さて、今回のテーマは「ベルリンの壁」です。
本記事では「ベルリンの壁」とは一体なんだったのかを設立から崩壊まで図解多めでなるべく面白くわかりやすくまとめようと思います。
※一応詳しく知りたい方もいると思うので、ある程度小難しい話も混ざっています。
なるべく簡単におもしろく説明するので興味があれば読んでってください(^◇^)
では早速始めます!
『ベルリンの壁』建設と崩壊はいつ?
まずは超基本情報からです。
ベルリンの壁が初めて建設された:1961年8月
ベルリンの壁が崩壊した:1989年11月
つまり28年もの間、ベルリンは東西に分けられていたんですね!!!
それまで同一の民族だったのに、大国のエゴで(後述します)いきなり東西に二分させられたんです( ノД`)シクシク…
ベルリンの壁はどこを囲んでいたのか?
これ勘違いしている人が多いです(←以前の筆者
『ベルリンの壁』は東西ドイツを区切っていたのではありません。
ドイツの首都であるベルリンの西側(西ベルリン)をぐるりと囲んでいたのです↓
右上に地図がありますが、ベルリンは東ドイツ領に浮かぶ小島のようなものだった
西ドイツと東ドイツを区切っていた、と思っている人が多いので注意です。
詳しくはこちらの記事で↓
ベルリンの壁は、東ドイツの中の西ベルリンを分ける壁!様々な世界情勢を勉強しながら楽しめるゴルゴ13ですが、ナチスドイツや東西ドイツ時代の話もかなり多く紹介されます。その中で漠然と認識していたベルリンの壁が東ドイツと西ドイ[…]
東西ドイツを区切るとしたら、(google mapで測ったところ)およそ1000kmも壁を作らなければなりません(´・ω・`)
ベルリンの壁を建造した理由
西ベルリンをグルーっと壁で囲んだ理由、それは至ってシンプルです。
東ドイツ市民が西ドイツに逃げようとしたから
です。
もう少し詳しい内容は後で話しますが、要するに
西ドイツ(資本主義)=自由で豊かな国
東ドイツ(社会主義)=不自由で貧しい国
という状況に失望した東ドイツ市民が経済発展が著しい西ドイツに逃げ始めました。
その逃げ方がポイントです。
- 東ドイツ市民が直接西ドイツに逃げるのは不可能(遠すぎる)
- ということで東ドイツ市民はまず西ベルリンに逃げる。
- そして西ベルリンから飛行機に乗って西ドイツ領内に逃げる。
というものでした↓
東西ドイツの国境近くの住民ならそのまま西ベルリンに逃げれたのでしょうが…
それを止めようとして東ドイツ政府は西ベルリンを囲む壁を作りました。
つまりベルリンの壁は、
なんです。
ですのでドイツ人同士が東西に分かれて憎しみ合っていたわけではないのです(。・ω・。)
筆者はドイツ人同士が東西に分かれて争っていたと、漠然と勘違いしていました。
西ベルリン市民「(あれ、なんか壁が造られてる…)おーい!!聞こえるかあぁ?」
東ベルリン市民「(なんだこの壁は…?)うおぉぉい!!!そっちはどんな様子だあぁぁ?」
第二次世界大戦終結後
「おれの人生を奪った壁、憎んでも憎み切れないぜ…」
では「ベルリンの壁」の歴史を順に追っていきましょう!
重要なのは、なぜ壁を作ったのかです。
ベルリンの壁の物語は大きくここから、第二次世界大戦終結から始まります。
戦勝国と敗戦国
まずはこれからおさらいしましょう。
第二次世界大戦の主な戦勝国と敗戦国、ちゃんと言えますか?
主な戦勝国(=連合国とも):アメリカ、イギリス、ソ連
主な敗戦国(=枢軸国とも):日本、ドイツ、イタリア
最終的に連合国側(アメリカ)が日本の広島と長崎に原子爆弾を投下して日本が降伏。
ポツダム宣言を受けて世界大戦は終結しました。
※余談ですが、現在ロシアとの領土問題でもめている北方領土4島は8月15日に日本が無条件降伏してからソ連が軍事的に侵攻し占拠したのです。
日本側は「降伏した後で我が国の領土に侵攻するのはさすがに許せない。北方領土返せ!」と主張し、ロシアは「は?知らねーし(笑)もうロシア国民も住んでんだよおぉぉ」と主張しています。
では戦後のドイツ分割のお話に入ります。
世界が東側と西側に分かれる
もともとアメリカとソ連は第二次世界大戦で日独伊をやっつけた仲間のはず。
しかし戦後は東西冷戦と呼ばれるほど、お互いを敵視し合います。
それはなぜでしょうか?
第二次世界大戦中、ドイツのヒットラーは(イタリアのムッソリーニと共に)ヨーロッパ諸国をどんどん占領していきました。
連合国側のヨーロッパ代表イギリスとフランスのうち、フランスの首都パリまでもがヒットラー率いるナチスドイツに占領されましたΣ(゚Д゚)
こういう危機的状況になり、イギリスはアメリカと組んでドイツに宣戦布告し、まずはフランスを取り戻す目的で「ノルマンディー上陸作戦」を行いました↓
上図の海岸から、ドイツに占領されていたフランスを助けるべく、主にイギリスとアメリカ軍がノルマンディー地方に上陸しました↓
また、ソ連はソ連で独ソ不可侵条約を破ってドイツに攻め込み、ドイツ&イタリア勢力をソ連&米英が東西から攻め立てました。
つまり挟み撃ちですね↓
赤色が枢軸国側、青色が米英、黄緑色がソ連
結果、ドイツ&イタリア勢力を東西からどんどん制圧していき、米英とソ連はドイツのエルベ川で遂に出会いました↓
(出典:産経ニュース)
↑アメリカ兵とソ連兵が握手していますね、これが有名な「エルベの誓い」です。
ドイツの地図とエルベ川の位置
結局、ソ連とアメリカ(&イギリス)がドイツやイタリアなど枢軸国側を追い込み、ヒットラーは拳銃自殺してヨーロッパでの戦争は終わりを告げます。
そしてウクライナのヤルタで開かれた「ヤルタ会談」で戦後のヨーロッパ分割を協議します↓
↑ヤルタ会談の様子(左からチャーチル、ルーズベルト、スターリン)
㋐イギリスのチャーチル、㋑アメリカのルーズベルト、㋒ソ連のスターリンという第二次世界大戦を勝利した神3がドイツの分割をどうするか話し合いました。
では戦後のドイツ分割のけっかはっぴょおおおおぉぉぉぉ(結果発表)!!
協議の結果、下の地図のようになりました↓
首都ベルリンは東ドイツ側にある。
なななんと、ドイツが東西に分かれました!
しかも首都ベルリンは東ドイツ地域に浮かぶ小島のような存在です。
そして首都ベルリンも東西(の陣営)に分かれたのでした・・・。
ベルリンの周りは東ドイツ地域であることを忘れずに(右上の地図を参照)
地図を見ても明らかなように、西側諸国が管轄する「西ベルリン」は東ドイツ地域に浮かぶ小島のような存在なんです!
東ドイツ地域にポツンとある西ベルリンですが、管轄は西ドイツ(西側陣営)なので非常に管理しにくいのはわかりますよね。
とはなりませんでした!!
次第に「(東ドイツを含む)ソ連側が占領した地域」の情報が西側諸国に公開されなくなってきたのです!!!
鉄のカーテン演説
そこでイギリスのチャーチルが演説の中で有名なあのワードを出しました。
最近になってですが、ソ連が占領した東側諸国の情報が我々西側諸国に全く知らされなくなりました。
今、東側諸国がどんな状況なのかが全くわかりません。
まじヤバいっす。
まるで鉄のカーテンが敷かれているような、そ、そんな感じです!!
的なことを、正確には
と、ソ連の閉鎖性を批判しました。
赤ラインが鉄のカーテン
これから米ソが東西に分かれ始めます。
東側諸国の情報が入らなくなってきた…
東側諸国(地図中薄黄色)はソ連、つまり「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の一部ではなく、あくまで大国ソ連と同盟関係の国々でした。
薄黄色の国々はソ連とは同盟国であり構成国ではない(←超重要
しかし実際の力関係はソ連共産党が支配していたも同然です。
ソ連の中ではロシアが最も強い
つまり、ロシア一国がソ連と東側諸国を牛耳っていた、ということなのです。
しかもしかも、東側諸国は(事実上)ソ連(≒ロシア)に占領されているのでソ連の言うことを聞いてペコペコ頭を下げる共産主義的な政党ばかりが権力を握りました。
(緑色はジャイアン、薄黄色はのび太)
上の地図で自由な選挙によって国の代表が選ばれたのはチェコスロバキアだけでした。
チェコスロバキアだけは自由選挙が行われた、が…
しかし共産党がクーデターを起こし「自由な選挙」を目指した対立政党の人間を全員殺したので結局チェコスロバキアも共産党が国の代表になりました。
ロシアがソ連や東側諸国をコントロールしたかった理由、それは緩衝地帯が欲しかったからなのです。
俺らの言うこと聞く奴らが緩衝材として西側諸国との間にいないとヤバいな。
西側が本気で攻めてきても間に緩衝材いたらとりあえずは時間が稼げるしな(笑)
と考えていたわけです。
筆者はこれを緩衝材作戦と勝手に名付けました(笑)
ロシアを攻めるには緩衝材となっているその他の東側諸国やソ連構成国を先に攻めないといけないので、この緩衝材作戦は非常に効果があったといえます。
ついでにソ連の歴史もおもしろいので是非ご覧ください↓
1878年12月21日、ヨシフ・(ヴィッサリオノヴィチ)・ジュガシヴィリと名付けられた男の子が、ジョージア(旧グルジア)のゴリという小さな町で産声をあげた。ジョージアはロシアと隣接している両親「生まれてきてくれてありがと[…]
ベルリンの壁建設
さて、ベルリンの壁建設を勉強するための準備運動が終わりました!
ではこれから、ドイツとベルリンの様子をみていきましょう。
東西ドイツと東西ベルリン
しつこいですがもう一度だけこの流れを確認してください。
連合国はまず占領したドイツを東西に半分に分けました。
それが「東ドイツ」と「西ドイツ」です↓
そしてドイツを東西に分けた後、首都ベルリンも半分に分けました。
それが「東ベルリン」と「西ベルリン」です↓
つまり西ベルリンは東ドイツという大きな海の中に浮かぶ絶海の孤島といった感じですよね。
よって、こうなりました!!!(完成形)
ベルリンが東西に分かれた直後は壁はありません‼
これから、ベルリンの壁はこの西ベルリンを囲むように建てられ始めるのでした。
では次のステップに移ります。
ベルリン危機
ベルリンは世界にっとても火中の栗であり、ベルリン問題を巡って核兵器が乱発される第三次世界大戦が起きるかもしれないという不安さえ高まっていました(=ベルリン危機)
ではそのベルリン危機について軽く説明します↓
ソ連のスタンドプレー ~1948年~
時は1948年、ソ連は第二次世界大戦で失った戦費をまかなうために占領しているドイツのマルクを大量に印刷し、ドイツがインフレに突入しました。
インフレってわかります・・・か?
物の値段が上昇して相対的にお金の価値が下がることですよね?
インフレを超簡単に説明してみました、一度ご覧ください↓
➀たとえばこの世界には、リンゴ10個と1万円札10枚しかないとしましょう。
②ということは、リンゴ1個が1万円ですよね?
③では紙幣の枚数を増やそうとして、1万円札をさらに90枚刷ったとします。
④すると、おや?リンゴの数は10個と変わっていないのにお金の量が100万円になったので、リンゴ1個の値段が10万円になっちゃいました。
⑤あら不思議、ということはお金を刷れば刷るほど、物の値段が上がっていくということになりますね。
⑥リンゴ1個が1万円→10万円(物価10倍)、逆に言えば紙幣の価値が1/10になったのです(゚д゚)!
⑦だってもはや1万円ではリンゴを1個も買えませんからね。
「物価が上がると現金の価値は相対的に下がるので、銀行預金じゃなく投資をしましょう」と巷でよく言われるのはこういうことなんですね。
昔の「1円」は今のいくら?明治・大正・昭和・現在、貨幣価値(お金の価値)の推移という記事によると、大正時代(1913年)の1円は現在の4,000円の価値があったようです。
大正時代に100円(=現在の40万円)持っていた人がずっと銀行に100円を預けており(利息分は無視)、令和の現在に100円を引き出して買い物をしてもマクドのハンバーガー1つしか食べれません。
まあ極端な話ですがそういうことです。
(札束の山で遊ぶおチビちゃんたち)
だいぶ話が逸れまして申し訳ございません。
ソ連がドイツのマルクを大量に造幣してドイツがインフレに突入しました。
ソ連はそのマルクを使って失った戦費を回収しようと考えたんです。
このソ連の自己中心的な行動に西側諸国は反発して独自の通貨を発行しました(=通貨改革)
※じゃないとソ連だけがお金をザクザク手に入れて、米英仏がそのツケを払うだけですからね。
別の通貨を発行すれば「東ドイツは東ドイツ、うちはうち」と、西ドイツ市民も安心です。
これに怒ったスターリンが西ベルリンへの交通路(道路/水路/鉄道)の全てを封鎖したのです!!
西ベルリンは東ドイツという海に浮かぶ絶海の孤島ですからね。
これをベルリン封鎖と呼びます。
おそらく世界中の人間がそう叫んだと思います(笑)
当時、西ベルリンには市民&軍隊合わせて225万人いたらしく(めっちゃ多い!!!)、ベルリン封鎖で交通路が塞がれたことによりその225万人分の食糧が絶たれたわけです。
もう一度言いますが、西ベルリンは東ドイツに浮かぶ小さな島のような感じなので↓
交通路を封鎖され、食糧や医療用品が手に入らなくなった西ベルリン市民&占領部隊は大ピンチです!!!
スターリン「あーあ、おれマジできれちゃったよ~ベルリン封鎖じゃい!!!!」
世界「ベルリン封鎖?(゚Д゚;)米ソの対立がヤバ過ぎる。次は第三次世界大戦かも・・・。」
西側の大空輸作戦(=空の架け橋作戦) ~1949年~
マルクを使うのかと思いきや、アメリカは空軍を使って西ベルリン市民&占領部隊に食糧や医療用品、生活用品を届けるために飛行機で大規模な輸送を開始しました(=大空輸作戦)
15か月に渡って計27万回、総輸送量183万トンに達する物資の空輸を遂行。
その後、ソ連のスターリンが譲歩して1949年5月11日にベルリン封鎖を解除しました。
スターリン「ちっ‼ベルリン封鎖は解除だ、ありがとうは?」
世界「ベルリン封鎖の解除?ほっ( ´Д`)=3 フゥ」
ベルリン暴動 ~1953年~
ベルリン封鎖から4年、西ドイツはアメリカの経済支援を受けてぐんぐん経済復興を達成していきます。
しかし東ドイツはソ連と同じように社会主義体制のもとで経済成長が遅れており、東西ドイツの経済格差が顕著になり東ドイツ市民は次第に不満を募らせていきました!!!
そんな中ソ連の独裁者スターリンが死去、不満が爆発した東ベルリン市民が暴動を起こしました。
暴動自体はすぐに鎮圧されましたが、豊かな生活と自由を求めて東ドイツ市民が西ドイツに逃げるようになりました。
ではどうするか?
はい、一度西ベルリンに行きそこから飛行機で西ドイツに飛べばいいんです↓
西ドイツ市民「東ドイツって経済発展してないよねー、おーいみんなこっちに来いよー」
東ドイツ市民「西ドイツ市民になりたーーーい」
東ドイツの農業集団化 ~1956年~
さらに!!!
東ドイツではソ連と同じように、徹底的な社会主義体制のもとで農業の集団化が強制的に行われていました。
RYOです。本記事ではスターリンが行った五ヵ年計画のうち「農業の集団化」の内容を説明しています。大粛清で有名なスターリンソ連のトップだったスターリンは自国(≒ソ連)の農業生産の爆発的な増加を望んでおり、五[…]
詳しくは上の記事に書いてありますが、まあ簡単に言うと
農業の集団化
広い農地を持つ農夫(=優秀な農夫)を富農として嫌悪し絶滅させ、農業初心者ばかりを集団でグループにして大規模で機械化された農業をやらせること。
社会主義では「金持ち=あくどい」と考える。
農業初心者ばかりが集まってグループになって農業をやるのですから、結果は当然大失敗!
慢性的な食糧危機が続きます。
これにより、もっと多くの東ドイツ市民が西ベルリン逃亡を考えました。
東ドイツ政府「お金持ちの農夫は、それだけ労働者をこき使って薄給で働かせている悪の象徴だーー(=農夫絶滅)」
富農「今まで真面目に農業やって、農地を開拓してただけなのに~~ぐはあ」
農業初心者「あ、水やり過ぎて枯れちゃった(笑) 農業ってムズイね」
資本主義・社会主義・共産主義についてはこちらの記事で解説しています↓
※本記事のタイトルはChatGPTにより提案されたものを試験的に採用しております。RYOです本記事では、何度習ってもなかなか理解しにくい「社会主義」と「共産主義」の違い、そして「資本主義」について説明し、またよく混同[…]
米ソ首脳会談決裂とベルリンの壁建設 ~1961年~
さて、ここからベルリンの壁建設が始まります!!!
アメリカのケネディとソ連のフルシチョフ
第三次世界大戦勃発を恐れた国際世論は米ソへ平和共存を求めました。
そこで、アメリカ大統領ケネディとソ連書記長フルシチョフが会談し、ベルリン問題の解決を協議しました(=ウィーン会談)
結果・・・
東ドイツ政府が(まあ、ソ連のボス猿フルシチョフがそう命令したんでしょうが)再びベルリン封鎖を実施。
と同時に東ドイツ市民が西ベルリンを経由して西ドイツに逃亡するのをみて『ベルリンの壁』の建設を開始しました。
東ドイツ市民が西ドイツへ逃亡を始めた1949年からベルリンの壁が建設された1961年までの12年間で、およそ250万人の東ドイツ市民が既に西ドイツに脱出していました。
国際世論「アメリカもソ連も仲良くしてー、もしまた戦争が起きたら今度こそ世界が終わるよー(´;ω;`)」
アメリカ「ソ連さー、その秘密主義やめてくんね?マジうざいんですけど」
ソ連「てめーらには関係ねーだろ!アメリカ軍も西ベルリンから出てけよ」
東ドイツ市民「交渉決裂?終わった…(゜.゜)」
では次のページからベルリンの壁の詳しい話に移ります!
- 1
- 2