【徹底解説】「東フランク」のその後 ~神聖ローマ帝国編~

この記事を読むのにかかる時間: 3

その子のオットー一世も、955年にマジャール人を破り、周辺のスラヴ人に対して軍事植民を行い、北イタリアで教皇領を脅かしていた「キリスト教の敵」も倒し、キリスト教布教に努めました。

父と同様に優れた功績をあげたオットー一世は962年の戴冠式でローマ教皇から「君こそローマ帝国の皇帝にふさわしい!」というお墨付きをもらい、ドイツを中心に諸侯をまとめあげました。

※当時は「神聖ローマ帝国」とは呼ばず、単に「ローマ帝国」「ドイツ王国」と呼ばれていましたが、便宜上初期も「神聖ローマ帝国」と呼びます。

オットー一世が行った政策の一つに「帝国教会政策」があります。

これは何かを簡単に言うと

政府が聖職者を任命して教会に送り込みまーす

というトンデモナイ政策です。(神に仕える人間って政府が決めれるもんなん?笑

少し詳しい説明はこちらでどうぞ↓(別タブで開きます)

関連記事

RYOです今回は神聖ローマ帝国初代皇帝のオットー一世が行った「帝国教会政策」を簡単に説明しようと思います。オットー一世とは(出典:ウィキペディア)オットー一世とは、現在のドイツ地域を支配していた東フラ[…]

オットー1世 帝国教会政策

歴代神聖ローマ皇帝の『イタリア政策』

恐れ

オットー一世のみならず、歴代の神聖ローマ帝国の皇帝たちは皆「イタリア政策」を行います。

イタリア政策を一言で言うと

キリスト教で最も権威が高い「ローマ教会」のあるイタリアを支配しようと頑張り続けた政策

です。歴代です、歴代の神聖ローマ帝国皇帝はほぼ全員です!!!!

ドイツ国王やのにドイツにはほとんど滞在せずにイタリア政策に邁進していました(笑)

ではなぜ「イタリア」に固執したのか?

理由は主に3つありました↓

➀神聖ローマ帝国が名ばかりだから

②かつてのローマ帝国復活を目指したから

③イタリアは経済的に豊かだったから

それぞれ説明します。

➀神聖ローマ帝国が名ばかりだから

『神聖ローマ帝国』なんて名前のくせに「ローマ」を持っていない国、それが神聖ローマ帝国なんです。

キリスト教の最高権威であるローマ教会を保有することが最重要課題だったんです。

つまり

【神聖ローマ帝国皇帝】なんて仰々しく名乗ってるくせに、キリスト教最高権威であるローマ教会のあるイタリアを神聖ローマ帝国が支配していなかったから

です。

②かつてのローマ帝国復活を目指したから

紀元前後に最盛期を迎えたローマ帝国の領地は下図の赤と青を合わせたくらい広かったんです↓

フランク王国 ヨーロッパ

(ローマ帝国が東西に分かれた時点での地図)

それに比べて「神聖ローマ帝国」は下図↓のピンク色の部分しか領土として持っていませんでした。

(まあ現在のドイツの基になってる国ですからね)

メルセン条約

つまり

かつてのローマ帝国は西ヨーロッパ全土(当然イタリアも含む)を支配していたのに、神聖ローマ帝国は主に現在のドイツ・オーストリアしか領土として持っていなかったから

でもあります。

③イタリアは経済的に豊かだったから

当時、イタリアはとても経済的に豊かで、上記の理由➀➁に加えて

北イタリアの豊かな経済力が欲しかったから

もイタリア政策の大きな目的であったといえます。

オーストリア ハプスブルク家
最新情報をチェックしよう!