ここまでのまとめ
さて、だいぶ話がややこしくなってきたのでここらで一度、頭の中を整理しましょう!
第一次世界大戦にロシアが参加
→戦費をばんばん使う
→労働者や兵士にとっては損しかない
→一方で資本家は稼ぎまくる
→ソヴィエト(戦争反対派)と臨時政府(戦争継続派)が出現
→レーニン率いるソヴィエトが三月革命を起こし、ロマノフ王朝滅亡
→続く・・・
この流れを再確認したところで、次の話に移ります。
レーニン登場
こういう状況の中、臨時政府の戦争継続に反対して立ち上がったのが、レーニンでした。
あっちゃこっちゃ飛ばされたり亡命したり、キューバのカストロ議長みたいですね(笑)
レーニンは三月革命が起きると再びロシアに戻って革命指導者になりました。
三月革命後、レーニンは兵士や労働者の支持を獲得し、革命運動をどんどん加速させていき「すべての権力をソヴィエトに」を合言葉に「四月テーゼ」を発表しました。
ここまで、レーニンがやってることは至極真っ当です。
まさに英雄です、優秀な革命指導者レーニン万歳!
十一月革命で臨時政府を倒す
さて、ロシア国内では富裕層と資本家で組織された戦争継続派の臨時政府に対する不満が高まってきました。
あいつら戦争継続とか言っちゃってるもん、まじバカだわ
レーニンは三月革命後、一度フィンランドに亡命しながらも何とか臨時政府を倒して十一月革命(十月革命)を成功させました。
十一月革命を成功させたレーニン
その後、ソヴィエト政権の樹立を宣言!
人民委員会議(国会みたいなもの)を設置し、レーニンがその議長となりました。
つまりレーニンがロシアのトップになり、彼の親友のトロツキーを外交委員(外務大臣)に就けました。
(出典:レフ・トロツキー)
戦争で苦しい思いをした市民や労働者に寄り添った政策で人気を博したレーニン率いるソビエト党であった。
や、やった!
遂に悪の元凶(臨時政府)を倒した。
これからは我らソヴィエト政権がロシアを盛り上げるぞーーー
理想国家を目指して政権運営を始めるレーニン率いるソヴィエトであった。
ボリシェビキ独裁政権樹立
臨時政府を倒した後のロシアで、ロシア史上最初の「普通選挙」が行われました。
普通なら革命の英雄レーニンが大勝しそうですが・・・
びっくり仰天のレーニンおじちゃん
レーニンが所属する独裁的なボリシェビキ(後述します)がまさかの第二党だったのに焦ったレーニンは、
ん、われわれが第二党?汗
ウソだろぉ…
それなら仕方ない、まずは我々が独裁的にロシアを立て直そう。
悪いけどみんな、新国家の建設はボリシェビキ独裁のもとで行うわ
という方針を打ち出し、党名をロシア共産党に変更しました。
これからロシアは共産党以外の政党を認めない一党独裁体制になっていくのでした\(゜ロ\)(/ロ゜)/
もしレーニンが選挙結果(第2党)を尊重していたら、ソ連の歴史は大きく変わっていたでしょうね。
筆者が高校の世界史の授業でマジで意味不明だった「ボリシェヴィキ」と「メンシェヴィキ」についても一応解説しておきます↓
ボリシェビキとメンシェビキ
よく出てくるこの言葉たち、筆者も完全に理解しているわけではありませんが一応説明しますね。
ボリシェビキ
レーニンが所属していた「多少手荒なことをしても結果的に国が平和になるならそれでいい」という独裁的な考えを持っていた政党。ロシア語で「多数派」を意味する。
メンシェビキ
「国民みんなで話し合ってちゃんと順序立てて徐々に国を良くしていこう」という穏健的な考えを持っていた政党。ロシア語で「少数派」を意味する。
まあ2つの政党の名前ということですね。
この独裁的な考えを持ったレーニンが所属するボリシェビキがまさかの第二党だったんですね(笑)
おそらく国民も「こいつらに政権運営任せるのはヤベェかも」と思っていたんでしょう(´⊙ω⊙`)
ソヴィエト社会主義共和国連邦成立
1922年12月、ついにレーニンがソヴィエト連邦の樹立を宣言しました。
遂にこの瞬間が訪れました。
ここまで述べてきた流れを簡単におさらいしておきますので、不安な方は是非お読みください。
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1917年3月:3月革命でロマノフ朝打倒。二重権力状態
1917年11月:11月革命でボリシェビキ(レーニン側)が臨時政府を打倒。ソヴィエト一強状態
1918年1月 :ボリシェビキ党、普通選挙で第二党に。焦ったレーニンがボリシェビキ独裁政権を樹立する。
1918年3月 :ボリシェビキから「ロシア共産党」に名前を変更
1922年12月:その4年後、ソヴィエト社会主義共和国連邦誕生!!!!
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「ボリシェビキ」から「ロシア共産党」に名前を変えた1918年3月から「ソヴィエト社会主義共和国連邦」誕生の1922年12月までの4年間に何が起こったのか、ザっとまとめたので興味ある方は是非お読みください。
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1918年11月に第一時世界大戦が終わり、ロシア国内ではレーニンのロシア共産党に不満を持つ資本家たちが「反革命軍」を結成して内戦状態になっていました。
大戦の戦勝国も社会主義国の台頭を恐れて、反革命軍を支援していました。
焦ったレーニンは、全工業を国有化してあらゆる経済活動を国家が管理するように。
これにより(後でも書きますが)農民の生産意欲が薄れ、深刻な食糧不足で飢饉が引き起こされ多くの人々が苦しむこととなりました。
しかしレーニンは反革命軍を制圧し、ある程度自由な経済活動を認め、国内は再び落ち着きを取り戻しました。
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つまり、なんだかんだありましたがレーニンがソ連を作りました!!
1922年12月のソ連誕生後、ロシア共産党は「ソ連共産党」に名前を変更しました。
スターリンが後継者に
ソ連成立から2年後にレーニンが死去、その後レーニンの親友のトロツキーと争って勝ち、ソ連共産党の主導権を握ったのが「大粛清」で有名なヨシフ・スターリンです。
※ソ連の歴史においてはスターリンの残虐性が特に注目されますが、実はレーニンもスターリン同様に残虐非道な行為を数々行っておりました。
スターリンはジョージア(旧グルジア)出身で、レーニンの遺書には
スターリンはあまりにも粗暴で彼に権力が集中するととんでもない事になるだろう。
もっと辛抱強く、もっと誠実で、もっと丁寧で、もっと同志に親切で、彼ほど気まぐれでない人物を私の後継者にするように。
というような内容が書いてあったそうですが、スターリンが遺書の存在を握りつぶしたのでスターリンの死後になってようやく公開されたようです。
スターリンもレーニンの片腕としてボリシェビキ時代からの同志ですが、そんなスターリンの性格を一言で言うと(レーニンの遺書にもあった通り)
疑い深く独裁的で粗野な人物
と言えます。
スターリンの独裁政権(1929~1953)
レーニンの遺書とは裏腹に、スターリンの独裁政権時代にはスターリンはソ連の英雄として有名になります。
スターリン政権は、
- 1929年の世界恐慌を計画経済で乗り越え、
- 1945年終結の第二次世界大戦も戦勝国として乗り越え、
- 東西冷戦の中でアメリカと互角に渡り合い世界の大国として確固たる地位を築く
という英雄的な一面ばかりが目立ちました。
みんなのヒーロー、スターリン!
それに加えて「スターリン憲法」によりソ連共産党という「党が支配する国家」が完成し、党の指導者スターリンの権力は揺るぎないものになりました。
まさにフランスのルイ14世の「朕は国家なり」状態で、スターリンの個人崇拝が広がっていた時代です。
ここで一つ、スターリンの影響力を表すエピソード『スターリン・ショック』を紹介します。
スターリン・ショック
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1953年、ソ連の最高指導者&東側陣営のトップ「ヨシフ・スターリン」の死去をきっかけに株価の大暴落が発生した。
スターリン死去→冷戦緩和?→朝鮮特需終了?→軍需関連株を中心に売りが殺到→下落率は約10%(当時最大)
という桶屋方式でスターリン暴落が起きました。
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ソ連の最高指導者であるスターリンがどれほど影響力を持っていたかのエピソードですね、スターリン恐るべし…。
スターリン「俺がルールだ!」
ソ連国民「きゃースターリン様ーこっち向いてーーーー」
「スターリン批判」をしたフルシチョフ(1953~1963)
スターリンの死後、ソ連共産党の指導者になったのがニキータ・フルシチョフ!
(出典:Time Magazine)
それまで恐怖政治を行っていたスターリンとは打って変わって、フルシチョフの時代には雪解けと平和共存が進みます。
フルシチョフは地方の労働者出身で、モスクワ市長として経験を積み、その親しみやすい風貌からも民衆に人気がありました。
そのフルシチョフがやってくれました!!!
スターリンの死後とはいえ、当時はかなり勇気がいたと思います。
秘密会議の席で堂々とスターリン批判を行ったフルシチョフ
秘密会議で行ったスターリン批判によって、スターリン独裁政権時代の24年間にどんなことが起こっていたのか、決して英雄とは言えないスターリンの恐ろしい一面が後に外部に漏れ、全世界の人間が知ることになりました。
ななな!!???
独裁者スターリンの悪事をバラしたやて?
アンビリーバブルや〜!
スターリン批判によって明らかになったのがこちら↓
- 大粛清
- 密告制度
- 五ヵ年計画
それぞれ説明します。
大粛清
スターリンはとても疑い深い人間でした。
気に入らない人間や少しでも自分に反意を感じた人間は、党幹部であろうと議員であろうと農民であろうと容赦なく「人民の敵」という名目で逮捕・銃殺したのです。
党中央委員会の委員と候補(つまり将来のソ連を担うエリート集団)、139名のうち98名が逮捕・銃殺
決議権・審議権を持っていた代議員(準幹部くらい)、1956名のうち1108名が逮捕・銃殺
少しでも疑いのある人間は粛清、粛清、粛清の嵐!!!
大粛清が最も盛んだった1936年~1938年の2年間で「人民の敵」という名目で最低でも逮捕者250万人のうち、処刑で68万人、獄死で16万人が亡くなったと言われています。
しかしそれだけではありませんでした。
密告制度
密告制度という言葉は筆者が勝手に作りました。
スターリンは一般国民に密告者を紛れ込ませてスターリン批判をした者を密告させ、尽(ことごと)く粛清しました。
密告者には報酬も与えられたため、密告はエスカレートし国民は互いに疑心暗鬼になり罪のない者まで密告するようになりました。
少なくとも100万人の罪のない国民が粛清されたと言われています。
お、おれの悪口言ってる奴はおまえか?(チラッ
それともおまえかぁ?(チラッ
そいつら全員おれの敵だーー
敵は容赦なく殺す!!!
ロシアの軍事・安全保障政策の専門家、小泉悠氏の著書「ロシア点描」にも同様の記述がありました。
とっても難解そうなタイトルですが読んでみると難しい内容はほとんどないので初心者にこそおススメです(*´ω`*)
内容の一部を要約するとこうです↓
スターリン時代に建てられた超高級マンション「スターリンカ」に住めたのは、ソ連でもそれなりの地位にある人だった。
そのスターリンカの住人(=つまりソ連の幹部)はNKVD(=KGBの前身組織)に常に盗聴されており、これらの超高級アパートは住人がしょっちゅう姿を消すことでも有名だった。
その後の行方は不明で、周りの住民に尋ねても「いえ、最初からそんな人はいませんでした」といった答えが、しれっと返ってくるそうだ。
ソ連のエリートたちですらこの始末、もはやホラーです(゜.゜)
二度の五ヵ年計画
五ヵ年計画(ごかねんけいかく)とは、
です。
計画目標は、
全工業生産高 250%増
重工業 330%増
農業生産 150%増
というとんでもないものでした。
結果、これが大失敗…
農業の集団化の概要はこちら↓(別タブで開きます)
RYOです。本記事ではスターリンが行った五ヵ年計画のうち「農業の集団化」の内容を説明しています。大粛清で有名なスターリンソ連のトップだったスターリンは自国(≒ソ連)の農業生産の爆発的な増加を望んでおり、五[…]
結果、大規模な飢饉を起こしながらも獲得した外貨により工業化は(一応)大成功。
ジュガシビリ「あれ、農地荒れまくってんな。おい!ここの農場主を処刑しとけ」
まあ自国民の食糧を奪って他国に売りまくって稼いだわけですからね…
計画経済を行っていたソ連は、1929年に起きた世界恐慌で日本/アメリカ/イギリスなどの資本主義国が苦しんでいた中で、
ソ連「あれー資本主義国さんたち。世界恐慌ですって?大変ですね(笑)ぼくたちは計画経済なので関係ないよーだ。五ヵ年計画も大成功だし社会主義ばんざーい」
資本主義国「五ヵ年計画大成功だって!!?まさか、本当に社会主義国家が最も優れた国会体制だというのか?とりあえず社会主義スゴイ!!」
という状況でした。
実際は大飢饉で600~1,000万人が死んでいましたが、失敗を隠して五ヵ年計画の成功を世界に宣言しました。
以上の内容を、秘密会議でフルシチョフが報告しそれがアメリカのCIAに漏れて全世界が知るところになりました。
ホロドモールの概要はこちら(別タブで開きます)
さて、今回は旧ソ連の指導者スターリンが行った重工業化達成の裏で犠牲になったウクライナ国民の大量虐殺「ホロドモール」について解説致します。筆者ほんっとに、スターリンめちゃくちゃやっとんなこの時代に生[…]
また(これは戦争中という事もありますが)スターリンはポーランド将兵数千人を虐殺してカティンの森に埋めたとされる事件(カティンの森事件)など、虐殺も数多く行ってきました。
スターリンによる犠牲者は学者によってまちまちですが、1200万人とか1600万人なんて言われたりもします。