1953年 カストロが立ち上がる
バチスタの独裁政治に苦しめられていた国民を憂えて、バチスタの独裁政権打倒を誓うフィデル・カストロが仲間を率いてバチスタ軍の兵営を襲撃したのです!!!
バチスタの独裁政権による弾圧には我慢できない!
おれらで国を変えようぜ‼
しかし、
計画失敗→逮捕→裁判→恩赦を経てメキシコへ亡命
という風に、完全に流浪の民となりました。
亡命先のメキシコで、アルゼンチン出身の青年革命家チェ・ゲバラと出会います↓
ゲバラは軍医としてカストロ兄弟に力を貸しました。
余談ですが、キューバを歩いていると頻繁に目にするのが全身緑色の「カストロファッション」か「ゲバラTシャツ」です(笑)
↓ゲバラTシャツとか、
カストロファッションとか↓
1956年12月 カストロが再びキューバにカムバック
亡命から再び、グランマ号という12人乗りのヨットに計82人を乗せて(ふぁっ!!!??(゜.゜))メキシコを出発してから1週間後にキューバのラス・コロラーダスへ入港しました。
※「12人乗りに82人」と聞くとスゴイですが、実際は「12人なら超バカンスで2000%くつろげるくらいの大きな船」と言った方が正しいかもしれません。
目の前で見ると「いや、窮屈ではあるけどギリ82人乗れそうやん」って感じの船でした。
グランマ号↓
このグランマ号はキューバの首都ハバナの革命博物館にあります↓
カストロは事前にキューバ再上陸を発表していた(うおぉぉぉいΣ(゚Д゚))ので、到着後にバチスタ政府軍に待ち伏せされて仲間70人を失います。
㋐定員オーバーによる衛生環境の悪化
㋑荒天により船旅が長引いた
という2点がたたり、上陸時の士気は最低だったとも言われています。
結果【82-70=】12人が生き残り、再びこの12人からキューバ革命を夢見て着々と準備をします。
1959年1月1日 キューバ革命成功
再上陸から2年後、仲間を大幅に増やしたカストロがバチスタ政権を倒し、事実上キューバでトップになりました!!!
これをキューバ革命と呼びます。
1960年 ここからカストロの自由奔放な政策が始まる
´60年3月
まずは農業改革を始める。
その手始めにアメリカ所有の農地を取り上げて国有化する
え、、カストロさん…?(゜.゜)
今までずっとアメリカ所有やった農地を急に取り上げてキューバの国有地にしてしまいました。
だが、カストロは負けません!
‘60年10月(7カ月後)キューバ革命政府(カストロたち)は銀行や工場などを含む外国企業まで国有化する
これにキレたアメリカが、キューバの唯一の輸出産業である砂糖を買わなくなり、石油の輸出も止めてしまいました。
キューバ大打撃!!!
1960年~ キューバとソ連が急激に親密になる
そこでアメリカの代わりにソ連が近寄ってきます。
ソ連はアメリカが買わなくなった砂糖も買ってくれるし、石油もお安く渡してくれるし、ソ連はキューバにとっての良きパートナーとして存在感を高めていきました。
キューバはソ連の仲間となり社会主義国家として台頭し出します。
ソ連「よし!アメリカを狙う核ミサイルをキューバにどんどん配備しろー」
アメリカ「・・・。アメリカ本土が危ない。これ以上キューバにソ連のミサイルを入れさすなー」
ついにソ連がキューバに核ミサイルを配備し始めました。
アメリカ大パニックです( ˘ω˘ )
なんせアメリカとキューバはたった150kmしか離れてませんからね。
アメリカはソ連から核ミサイルをキューバに運ばせないために、キューバの周りを囲んで海上封鎖を実施しました。
その代わりにソ連はキューバにミサイルを配備したという経緯があります。
なぜなら当時のミサイルはソ連から直接アメリカまで届かなかったからです。
逆もまた然り。
アメリカはトルコの基地からソ連にミサイル攻撃が可能
ソ連はキューバの基地からアメリカにミサイル攻撃が可能
こんな恐ろしい状態だったんです(;´Д`)
さて、ついにキューバ危機の全容に迫ります。