【徹底解説】「オーストリア=ハプスブルク家」の歴史

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まずはボスニア・ヘルツェゴビナの位置を確認してください↓

当時のオーストリア=ハンガリー帝国は現在のスロヴェニアやクロアチアも領土に持っていたので、

この地図の赤い部分がオーストリア=ハンガリー帝国の領土だと思ってください。

そして緑がボスニア・ヘルツェゴビナで、青色がセルビア王国です。

オーストリア=ハンガリー帝国はただ統治を許されていただけでしたが、1908年に突然ボスニア・ヘルツェゴビナを併合しました↓

ボスニア・ヘルツェゴビナには多数のセルビア人も住んでいたので、セルビア人が大激怒しました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人:

「おれはセルビア人でオーストリア人じゃない!!」

セルビア王国:

「我らの同志が勝手にオーストリア人にされた・・・許せない(; ・`д・´)」

オーストリアとセルビア・・・

着々と第一次世界大戦に向かっていますね。

サラエボ事件 1914年

何か聞き覚えのあるワードですよね、サラエボ事件

オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフの甥であり帝位後継者でもあるフランツ・フェルディナントがのこのこと併合後のボスニア・ヘルツェゴビナの都市サライェボにやって来ました。

そこでセルビア人青年が帝位継承者夫妻を暗殺しました(=サラエボ事件

もちろんオーストリアはセルビアに激怒します。しかしセルビアも一歩も引きません。遂にオーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発しました。

※もちろん初めは「オーストリア VS セルビア」だったのですが、「味方の敵は敵」理論で、オーストリアの同盟国とセルビアの同盟国が続々と参戦し世界大戦に発展しました。

ハプスブルク帝国終了 1918年

第一次世界大戦のさなか、68年間という驚異的な長期間帝位に就いていたフランツ・ヨーゼフが死に、甥のカール一世が即位しました。

しかし第一次世界大戦は1918年11月11日にオーストリアやドイツなど三国同盟側の敗北で終わり皇帝カール一世は退位し、オーストリア=ハプスブルク家の支配は終わりました。

ここまでのまとめ

ではここまでのまとめを載せておきます。

読み進めながら思い出していってください。

1556年

カルロス一世の弟フェルディナント一世がオーストリア=ハプスブルク家の王になる

1618-1648年

30年戦争

カトリック勢力がプロテスタント勢力をボコボコにするが、最終的に大国フランスが出現しウェストファリア条約で終結

ここでドイツが「領邦の集まり」から「独立国家の集まり」に変身

1701年

スペイン=ハプスブルク家滅亡によるスペイン継承戦争勃発

スペイン=ハプスブルク家が途絶え、スペイン王室と血縁関係を持つ候補者が互いに争う。

結局、「フランスとスペインは永遠に合同しない」という条件の下でフランスのフェリペ五世が勝利

1711-1740年

フェルディナント二世から(2人の歴代皇帝を飛ばして)カール六世が即位する

長男が死に跡継ぎがいなくなったカール六世は、プラグマティッシェ=ザンクティオンを制定し、娘のマリア・テレジアを次期皇帝にする

1740年-1748年

カール六世死去によるオーストリア継承戦争勃発

プロイセン王国がマリア・テレジアにシュレジエンを要求し戦争が始まる。マリア・テレジアの夫君フランツ一世が正式に神聖ローマ皇帝に。

結局シュレジエンを奪われて戦争終結

1756年-1763年

外交革命と七年戦争

オーストリアは宿敵フランスと同盟を結成し、プロイセン王国がオーストリア領に侵入したのを機に七年戦争が始まる。

結局フランスが戦線離脱し、オーストリアが負けて七年戦争終結。

シュレジエンは正式に奪われた。

1789年

フランス革命

マリー・アントワネットがルイ16世と結婚し、超差別的な貴族優遇政策により民衆が激怒。

オーストリアに逃亡を図った国王夫妻はギロチンで処刑された

1806年

神聖ローマ帝国滅亡

フランス革命後、ナポレオンがフランス皇帝に即位し、破竹の勢いで諸国に圧勝し、ライン同盟でナポレオンがドイツ諸侯の新たな保護者になる。

1814年-1815年

ウィーン会議

勢力均衡と絶対王政復活を決定したウィーン会議だが、代表者は毎日宴会ばかりしていたので「会議は踊る、されど進まず」と揶揄された。

1866年

普墺戦争(七週間戦争)

ウィーン会議によってドイツ地方はドイツ連邦になり、ドイツ統一の主導権を巡ってビスマルク率いるプロイセン王国とオーストリア帝国で戦争勃発。

結局プロイセンが勝ち、ドイツ統一からオーストリアは除外された。

1867年

オーストリア=ハンガリー帝国が成立

オーストリア=ハプスブルク帝国内では諸民族の独立運動が強くなり、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフはハンガリーの独立を認め、ここにオーストリア=ハンガリー帝国が成立。

※フランツ・ヨーゼフの妻がシシーの愛称で知られるエリザベート

1908年

ボスニア・ヘルツェゴビナ併合

オーストリアはベルリン条約によってボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得し、何をとち狂ったかそのままオーストリア=ハンガリー帝国に併合しました。

これがセルビア人を激昂させた。

1914年

サラエボ事件

フランツ・ヨーゼフの甥(帝位継承者)フランツ・フェルディナントがのこのこ併合後のボスニア・ヘルツェゴヴィナに訪れ、セルビア人青年に暗殺された。

これに激怒したオーストリアがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった。

1918年

ハプスブルク帝国終了

フランツ・ヨーゼフが死に甥のカール一世が即位したが、第一次世界大戦はオーストリアの敗北に終わり、皇帝カール一世は退位し、ここにオーストリア=ハプスブルク家の支配が終わった。

おわりに

いかがでしたか?

オーストリア=ハプスブルク家は1556年から1918年までの362年間続いていました。

しかし第一次世界大戦終結と同時にハプスブルク家の支配も終わり、現在の世界地図になっています。

いかにハプスブルク家が現在のヨーロッパ地図に影響を及ぼしたかが分かったと思います。また、ハプスブルク家の歴史はヨーロッパの歴史という事もわかりました。

やはり戦争は嫌ですね、当たり前ですが

オーストリア ハプスブルク家
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