「カノッサの屈辱」って知ってる?

この記事を読むのにかかる時間: 2

今回ご紹介するテーマは「カノッサの屈辱」である。

名前だけ聞くと、なんだか伝説の必殺技みたいでカッコいいが、実際のところこれは、

「結局さ、キリスト教のトップである“教皇”と、神聖ローマ帝国のトップである“皇帝”って、どっちが偉いの?」

という、シンプルかつ壮大な疑問に決着をつけようとした歴史的大事件である。

中世ヨーロッパのビッグボス対決――その舞台がカノッサ城であったわけだ。

さて、いったいどんなドラマが待ち受けていたのか。

さっそく覗いてみようではないか。

カノッサの屈辱(ローマ教皇最強説)

カノッサの屈辱

11世紀、ヨーロッパのキリスト教圏で“権力バトルロイヤル”が勃発した。

そのテーマは極めてシンプル、

国のトップ“皇帝”と、宗教のトップ“教皇”、結局どっちが偉いのか?

筆者「確かに、これは気になる!!」

当時のヨーロッパはキリスト教一色だったが、同時に東フランク王国から発展した(現在のドイツ連邦共和国の元となる)神聖ローマ帝国の皇帝もいたわけです。

状況を超ざっくり説明するとこうなる。

キリスト教はただの宗教で軍事力を持たないので、神聖ローマ帝国を軍事的な守護者として頼っていた。

神聖ローマ帝国はキリスト教の守護者という権威や名誉に助けられて、ここまで大きくなった。

別の言い方で表現するならこうなる。

キリスト教陣営(教皇側)
宗教パワーはMAX。
でも軍隊は持っていないので、戦争になったら詰む。
だから軍事のプロ“神聖ローマ帝国”に守ってもらう必要があった。

神聖ローマ帝国(皇帝側)
皇帝とはいえ、「俺たちはキリスト教の守護者なんだぞ!」という看板がなければ、ただの地方豪族である。
教皇の認定があってこそ、“神聖”ローマ帝国なのだ。

つまり、どちらも「お互いがいないと成り立たない」関係だったわけだ。

――この依存関係、まるで熟年夫婦みたいである。

だがしかし、ここで問題が発生する。

「でも結局、一番偉いのは誰なの?」

これである。

当時の教皇は、すでに“全ヨーロッパを精神的に支配する”レベルの超権力者。

一方で皇帝も「俺が帝国のトップだぞ!」と、軍事・経済でバチバチに権力を持っていた。

当然ながら、

皇帝 vs 教皇 の覇権争い

が発生する。

しかもこの時代のヨーロッパでは、政府が「お前、明日から聖職者な」と、都合の良い人間をどんどん教会に送り込む“裏ワザ”が常態化していた。

※皇帝に有利、教皇に不利

もう一回読んで欲しい、サラッとかなりヤバいことを書いた。

この皇帝の裏技を帝国教会政策(ていこくきょうかいせいさく)と呼ぶ。


↑まあこれは正しい意見

そして、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世は、ローマ教皇グレゴリウス7世から「いい加減、政治と宗教を切り離せ」と政教分離のお叱りを受ける。

皇帝ハインリヒ4世、怒りの大反発。

「だったらお前を教皇からクビにしてやる!」

……いよいよ空気がピリついてきた。

皇帝 vs 教皇――全面戦争の幕が開ける。

皇帝 VS 教皇

ここからは、頭の中で想像を膨らませながら読んでほしい。

ヨーロッパを揺るがした“神の代理人 vs 帝国の王者”の直接対決である。


教皇「宗教関係者の任命権を政治家が握るのはおかしい!
信仰心のない人間ばかりが天下りして教会に溢れかえっている。
聖職者とはそういう人間がなるべきではない!!!」

皇帝「(ふふふ 皇帝は教皇の上にいるのだよ、きみぃ)
は?聞こえませーん(笑)
てかお前さ、そろそろ教皇の地位から降りろよ

教皇「何をバカなことを・・・お、お前は破門だ!」

当然、皇帝もキリスト教徒

皇帝「ふ、勝手にしやがれ!クソ教皇が。」

キリスト教を破門された途端、権威・統制力を失い各地の有力者たちが暴動/反乱を起こし始めた。

皇帝「むむ、思ったよりも破門の影響は大きい。
教皇に破門を解いてもらうしか…でもそれではプライドが…」

結局、厳冬期のアルプスを超えて、教皇が滞在するカノッサ城まで出向いて面会を求めた皇帝。
しかし返事なし。

教皇「お、これは我が国の最高指導者の皇帝閣下ではないですか。
何かご用でしょうか?

あなたはもうキリスト教徒では無いのですよ?
既にどこかに改宗されましたか?」

皇帝「すみません、すみません、すみません。すみませんすみませんすみません、もう許してください」

そして皇帝は3日間、カノッサ城の前で雪が降る中薄い修道衣と素足で立ち尽くして謝罪し、ようやく破門を解いてもらった。

皇帝「破門を解いて頂きありがとうございます(クッソ」

教皇「ん、何か言いましたか?」

皇帝「い、いえ・・・この度は破門を解いて頂き誠に…
(いづが、ふぐしゅうじてやるぅぅ)」


こうして語り継がれるのが「カノッサの屈辱」である。

神聖ローマ帝国の皇帝が、ローマ教皇の前で屈辱的に頭を下げた事件である。

皇帝と教皇間の争いはその後何度も勃発するが、基本的にカノッサの屈辱から十字軍遠征の終わりごろにローマ教皇が逮捕されるまでは教皇 ≫ 皇帝という勢力図になったとさ。

カノッサの屈辱

後日談だが、ハインリッヒ四世(皇帝)は破門撤回から4年後、大軍を率いてローマに遠征&占領し、対立している教皇の手によって神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式を挙行した。

教皇を武力で脅して「私に戴冠せよ」と命令したということ。

ところがその後、皇帝ハインリッヒ4世は二人の息子に裏切られ、次男(後のハインリッヒ5世)の手で捕らえられて王座から追われてしまったとさ。

おしまい。

おわりに

ということで、「カノッサの屈辱」はお楽しみいただけただろうか?

せっかく“カノッサの屈辱”を学んだのだから、この勢いで“フランク王国”の歴史も学んでみるのも良い。

フランク王国は今の西ヨーロッパの地図を形作った超重要国家であり、ヨーロッパ旅行の前には知っておきたい必須知識である(^ω^)

興味があれば、こちらの記事もぜひ↓

関連記事

さて、今回のテーマはフランク王国。ズバリ、西ヨーロッパのルーツである。[show_more more=前置き less=折りたたむ color=#0066cc list=»]フランク王国を知らずしてヨーロッパを語るべ[…]

フランク王国
カノッサの屈辱
最新情報をチェックしよう!