ハプスブルク家のオーストリア統治(1282年)
という事で、ルドルフ一世がオットカール二世をマルヒフェルトの戦いで破りオーストリアを統治し始めました。
これはれっきとした「ハプスブルク家所有の領地」です。
これからハプスブルク家の拠点が現在のオーストリアの首都ウィーンに移ります↓
余談ですが「ウィーン」はドイツ語で、英語だと"Vienna"(ヴィエナ)と言います。
英語圏の人に"I’ll go to ウィーン."って言っても「え、ヴィエナのこと?何言ってんの?」と言われるのがオチです。
(筆者はバックパッカー中にこれで大恥かきました( ˘•ω•˘ ))
どうせ言うなら
「アイ ウィル ゴートゥー ヴィエナ!!」
と言いましょうね。
ウィーンはドイツ語、英語では"Vienna"と呼ぶウィーンと言えば「ウィーン少年合唱団」などでも知られる音楽の都ですよね!!?ウィーンにはモーツァルトが実際に住んでいたアパートなどもあり、そこではモーツァルトが実際に書い[…]
ルドルフ一世が死去(1291年)
しかし、ルドルフ一世が死去してからハプスブルク家は一度「暗黒の時代」を迎えます。
簡単に説明します↓
- 【1292-1298】ルドルフ一世の死後、ナッサウ家のアドルフが神聖ローマ皇帝に即位します。
- 【1298】アドルフが廃位したので、ルドルフ一世の息子アルブレヒト一世が神聖ローマ皇帝に即位します。
ハプスブルク家復活の兆しか!!? - 【1298-1308】アルブレヒト一世在位
- 【1308年】アルブレヒト一世は一族間の内紛で暗殺されます
(え、身内から?(;・∀・) - 【1308-1438】ハプスブルク家はそれから130年間神聖ローマ皇帝に選ばれず、その間もオーストリア大公として、オーストリアの統治に努めた。
という経緯で、ルドルフ四世(ルドルフ一世の子のアルブレヒト一世の子のアルブレヒト二世の子)は神聖ローマ皇帝には選ばれませんが、その間も領土経営に専念していました。
1363年にはチロル地方(オーストリアの一部分)を獲得し↓
1365年にはウィーン大学を設立し、神聖ローマ皇帝カール四世の娘を妻としており、権力はそれなりにありました。
要するに
神聖ローマ皇帝に選ばれなかったのでその間オーストリアの地で地盤固めに専念していた
ということです。
神聖ローマ皇帝に選出されなくてもやるべきことを見失わない優秀な一族ですね(笑)
金印勅書と7選帝侯(1356年)
とりあえず、ここまでのまとめです!
神聖ローマ皇帝不在の大空位時代(だいくういじだい)を経て1273年にハプスブルク家のルドルフ一世が神聖ローマ皇帝になり帝国内の安定を図りました。
※筆者の想像上のルドルフ一世
しかし帝位はその後、ハプスブルク家→ナッサウ家→ルクセンブルク家→ヴィッテルスバッハ家と目まぐるしく交替し、同時に皇帝が2人選出される状態も起き神聖ローマ帝国は完全にパニック状態に。
1273年~1356年まで完全に政治的混乱の時代です。
1356年ようやくルクセンブルク家のカール四世が金印勅書(きんいんちょくしょ)を定めて7選帝侯(ななせんていこう)を固定し、神聖ローマ帝国が安定の時代に入りました。
では金印勅書とは何か?簡単に言うと
金印勅書
神聖ローマ皇帝選出の原則を定めた法律
です。
その中で金印勅書は7選帝侯(せんていこう)という存在を規定しました。
では7選帝侯とは何か?簡単に言うと
7選帝侯
神聖ローマ皇帝を選ぶことができる(投票権のある)7つの諸侯
です。
選ばれし7つの諸侯(7選帝侯)
この当時の神聖ローマ皇帝は世襲制では無く選挙制だったので、神聖ローマ皇帝は7人の多数決で決めるということです。
7人のうち3人が聖職者、4人が有力諸侯で構成されており、マインツ大司教が最も力を持ち彼は「神聖ローマ皇帝の補佐役」でもありました。
金印勅書の内容とは?
では金印勅書の内容に軽く触れておきます。
要は「神聖ローマ皇帝選出の際にもめないように」が大原則であります。
金印勅書は全部で31条あり、例えば・・・
- 選帝侯は3聖職諸侯、4世俗諸侯で構成される
- 選挙は公開投票で多数決原理に従って行われる
- 選挙結果に従わない選帝侯は、選帝侯位そのものを失う
- 選挙はフランクフルト市で行い、戴冠式はアーヘンで行う
- 選挙結果は教皇の承認を必要としない
- 選帝侯は領内における様々な特権(裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造兼、ユダヤ人保護権)を付与される
などがあります。
初めの3項目は「神聖ローマ皇帝選出」に重要であり、
次の2項目は「ローマ教皇の介入防止」に重要であり、
最後の1項目は「選帝侯の特権確保」に重要でした。
ハプスブルク家はカール四世に「将来の対抗勢力」と見なされ、この名誉ある選帝侯には選ばれませんでした。
(金印勅書を出したカール四世の娘とハプスブルク家のルドルフ四世は結婚しているのに、です。
アルブレヒト二世が神聖ローマ皇帝に(1438年)
1438年、130年ぶりにハプスブルク家の当主アルブレヒト二世が神聖ローマ皇帝に選ばれました。
筆者の想像上のアルブレヒト二世
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!ー
しかも、しかもしかも!!!
アルブレヒト二世はボヘミア王(現在のチェコ共和国西部)とハンガリー王(現在のハンガリー)にもなりました。
現在の地図で言いますとこんな感じです↓
早い話、三国を束ねる大出世です。
これには理由がありました。