中華人民共和国成立から現在までの歴史

最近では香港と中国も問題になっていますが、今回は「中華人民共和国成立から現在までの歴史」のお話です。

本記事では、毛沢東率いる中国共産党軍が蒋介石率いる中国国民党軍を破り、中華人民共和国成立を宣言したところから始めます。

以下の記事を読まれていない方は、先にそちらをご覧ください↓

中国(中華人民共和国)

では台湾と中国の流れがわかったところで、1950~現在までの流れを簡単に説明していきます。

ヨーロッパ ブログ
筆者

(※個人的な見解です)

ぼくは毛沢東がやらかしたことだけでなく、そもそも見た目が生理的に無理なんです

建国後すぐ、朝鮮戦争が起こる(1950)

国共内戦で勝利した毛沢東は、民衆の支持も得て建国の英雄として絶大な権力を誇ります。

大躍進政策
毛沢東

ついに蒋介石に勝ったぜ。

これからは俺がこの国を仕切って発展させてやる!!!!!

先述した通り、毛沢東は当初「民主主義国家を建設するぞーー」と意気込んでいましたが朝鮮戦争を機に、

大躍進政策
毛沢東
国力を一つの権力に集中させなければ、戦争になった時に団結して戦えない

と思い、急激に方向転換し中国を共産党の一党独裁国家にしました。

また、朝鮮戦争直前に台湾の対岸に軍隊を終結させて台湾を攻め落とそうとしていました↓

ちょうどその時に朝鮮戦争が起きて、北朝鮮を援護するために中国は軍隊をある程度引き上げたので台湾は生き延びたと言われています。

大躍進政策
毛沢東

蒋介石のやろー台湾なんかに逃げやがって

てめえの息の根を止め…なにぃぃぃ!!!!!

朝鮮半島で戦争だと!!?

仕方ない、台湾はとりあえずほっとけ

大躍進政策(1958年)

 

圧倒的な権力を握った毛沢東は1958年、「中国の工業と農業の大躍進」を掲げて大躍進政策を始めました。

早い話、毛沢東は「我が中国は15年で鉄鋼生産において(当時の大国)イギリスを追い越す」と宣言し、中国全土に自作の熔鉱炉を作らせ全国民に鉄を作らせました。

が、これが大失敗して中国全土に大飢饉を招き4,000万人以上の餓死者を出しました(以下参考↓)

関連記事

今回は中華人民共和国(現在の中国)の初代国家主席の「毛沢東」が行った大躍進政策(だいやくしんせいさく)を簡単にまとめようと思います。わかりやすくまとめているので是非最後までご覧ください(*ノωノ)毛沢東とは毛沢東(も[…]

毛沢東 大躍進政策

劉少奇や鄧小平が台頭する(1959年-1966年)

(↑鄧小平)

毛沢東の大躍進政策によって数千万人の餓死者が出たことで、中国共産党幹部会で批判を受けた毛沢東は国家主席の地位を劉少奇(りゅうしょうき)らに譲りました。

毛沢東はぎりぎり共産党主席の地位に留まりましたが、いつその権力を失うか知れない状況でした。

筆者 アイコン
筆者
毛沢東終了のお知らせ?

この間に鄧小平(とうしょうへい)らの実務派が台頭し、大躍進政策によって荒廃した農村と工業を復興させるための改革運動が始まりました。

鄧小平は非常に柔軟な考えの持ち主で、国民が幸せになるためなら共産主義にこだわらなくても良いという考えを持っていました。

その鄧小平の有名な一言がこちらです↓

鄧小平
白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫がいい猫だ!
ヨーロッパ ブログ
筆者
まあ、共産主義でも資本主義でも国民が幸せになるならどっちでもいい、ってことですね!

文化大革命(1966年-1976年)

1959年、大躍進政策の責任を取って一度国家主席の座から退いた毛沢東ですが、1966年に「文化大革命」を起こして再び国家主席の座に舞い戻りました。

劉少奇や鄧小平ら、中国改革派を徹底的に弾圧したのです。

結局、文化大革命は毛沢東が死ぬ1976年まで10年続き、中国を再び無茶苦茶にしたのでした。

鄧小平の改革開放政策(1977年)

桜

毛沢東の死後、文化大革命は終結し虎の威を借る狐として紅衛兵たちを指導していた江青(毛沢東の最後の夫人)ら、いわゆる「四人組」は逮捕され裁判にかけられ有罪判決を受けました。

ヨーロッパ ブログ
筆者
この四人組の虎の威を借る狐感がめちゃくちゃ腹立つんですよね~

(↓四人組)

文化大革命 わかりやすく

その後、鄧小平の政策によって「毛沢東にボロボロにされた中国」は劇的に経済回復をしていきました。

鄧小平の改革開放政策については以下で超簡単にまとめてあります↓

関連記事

RYOですここでは1980年代に中国の鄧小平が行った改革開放政策、いわゆる「人民公社」と「経済特区設置」について軽く触れようと思います。[sitecard subtitle=関連記事 url=https://ryo-yasu[…]

中国 台湾

つまり鄧小平は、

➀人民公社解体により農業生産高をアップさせ、

②経済特区設置により中国経済の立て直しを成功させた

のです。

この鄧小平の改革開放政策を共に支えたのが、後に出てくる「胡耀邦」と「趙紫陽」でした。

キューバ 歴史
筆者
こよーほーとちょーしよーです

先富論(せんぷろん)

鄧小平は、

「豊かになれる条件を持った地域、人々から先に豊かになろう」

という「先富論」を方針として格差を公認しました。つまり、

鄧小平

みんなが同時に幸せになるのは不可能だ!

まずは豊かになれる者から豊かになって、国全体が豊かになった後に徐々にそこに生まれた格差を埋めればいい

と考えたわけです。

スゴイ現実的な考えをもった人ですね~

一人っ子政策(1979年)

家族

そして1979年に「一人っ子政策」を始めました。

説明する必要も無いと思いますが、一人っ子政策とは、

急激な人口増加を緩和するために一組の夫婦につき子供は一人だけと制限し、二人目からは罰金を科した人口抑制対策

です。

一人っ子政策は2015年に廃止され、現在では第二子出産までは認められています。

ヨーロッパ ブログ
筆者

2015年!!!!!

そんな最近やったんや…

しかし一人っ子政策には様々な問題点がありました。

気になる方はサッサーと読める量なので以下を参考にしてください↓

関連記事

RYOです今回は中国の一人っ子政策が招いたいくつかの問題点を挙げていこうと思います。「一人っ子政策って昔の中国の話でしょ(笑)」って思った人挙手!はーい(←筆者いえいえ、一人っ子政策が終わったのは20[…]

赤ちゃん

胡耀邦が総書記に(1982年)

(出典:日本経済新聞

1982年、中国共産党は指導者の呼び名を「主席」から「総書記」に変更し、鄧小平の忠実な部下「胡耀邦(こようほう)」が総書記になりました。

胡耀邦(こよーほー)は、鄧小平政権のもとで➀人民公社解体や②経済特区の設置などの改革開放政策に重要な役割を果たした人物です。

この時代、鄧小平&胡耀邦&趙紫陽の三人が主に国を操っており、過去の功績から学生や市民は中国がこれから民主化されることをとても期待していました。

ヨーロッパ ブログ
筆者

鄧小平はずっと表舞台には出ずに、裏から中国を操っていたらしいです。

なので自ら総書記や国家主席にはなりませんでした(しかし実質は中国のトップ)

(名目上)中国トップの胡耀邦は、当時学生たちの間で広がりつつあった民主化の動きをある程度容認していました。

胡耀邦

(まあ確かに彼らの言うことにも一理はあるな~)

別に民主化運動を弾圧する必要はないかな

経済特区設置とその発展により、中国全体に「民主主義うらやましー」という風潮が蔓延したから

民主化の動きとは一言で言うと「色々な不満に対して文句が言えるようになった」とお考え下さい↓

学生A「もっと大学をきれいにしろー」

学生B「食堂の飯をもっとうまくしろー」

学生C「もっとグランドを広くしろー」

などの比較的小規模な不満のことです。

ヨーロッパ ブログ
筆者
逆に言えばこの時代は「国や政府に関して何一つ文句が言えなかった」という事ですね

しかし鄧小平はある考えを持っていました↓

鄧小平

小規模な不満はやがて大規模な不満になり、政権や国自体を破滅させかねない。

火は小さいうちに消しておくべきだ

と。

この学生食堂の不満くらいで止まっていればいいのですが、文句を言うことに慣れてくるとやがて、

社会人A「もっと税金を安くしろー」

社会人B「共産主義をやめろー」

社会人C「自由に商売させろー」

と、徐々に要求がエスカレートするのを知っていたんですね。

胡耀邦が失脚し、趙紫陽が総書記に(1987年)

(出典:朝日新聞デジタル

鄧小平
てめぇ、民主化運動を容認していたよな?

という理由で1987年、胡耀邦が総書記の座を追われました。

旅 ブログ ヨーロッパ
筆者
こよーほー、アウトーー!!

そして同年、次に総書記になったのが趙紫陽です。

鄧小平

趙紫陽、君には期待しているよ。

私を失望させないでくれたまえよ?

しかしこの頃すでに、民主化の動きは大きくなっており学生食堂などの小規模な不満から一転↓

知識人A「共産党の一党独裁なんて嫌だーー」

知識人B「毛沢東のやった事を隠さずに全て教えろー」

知識人C「身に覚えのない罪で一般人を処刑するなーー」

など、政権運営自体の不満なども叫ばれるようになってきました。

しかし、趙紫陽もやっちゃって後に辞任に追い込まれます。

趙紫陽
うーん、君たちのような民主化を叫ぶ者たちの気持ちもわかるけどさ~

ダダーーーン

趙紫陽
え?汗
旅 ブログ ヨーロッパ
筆者
ちょーしよー、アウトーー!!

陰の支配者、鄧小平コワ過ぎ・・・

胡耀邦の追悼集会が天安門広場で行われるが…(1989年)

中国 台湾

1989年、胡耀邦が死去しました。

これを受けて、中国の首都「北京」で胡耀邦の追悼集会が行われました。

しかしその集会は徐々に政府を批判する大規模なデモに発展し、全国的に「独裁主義打倒」の動きが爆発しました。

ヨーロッパ ブログ
筆者
これが、あの恐ろしい天安門事件の始まりだったんですね

民主化運動を行っていた学生たちなどにとっては、「民主化容認派の胡耀邦」「自分たちの良き理解者」が退任させられ、そのうえ死去したんですからね。

鄧小平はこの学生運動を、

鄧小平
共産党を根本から否定する運動である

と大々的に批判したのに対し、趙紫陽は、

趙紫陽
この学生運動は動乱ではなく、愛国的な民主化運動である

と発言しました。

ヨーロッパ ブログ
筆者
趙紫陽スゴイですね、鄧小平と正反対の発言をしたのですから

天安門事件(1989年)

結局、天安門広場には百万人が集結しましたが、政府軍と人民軍の両者が妥協を拒否し膠着状態になりました↓

そして遂に痺れを切らした鄧小平は、人民解放軍(という名ばかりの殺戮集団)を出動させ、「国家に対する反逆行為だ」として天安門広場の学生市民団体を大量の兵隊と戦車で蹴散らしました

これを天安門事件と呼び、中国国内ではサイバーポリスによって検索してもヒットしないワードNo.1になっています。

※死者数百人、数千人、一万人、または死者はいなかったなど諸説あります

しかし、中国史上でも「民主化運動を武力で鎮圧した」というかなり大きな出来事だったのはまちがいありません。

「民主化運動は徹底的に叩き潰す」という中国共産党の強い意思がうかがえる事件でした。

鄧小平は世界中から武力弾圧を非難され、その責任を趙紫陽になすりつけました。

ヨーロッパ ブログ
筆者

現在の中国では「天安門事件」に関連したキーワードを検索することはできませんし、

中国国防相は「天安門事件の鎮圧は正しかった」と主張しています

趙紫陽「来るのが遅かった」

謝罪

この民主化運動鎮圧(天安門事件)の2日前、実はお忍びで当時の指導者「趙紫陽」が天安門広場に居座る学生たちを訪れ、第一に、

趙紫陽
すまない、来るのが遅かった

と涙を見せ、第二に、

趙紫陽

あなた方はまだ若いし、我々は年を取り過ぎている。

状況は大変複雑だ、もう集会をやめて欲しい

と言い残してそれ以降、公の場から姿を消したと言われています。

ヨーロッパ ブログ
筆者
鄧小平に国家反逆罪で退任させられたんですね

なぜこの時期だったのか?

なぜこの時期に天安門広場に100万人もの人民が集まったのか。

ヨーロッパ ブログ
筆者
胡耀邦の死によって天安門広場に集まったのはそうなんですが、もう一つ大きな理由があったのです‼

それまで仲の悪かった中国とソ連がちょうどこの時期に仲直りし始め、ソ連の指導者ゴルバチョフが北京に訪れるという一大イベントがあり、世界中の報道機関が中ソに注目していました。

なので

この時期に民主化運動を起こせば、その様子は世界中に放送され中国側も民主化を認めざるを得ない

と考えたんですね。

その期待に反して中国(鄧小平)は軍を動員して鎮圧したんですけどね・・・。

劉暁波がノーベル平和賞に

天安門事件が起きた時、学生を指導した一人に劉暁波(りゅうぎょうは)という人物がいました↓

(出典:産経ニュース

彼はアメリカに留学していましたが、天安門事件が起きたことを知って急遽中国に帰国して運動に参加、仲間と共に学生たちを指導しました。

天安門事件後に「反革命宣伝扇動罪」で投獄され、1991年に釈放されました。

しかし中国内で人権保護と民主化を訴える運動をたびたび起こし、たびたび中国政府に「反逆者」として逮捕されてきました。

中国政府に繰り返し投獄されながらも、亡命もせずに中国の一党独裁体制を強烈に批判し、民主化運動と言論の自由を訴え続けました↓

(出典:ニューズウィーク

結局、2010年に基本的人権の確立のため長年にわたって中国の民主化運動を続けてきた功績でノーベル平和賞を受賞しました。

しかし、ノーベル平和賞受賞が決まった時には獄中におり、授賞式には出席できずそれから2017年7月に死去するまでずっと刑務所に閉じ込められていました。

江沢民が総書記に(1989年)

天安門事件が終わり、民主化運動に理解を示した趙紫陽はクビ。

代わって、武力弾圧に理解を示していた江沢民(こうたくみん)が総書記になり↓

(出典:AFPBB News

鄧小平が頑なに守り続けた➀共産党の一党独裁体制と②経済発展重視を維持し続けました。

鄧小平は重要な役職を全て退き、ついに裏の世界からも事実上身を引きましたが、依然として鄧小平はカリスマ的な存在だったのは間違いありませんでした。

また1997年(鄧小平が死去した年)、江沢民は1842年以来イギリスの植民地だった香港を中国に返還させたのも大きな功績とされています。

おわりに

中国人 韓国人 名前

江沢民から胡錦涛、習近平と鄧小平が思い描いていた「経済発展&共産党一党独裁」を維持し続けた結果、現在の中国は世界有数の軍事大国であり経済大国になりました。

ヨーロッパ ブログ
筆者
しかし中国の経済発展と一党独裁体制はいつまで続くのか甚だ疑問です

フランスの経済学者で政治顧問、知の巨人と呼ばれるジャック・アタリ氏は「中国は食糧不足と水不足が原因で崩壊するのは自明の理である」と述べています。

中国内では言論の自由が弾圧され、何か大きな事故が起こっても政府の発表は信用できないし、ネットで共産党政権の悪口を言えば「国家反逆罪」になるし、少しでも民主化運動が起きれば武力鎮圧される可能性もあるし。

そもそも中国に(我々が考えているような)プライバシーなんてものは存在しませんし、中国内では「検索できないワード」もたくさんあり、本当の歴史的事実を知ろうと思ってもとても難しいのです。

しかし胡耀邦や趙紫陽、劉暁波などが民主化を許容・促進したという事実も事実なので、今後どうなるかは誰にもわかりません。

中国の歴史と一緒にソ連の歴史を勉強するとなおおもしろいですよ~

関連記事

皆さんは現在の「ロシア連邦」はその前身となるソヴィエト社会主義共和国連邦(=ソ連)から出来た国ということは知っていますか?今回はその「ソ連」は一体どんな国だったのかを、面白くわかりやすくまとめようと思います。[…]

ソ連 歴史

参考までに(`・ω・´)ゞ

では!

中国 台湾
最新情報をチェックしよう!