児死亡率は当時の農村部の乳児死亡率より高かったとすら言われています。

これにより起きたのがスペイン継承戦争です。

スペイン継承戦争(1701年~)

中東戦争 イスラエル アラブ

「スペイン継承戦争」を簡単に言います。

スペイン継承戦争

カルロス二世の死後、スペイン王位を誰が継承するかを争って、「フランス」対「イギリス&オランダ&オーストリア(神聖ローマ皇帝)」で起こした戦争

です。スペイン継承戦争の前後の出来事を簡単にフローチャートで説明しますね↓

王位継承者のいないカルロス二世が死去間近

フランス王ルイ14世が孫のフィリップをスペイン王にしようとする

それに対して神聖ローマ皇帝も次男をスペイン王にしようとする

続いてオルレアン家のフィリップ&バイエルン選帝侯&サヴォイア公&ポルトガル王も王位継承権を主張

※当然、主張した全員に「スペイン王室との血縁関係」があり正当なものだった。

【1700年】カルロス二世死去

【1701年】カルロス二世の遺書により、フランスのルイ14世(朕は国家なりで有名なおっさん)の孫フィリップが王に(=フェリペ五世

※スペイン王になるには、フランス王位継承権の放棄が条件だった

フェリペ五世、スペイン王として早速アメリカの黒人奴隷貿易の独占権をフランス貿易会社に与える

※スペイン王のくせに完全にフランス側の行動

※しかもフェリペ五世、フランスの王位継承権を放棄していなかった

「このままだとフランスとスペインが一体になる(超巨大国家)」と考えたイギリスとオランダが強く反発

イギリス&オランダに加えてオーストリアも反発しハーグ条約で同盟を結成(=対仏大同盟)

対仏大同盟がフランスに宣戦布告

スペイン継承戦争が始まる

※イギリスとフランスは、スペイン継承戦争と並行してアメリカ大陸でも戦争をしていた(=アン女王戦争)

神聖ローマ皇帝(兼ハプスブルク家の)レオポルト一世は次男をスペイン皇帝カルロス三世として擁立

※え?(;・∀・)スペイン王とスペイン皇帝というダブル君主状態

【1711年】レオポルト一世と長男ヨーゼフ一世が死に、カルロス三世が神聖ローマ皇帝に

※つまりカルロス三世をスペイン王として認めると、今度は神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)とスペインがくっついてワントップになる

※このカルロス三世の娘があの女帝マリア・テレジア

各国は逆にフェリペ五世をスペイン王として認め休戦を考え始める

※対仏大同盟終了のお知らせ!

【1713年】ユトレヒト条約により、オーストリア(神聖ローマ皇帝)以外の国はフランスと和解し戦争終結

※フランスとスペインが永遠に合同しないのを条件に、フェリペ五世のスペイン王位継承を承認した

【1714年】ラシュタット条約によりオーストリアもフランスと和解、バーデン条約により神聖ローマ帝国全体とフランスとも和解

※実質的に最も大きな利益を得たのはイギリスで、これが将来の海外発展及びイギリス帝国形成の発端となり、フランス&スペインは王位継承権と引き換えに多くの領土を失った

スペインではスペイン=ブルボン王朝が始まる。

スペイン継承戦争後のヨーロッパの地図

という事で、スペイン継承戦争を経てヨーロッパの地図は以下のようになりました↓

ポルトガル&スペイン&フランス&イギリスなどは現在の地図とほぼ変わりありませんね。

おわりに

いかがでしたか?

スペイン=ハプスブルク家はこうして1700年に断絶し、それからスペインはフランスのブルボン王朝の持ち主になりましたとさ。

こう考えると、わずか300年前にはまだこうして戦争をしていたんだなーと思いますよね。

現代に生きる我々からすると、もう世界地図は大きく変わらないと思っていますが一度戦争が起きると大国同士が加わって世界全体を支配下に置く大帝国が再び出てくるかもしれません。

やはり戦争は嫌ですね、当たり前ですが

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