【図解でわかる】西ヨーロッパの原点「フランク王国建設と分裂」の話

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さて、今回のテーマはフランク王国

ズバリ、西ヨーロッパのルーツである。

» 前置き

フランク王国を知らずしてヨーロッパを語るべからず…とまでは言わぬが、知っていると旅の面白さは10倍増しになる。

これは筆者が身をもって証明済みである。

※なぜなら筆者、これまで5回にわたってヨーロッパ30ヵ国以上を、見事に無学のまま旅してきた経歴を持つ。

当時は本当に「行けば何とかなる精神」で突撃していたのだが、その結果、現地で見るもの聞くもの全てが「なんか凄そう」で終わってしまった苦い思い出がある。

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正直、この時代は覚えにくい名前が山ほど出てくる。

しかし安心してほしい。

細かいことは抜きにして、大まかな流れだけを面白おかしく説明していく。

では、始めよう!

フランク王国とは

そもそもフランク王国とは何か。

これを一言で説明するならば——

現在の西ヨーロッパをゴッソリ統一していた王国

これに尽きる。

現代のヨーロッパを眺めると、フランス、ドイツ、イタリア…と、まぁ色々と国が分かれているわけだが、かつてはこれらの地域をガッチリと束ねていたスーパー王国が存在していたのである。


(出典:メルセン条約後の西ヨーロッパの地図

↑これは870年、フランク王国が3つに真っ二つ…いや、真っ三つに分かれた直後の地図である。

歴史の面白さここに極まれり、である。

ローマ帝国が東西に分かれる 395年

話はググッと時代を遡り、西暦395年。

この頃、ヨーロッパ全土を統一していた伝説の巨大国家「ローマ帝国」に異変が起きる。

理由は「ゲルマン人大移動」という、ヨーロッパ史最大級の民族お引越しイベントによるゴタゴタである(これについては後ほど詳しく語るとしよう)。

混乱の中、ローマ帝国はドーンと真っ二つに割れる。

その名も、

  • 西ローマ帝国
  • 東ローマ帝国

歴史の教科書でもお馴染みのあの二つである。

東西分裂後、ローマ帝国の領土はザックリとこんな感じになった。

東ローマ帝国 395年-1453年

ここで一言。

実を言うと、今回メインで語る「フランク王国」と東ローマ帝国に直接的な関係はない。
が、東ローマ帝国も無視できぬ大物なので、一応ここで紹介だけはしておく。

東ローマ帝国はその後『ビザンツ帝国』と名前を変え(※ビザンチン帝国とも言う)、1453年にオスマン帝国に華麗に滅ぼされるまでおよそ1,000年もの長い間繁栄することになった。

東ローマ帝国は、東方正教会を国教とした現在の東ヨーロッパ諸国のルーツになっている。

ざっくり言えば、バルカン半島とかトルコとか、あのあたりである↓


地図で黄色く囲まれた辺りと思ってもらえればOK

だが、今回の主役はあくまで「フランク王国」である。

東ローマ帝国の華麗なる1000年には一旦お引き取り願い、話を西ヨーロッパに戻すとしよう。

ゲルマン人大移動と西ローマ帝国滅亡 375年-476年

フランク王国 西欧

さて、話は東ローマ帝国ではなく、西ローマ帝国に戻る。

フランク王国の誕生を語るには、西ローマ帝国がいかに混乱し、ド派手に滅亡していったのかを知る必要がある。

その原因こそが「ゲルマン人大移動」というヨーロッパ史上最大の民族シャッフル事件である。

ざっくり言うと、西ローマ帝国はこの民族大移動に巻き込まれて大混乱、東ローマ帝国(1000年も粘った)とは対照的に、たった80年で歴史からフェードアウトしてしまう。

では、ゲルマン人大移動が始まるところから、西ローマ帝国が散っていくまでの流れを説明しよう。

➀ゲルマン人とは何者か?

まず、「ゲルマン人」というのは、バルト海沿岸に暮らしていた部族集団である。

今で言うと、ドイツ北部・デンマーク・ポーランド辺りだと思ってくれればいい。

つまりゲルマン人はローマ帝国とは無関係の民族で、基本的にローマ人とは干渉せず、隣で静かに暮らしていた。

ゲルマン人大移動 ローマ帝国

彼ら(ゲルマン人)は紀元前1世紀以降、㋐人口増加㋑農地の不足から、北ヨーロッパのケルト民族(先住民)を圧迫しながらドナウ川やライン川の北側(つまりローマ帝国の方面)までじわじわと進出する。

ゲルマン人「……ローマの土地、かなり肥えてるって聞いたぞ。おれらもフン族に追われてもう後がない。西へ南へ行くしかねぇ!」」

ケルト民族「おいおい、また新しい連中が押し寄せてくるのか?昔は俺たちがこの辺りを自由に歩いてたのによ……どんどん隅に追いやられるじゃねぇか。」

ローマ帝国「ゲルマン人が国境に集まってるだと?まったく……帝国の防衛は厳しいが、彼らをうまく利用すれば労働力にも兵にもなる。だが制御を誤れば帝国は危ういぞ……。」

②ゲルマン人とローマ帝国

ところが、人口が増えたゲルマン人たちは「土地が足りねぇぞ」とばかりに南下を続け、ついにローマ帝国と接触し始める

ゲルマン人大移動 ローマ帝国

中にはローマ帝国に移住し、奴隷や傭兵、さらには農民(コロヌス)として生活するゲルマン人も出てきた。

地図上ではゲルマン民族の勢力図をかなり大きく表しているが、ゲルマン民族は様々な部族の寄せ集めのため、まとまった集団ではない。

しかしゲルマン人はローマ帝国内の人々とは文化も宗教も全く違う異民族であるため、基本的にローマ帝国とは干渉せずに日々を過ごしていた。

この「文化も宗教も全く違う異民族」というのが非常に重要なポイント。

ローマ帝国としては「混乱の元なので、なるべく異民族なんか入れたくない」が本音だっただろう。

③フン族の出現

しかし、しかしである!

4世紀にゲルマン民族の一部族で黒海沿岸に住んでいた東ゴート族(←もちろんゲルマン民族)が、アジア系の遊牧民族であるフン族に征服されてしまった。

ゲルマン人大移動 ローマ帝国

フン族「ゴート共よ、震えて眠れ!俺たちフン族は止まらねぇ!草原を焼き払い、川を赤く染め、貴様らの王を馬の足元に引きずり出してやる!!生きたいなら、首を垂れて従えッ!!」

東ゴート族「くそっ……フン族めぇ!!俺たち東ゴートは誰にも屈しねぇ誇り高き戦士だ!だが今は奴らの圧倒的な力に耐えるしかねぇ……だが覚えていろ、必ずこの恨みは返す!我らが復讐の日は必ず来るッ!!」

このフン族、実態はよくわかっていないが、中国を荒らし回ったあの「匈奴(きょうど)」と同じ系列と考えられている。

あの万里の長城を建てさせた伝説の戦闘民族だ。

ここからは豆知識だが、中国の世界遺産「万里の長城」はその匈奴の侵入を防ぐために建てられたと言われてる。

フランク王国 西ヨーロッパ 原点

匈奴は中国北方の遊牧民族であり、知武勇に優れた非常に優秀な戦闘民族として知られており、春秋戦国時代の中国では非常に恐れられていた。


※匈奴は中国北方の部族

特に北方の匈奴と衝突を繰り返していた

  • 秦(しん)
  • 趙(ちょう)
  • 燕(えん)

の3カ国は匈奴の侵入を防ぐために延々と連なる城壁をバラバラに建てていたのだ。

中国を統一した秦の始皇帝は、そんなバラバラに建てられていた城壁を一本に繋げたのが現在の万里の長城なのである。

そんな恐ろしい戦闘民族がヨーロッパに突入してきたのである。

フランク王国 西ヨーロッパ 原点

そりゃゲルマン人も全力で逃げる。

生存本能MAXである。

④ゲルマン民族大移動の始まり

フン族(≒匈奴?)はさらに押し進んで西ゴート族を圧迫し、フン族に追われた西ゴート族は375年、ドナウ川を越えてローマ帝国内に流入した

まるで満員電車で押し出されるがごとく、ゲルマン人が次々とローマ帝国内へと雪崩れ込んだのである。

ゲルマン人大移動 ローマ帝国

これが「ゲルマン民族大移動」の始まりである。

ローマ帝国としても「ちょ、ちょっと待てや!」と言いたかっただろうが、フン族に追われたゲルマン人にそんな余裕はない。

今まで絶妙な均衡を保って接触せずにいたローマ帝国とゲルマン人だったが、一度ローマ帝国内に逃げ込んだ西ゴート族(ゲルマン人)はもう遠慮なく次から次へとローマ帝国内に逃げ込み始めた。

ここで、ローマ帝国とゲルマン人の絶妙な均衡は完全に崩壊した。

西ゴート族
「俺たちは好きでこんな所まで来たんじゃねぇ!!後ろにはフン族、前にはローマ……どこにも逃げ道なんかねぇんだよッ!!だったら奪うしかねぇだろうが!!!」

ローマ帝国兵(現場指揮官)
「上が“落ち着け”だの“秩序を守れ”だの言ってる間に、国境は崩壊寸前だぞ!?あんな数、俺たちだけで止められるわけねぇだろうが!!」

⑤ローマ帝国、分裂

もともとギリギリでやりくりしていたローマ帝国のキャパシティに、異文化・異宗教の異民族が大量流入。

そりゃ国も割れるわけである。

こうしてローマ帝国は大混乱の末に東西に分裂した。

ゲルマン人大移動 ローマ帝国

民族大移動が始まったのが375年、そしてローマ帝国が東西に分裂したのが395年。

わずか20年の出来事だった。

イメージとしては、日本に2億人の異民族難民が押し寄せ、関西が丸ごと乗っ取られ別国家になっちゃった感じである。

しかし実はゲルマン人大移動は約200年間続き、ローマ帝国分裂は大移動開始から20年後と、割と大移動の序盤で東西に分裂したのだった。

⑥西ローマ帝国内にゲルマン人国家が乱立

ローマ帝国の崩壊っぷりは想像以上だった。

宗教も文化も言語も全く違う完全なる異民族『西ゴート族』がローマ市内で大規模な略奪を行い、ついには

「もういいから、自分たちの国作って…頼むからローマ市内では暴れないで!

とローマ皇帝が泣きつく始末。

ゲルマン人 ローマ帝国

これがきっかけで、西ゴート王国が誕生する。
これが蟻の一穴であった。

だが、ここで終わらない。

ロマネスク建築 ゲルマン人大移動
これから恐ろしいことが立て続けに起こるのだった。

西ゴート王国に続いて、

  • 東ゴート族
  • ヴァンダル族
  • ブルグント族
  • フランク族
  • ランゴバルド族
  • アングロ・サクソン・ジュート

などのゲルマン諸民族もローマ帝国に移動を開始し、定住した場所にそれぞれの国を建てたのだ。

※今回の主役はこの乱立した民族の1つ「フランク族」である。

ゲルマン人 ローマ帝国

ローマ皇帝
「わ、わかった!わかったから!!もう好きに国作ってくれ!だから……だからお願いだ、ローマ市内だけは荒らさないでくれぇぇぇぇ!!!(涙目)」

西ゴート族
「ハッ、ようやく膝をついたかローマ!ここからは俺たちが新しい秩序を作ってやるぜ!!まずは俺たち“西ゴート王国”様のお出ましだ!」

東ゴート族
「俺たち東ゴートも黙っちゃいねぇ。次はイタリア本土で俺たちの旗を立ててやるよ!」

ヴァンダル族
「俺たちはローマ帝国の宝物庫(アフリカ)をいただいてくとするか。あんたらが握ってたモノ、全部俺たちが貰うぞ!」

フランク族
「ローマ?興味ねぇな。俺たちはもっと北でデッカい王国作ってやる!フランク王国だッ!!

ローマ帝国役人(絶叫)
「うぎゃあぁぁぁぁぁぁぁ!!!もう誰が敵で誰が味方かわからねぇぇぇ!!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/」

⑦西ローマ帝国滅亡

先述したようにゲルマン人大移動はおよそ200年間続き、西ローマ帝国を混乱に陥れた後に滅亡させた。

既述したが、東ローマ帝国はその後1,000年以上存続する。

ゲルマン人と一口に言っても「○○人」「△△人」「□□人」など様々である。

ゲルマン人 ローマ帝国

375年に始まったゲルマン人大移動により395年にローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国内にゲルマン人たちがどんどん王国(主に7つ)を建設していった。

※小さな王国を含めればもっと種類はあるのだが…

その主な7つの王国というのがこちら。

  1. フランク王国
  2. 西ゴート王国
  3. 東ゴート王国」
  4. ランゴバルト王国
  5. ブルグンド王国
  6. ヴァンダル王国
  7. アングロサクソン七王国

成立年はバラバラなので同時多発的に王国が乱立したわけではない

~王国の「王国」を「族」にすればそっくりそのまま民族名になる。

ゲルマン人 ローマ帝国

こうして、弱体化した西ローマ帝国は、ゲルマン出身の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた。

西ローマ帝国はここに消滅。

もちろん各ゲルマン国家同士の争いも多く、お隣の東ローマ帝国との争いも多いのだが、それらを語る知識は無いのでザックリいく。

⑧フランク王国のみ生き残る

さて、西ローマ帝国が崩壊した跡地には、多くのゲルマン国家が誕生したが、長生きできた国は少ない。

ゲルマン人 ローマ帝国

ゲルマン民族の諸国家はフランク王国を除いて比較的短命だったのだ。

王国名国家の存続期間
東ゴート王国62年
西ゴート王国296年
ランゴバルド王国206年
ブルグント王国91年
ヴァンダル王国105年
フランク王国362年
※800年西ヨーロッパ統一
※843年に分裂

諸国家が滅亡した理由は様々だが、西ヨーロッパに興ったゲルマン人国家のうち、最終的に生き残ったのはフランク王国だけだった。

フランク王国も843年に分裂したが、滅亡とは違う。

3人の子供たちに分割相続されただけである。

つまり、

西フランク王国 → 現在のフランス

中部フランク王国 → 現在のイタリア

東フランク王国 → 現在のドイツ

として、フランク王国はまだ生き続け、結局フランク王国が本当に滅亡したのは西暦987年(王国は500年以上存続したことになる)。

つまり、「フランク王国が分裂した」=「現在のヨーロッパの始まり」というわけである。

では、唯一生き残ったフランク王国の建国から分裂までを次項で説明していく。

» これまでの流れを確認

ゲルマン人大移動開始(375)

→ローマ帝国分裂(395)

→西ローマ帝国滅亡(476)

→ローマ帝国跡地にゲルマン人国家乱立

→フランク王国以外はバタバタ滅亡していく

→フランク王国の歴史(481~)

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次はいよいよ「フランク王国建国編」である。

クロヴィス一世がメロヴィング朝を建国(481年-751年)

さて、皆さんお待ちかね、ここからはフランク王国の本格的な物語に入るわけだが、その前にこの男の名前をしっかり覚えてほしい。

「クロヴィス一世」である。

彼こそがフランク王国の始祖であり、メロヴィング朝の開祖でもある。


※クロヴィス一世

フランク王国を建国したクロヴィス一世は、まずは国号を決めた。

それが「メロヴィング朝」である。

ちょっとわかりにくいが、クロヴィス一世は、

フランク族の サリー人の メロヴィング家の クロヴィス

という長すぎる肩書きを持っていた。

フランク王国 西欧

※現代風に言えば、「日本の広島県出身の自民党所属のキシダ文雄」みたいなものである。

彼が総理大臣の間は「キシダ朝」となる。

クロヴィス一世はなかなかのやり手で、フランク王国をモリモリ拡大させた結果、気づけば東ゴート族と肩を並べるヨーロッパ屈指の強国にまで育て上げていた。

しかし、ここで油断してはいけない。

周りのゲルマン国家たちは「短命」がデフォルトだった。

せっかく建国してもすぐポシャる。
これはゲルマン諸国の「あるある」である。

ではなぜフランク王国だけが最終的に生き残れたのか?

それには3つの決定打があったのである。

  1. 異端派から正統派へ改宗したから(496年)
  2. キリスト教世界を守ったから(732年)
  3. ラヴェンナ地方を教皇に寄進したから(756年)

それぞれ解説しよう。

➀異端派から正統派へ改宗したから(496年)

クロヴィス一世、彼は実に空気を読む男だった。

当時のフランク族はアリウス派(異端)というキリスト教のマイナーレーベル(異端派)を信仰していたが、ローマ教会はこれを「ちょっとそれ違うよね」と思っていた。

ローマ帝国の国教はアタナシウス派という正統派だったため、

「先住民と上手くやっていくには彼らと同じ宗派に改宗する方が良い」

と妻に説得され、クロヴィス一世は家臣3,000名とともにちゃっかりアタナシウス派の洗礼を受けたのである。

「こっちの方が将来的にお得そう」と判断したのだ。

まさに宗教界の「勝ち馬に乗る」ムーブである。

この一手で、ローマ教会や貴族との関係は一気に良好になり、先住民との関係も円滑になり、フランク王国発展の基礎を築くことができたのだ。

フランク王国の国王は「ローマ教会公認の王様」という肩書きがつき、以後フランク王国は「正統派」の看板を掲げることになる。

この時代、ヨーロッパはキリスト教一色だった事もあり、キリスト教と共存することがとても大事だったのである。

②キリスト教世界を守ったから(732年)

732年、地中海世界にとんでもないビッグニュースが飛び込んできた。

「サウジアラビアのメッカで生まれたイスラム教勢力(ウマイヤ朝)がヨーロッパに攻め込んでくるぞ!」である。

このウマイヤ朝、元々はアラビア半島で「ムハンマド」というカリスマ預言者が610年に興したイスラム教の超拡張主義国家である。

それがまさかまさか、地中海を越え、イベリア半島(今のスペインとポルトガル)にまで侵攻してきたのだ。

さて、ここで質問である。

スペインとイスラム教の関係

「スペインとイスラム教」――この組み合わせにピンと来る人、いるだろうか?

筆者は正直、全然ピンと来なかった。
「スペインといえばフラメンコとパエリアでしょ?」ぐらいにしか思っていなかった。

ところが歴史をひも解いてみると、8世紀にウマイヤ朝(イスラム教)が西ゴート王国(キリスト教)をぶっ潰し、スペインをが長きに渡りがっつり支配していたのである。

その影響で、現在でもスペイン各地にはイスラム建築がゴロゴロ残っている。
そう、あの「アルハンブラ宮殿」なんかがその代表格だ。

そんな中、フランク王国の宮宰(きゅうさい=国王の補佐官)、カール・マルテルが立ち上がる。

イベリア半島を制圧し、乗りに乗っていたウマイヤ朝を「ここから先は通さん!」とばかりに迎え撃った。

それが歴史の大一番、「トゥール・ポワティエ間の戦い」である。

この戦い、サッカーで言えば「W杯決勝」、いや「負ければヨーロッパ全土がイスラム化」という超重要な一戦だった。

しかしカール・マルテルが勝利し、ウマイヤ朝を追い返したことで、フランク王国はヨーロッパの救世主となった

つまり、大きな目で見れば、

フランク王国がイスラム教勢力からキリスト教世界を守った

というわけである。

もし、カール・マルテルが負けていたらどうなっていたか?

「ヨーロッパの教会がモスクになっていたかもしれないし、ドイツ料理のソーセージはケバブになっていたかもしれない」なんて話もある。

もちろんそれは冗談だが、少なくとも当時のキリスト教信者たちは本気で「ヨーロッパがイスラム教に乗っ取られてしまう!」と恐れていた。

この勝利をきっかけに、フランク王国はローマ教会(キリスト教の総本山)と急速に接近し始める。

ローマ教会も「このマルテルって奴、なかなか頼りになるじゃないか」と見直し始めたのである。

つまり、カール・マルテルは剣と盾でヨーロッパを守りつつ、ローマ教会(キリスト教の総本山)という最強の味方をゲットしたわけだ。

これが、フランク王国がヨーロッパの覇者に向けて大きく前進するきっかけとなった。

③ラヴェンナ地方を教皇に寄進したから(756年)

本章の一大ニュースがこちら。

【速報】フランク王国、ランゴバルト王国を破る!

これを忘れないで頂きたい。

クリスマス

さて、フランク王国が生き残れた理由第3弾がこれである。

メロヴィング朝がカロリング朝にバトンタッチした頃、フランク王国のボスになったのがピピン3世(愛称:ピピンのちびっ子)である。

このピピン、見た目は小柄でもやることはデカかった。

なんと当時イタリア半島で幅を利かせていたランゴバルト王国を討伐し、その戦利品としてゲットしたラヴェンナ地方を「教皇にプレゼントする」という大盤振る舞いをやってのけたのである。

これが有名な「ピピンの寄進」だ。

教皇サイドからすれば「マジかよ、土地くれるの!?家賃タダ!?最高!」と狂喜乱舞したに違いない。

この寄進によって、ローマ教皇が主権者として支配する本格的な領土――いわゆる「教皇領」が誕生した。

わかりやすく言えば、教皇が「自分の家」を初めて手に入れた瞬間である。

フランク王国とローマ教会の関係は、これで完全に「ズブズブの仲」になった。

「あんたのためなら命懸けで戦いますわ!」という関係がお互いに完成したわけである。

【速報】フランク王国、ランゴバルト王国を破る!

ランゴバルト王国とキリスト教

さて、話はランゴバルト王国に戻る。

この時代、キリスト教を導き総括するローマ教皇は武力を持たなかったので、ビザンツ帝国(=東ローマ帝国の後身)を保護者として頼っていた。

しかし、後にランゴバルト王国はイタリア半島の東ゴート王国を滅ぼし、イタリア半島に駐留していたビザンツ帝国軍を撤退させたのである。

滅ぼされた東ゴート王国はキリスト教をリスペクトしていたが、ランゴバルト王国は「教皇の権威?なにそれ、おいしいの?」という態度でローマ教皇など全く問題にしていなかった。

【速報】フランク王国、ランゴバルト王国を破る!

これでローマ教皇は完全に「後ろ盾なし」の裸同然の状態になってしまった。

POINT

これまでローマ教皇は「ビザンツ帝国」という強力な保護者に守られてきた。
しかし東ゴート王国が滅び、ランゴバルト王国が台頭しビザンツ帝国軍をイタリアから撤退させたことで、教皇の命運は「今すぐ助けを求めないとヤバい!」というレベルに追い込まれたのである。

そこで白羽の矢が立ったのが、かつてトゥール・ポワティエでイスラム勢力をぶっ飛ばした英雄、カール・マルテル(ピピン3世のお父さん)の息子、つまりフランク王国だった。

「もうビザンツ帝国には頼れん!こっから先はフランク王国に命運を託すしかない!」――ローマ教皇の決断は早かった。

【速報】フランク王国、ランゴバルト王国を破る!

その熱烈オファーに応えたピピン3世が、ランゴバルト王国と戦うことを決意した背景には、「ローマ教皇のお願いだから」という超強力なバックアップがあったわけだ。

これにより、フランク王国は単なるゲルマン国家から「キリスト教世界の守護者」へと昇格し、やがてはカール大帝による「西ローマ帝国の復活」へと繋がっていくのだ。

ピピンがカロリング朝を建国(751年-987年)

話は少し戻るが、フランク王国最初の王朝であるメロヴィング朝は、クロヴィス一世によって始まった。

しかしその王朝も、時の流れと共に「名前だけ王様」状態に陥ってしまう。

真の実権を握るようになったのが、王の「補佐役」である宮宰(きゅうさい)だった。

そしてこの宮宰からとんでもないスターが現れる。

そう、さっき説明したあのイスラム勢力にカウンターキックをぶちかました男カール=マルテルである。

彼がトゥール=ポワティエ間の戦い(732年)で「キリスト教世界の救世主」として名を馳せたことで、彼の家系(=カロリング家)も一気にVIP待遇となった。

この流れをがっちり受け継いだのが、カール=マルテルの息子ピピン3世である。

ピピンは頭が良かった。

いや、狡猾だったと言うべきかもしれない。

彼はまず「メロヴィング家の王様って、もう機能してないよね?」とばかりに、当時の王様を修道院に幽閉し、事実上クビを宣告した。

いわゆる「名誉職に飛ばした」形である。

しかし、いくら実権を握ったとはいえ、「正式な王様」の称号がないと世間は認めてくれない。

そこでピピンは、ローマ教皇にアプローチする。

ピピン「教皇様、私がフランク王国の国王になってもよろしいでしょうか?」

この時ローマ教皇も「おお、今度ランゴバルト王国と戦ってくれるなら、是非!」と即OK。

こうして751年、ピピン3世は晴れてフランク王国の正統な国王に即位し、新たな王朝「カロリング朝」をスタートさせたのである。

名前の由来はシンプル。

「カール=マルテル家がカロリング家だからカロリング朝」というわけだ。

「カール朝」でも良さそうだが、ラテン語で響きがカッコよくなるのでカロリングにしたのだろう。たぶん。

さて、初代クロヴィス一世から始まる『メロヴィング朝』が滅んだ原因についてだが、大きく以下の2つにまとめられる。

  1. 好色で残忍
  2. 分割相続制

➀好色で残忍

まず一つ目。

メロヴィング家の王たちは、とにかく「女好き」で「残忍」な人物が多かった。

正妻がいるにも関わらず、愛人を後宮にずらりと並べ、「今日の晩餐はどの娘にしようかの~」とウキウキで選んでいたというのだから呆れる。

しかも気に入らなければすぐ離婚、または別の女性と再婚。恋のもつれから愛人に唆されて正妻を毒殺、なんてことも日常茶飯事であったらしい。

まるで昼ドラと時代劇を足して2で割ったような宮廷生活。

支配地域の民衆たちは「この王様あかんわ…」と心の中でため息をついていたに違いない。

これでは人望など集まるはずもなく、「とりあえず王様だけど、実際に頼れるのは宮宰(きゅうさい)さんだよね」という空気が国中に漂っていた。

②分割相続制

そして二つ目の原因が、「分割相続制」である。

ゲルマン人の習慣として「親の財産は兄弟で平等に分けるべし」というルールが存在していた。

つまり、王様に息子が三人いれば、領地も三等分である。

この「平等」は聞こえこそ良いが、政治の世界では致命的だ。

領地を分割して相続したその三人は、もっと領地が欲しくなった時に自分の兄弟の領地に攻め込むようになるからだ。

長男「なんか勢いでOKしたけど、おれの土地って森ばっかじゃん。」

次男「おれの土地が一番いいかも。これって逆にヤバい?」

三男「お前の領地の方が美味しそうだから、今度攻め込むわ」

という具合に、家族間バトルロイヤルが繰り返され、国のまとまりはどんどん失われていった。

これでは王朝が長続きしないのも当然である。

ゲルマン人国家が短命に終わる最大の原因は、この「分割相続制」にあったとも言われている。

カール大帝が西ヨーロッパを統一(800年)


カール大帝

さて、ここから西ヨーロッパを統一したピピンの子カール大帝のお話に入るが、その前に今までの話を軽くおさらいしておこう。

  1. 【375年】 フン族に追われてゲルマン民族がローマ帝国内への大移動を始める
  2. 【395年】 ローマ帝国が東西に分かれる
  3. 【476年】 1000年続いた東ローマ帝国と違い、西ローマ帝国はゲルマン人大移動によって混乱状態になり滅亡。ゲルマン人が多くの国家を建国する(主に七つ)
  4. 【481年】 クロヴィス一世がフランク族の王国「フランク王国」メロヴィング朝を建国し、それからフランク王国は「改宗」と「宗教保護」によってローマ教会と親密になる
  5. 【732年】トゥール・ポワティエ間の戦いで活躍した王の補佐役「宮宰(きゅうさい)」のカール=マルテルが名声を得る
  6. 【751年】 宮宰カール=マルテルの子ピピンがメロヴィング朝を倒しカロリング朝を建国
  7. 【756年】 ピピンがイタリアのラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進する(=ピピンの寄進)

父ピピンがメロヴィング朝をぶっ壊し、「カロリング朝」を立ち上げたのが751年。

その息子であるカール大帝は、父の遺志を受け継ぎ、いやそれどころか「オレはヨーロッパ全土をひとまとめにしてやる!」と燃えに燃えていた。

フランク王国の四方八方には敵だらけだったが、そんなことはカール大帝にとっては朝飯前。

どこから現れようが、全ての敵をバッタバッタとなぎ倒し、西暦800年、ついにフランク王国が西ヨーロッパを制覇!である。

フランク王国 ヨーロッパ

その領土は、もはや「え、これ東ローマ帝国とほぼ一緒やん?」というレベル。

カール大帝は思った。

「ここまでデカくしたら、さすがに“ローマ皇帝”名乗ってもバレへんやろ?」

しかし、歴史というものはそう甘くない。

一方でローマ教皇レオ三世も思っていた。

「最近イタリア半島治安悪すぎるし、イケイケのカール大帝に守ってもらえたら超ありがたいんやけどな…」と。

この両者の利害が一致する瞬間が来た。

ローマ帝国皇帝の戴冠(800年)

西ヨーロッパの主要部分を統一したカール大帝は(東ローマ帝国との不和を恐れながらも)広大な領土を統治するためにローマ皇帝の権威が必要だった。

同時にローマ教皇もキリスト教の守護者としてカール大帝の力が必要だった。

ローマ教皇(=キリスト教のトップ)
→自分たちを守ってくれる武力が必要

カール大帝(フランク王国のトップ)
→ 自分たちの地位を確立するための権威が必要

まさにウィンウィンの関係♪

そこで当時のローマ教皇レオ三世はカール大帝にローマ皇帝の冠を授与した。

これにより、形式上ではあるが西ローマ帝国が復活した。
※西ヨーロッパを統一したカール大帝が、かつての西ローマ帝国の皇帝として復活したイメージ

カール大帝は国内のインフラ整備や貨幣制度の見直しなど、様々な優れた政策で国を治め、特に文教政策(文化や教育)に力を入れ、聖職者の一般的教養を高めたりもした。

これをカロリング=ルネッサンスと呼びぶ。

カール大帝は「古典文化/キリスト教/ゲルマン」という三要素が融合した新しい西ヨーロッパ世界を誕生させたのである。

カール大帝の戴冠から12年後の812年、それまで関係が悪化していた東ローマ帝国側も(いやいやながらも)カール大帝の西ローマ帝国皇帝を承認しました。

カール大帝「あーキリスト教の我が国を一つにまとめるには、武力だけじゃなくてさー、ローマ教皇からのお墨付きがどうしても欲しいなー」

レオ三世(教皇)「うーんカール大帝スゴイ勢いやなー、彼の西ローマ帝国皇帝を認める代わりに今後何か起きたら助けてもらおう」

東ローマ帝国「ローマ教皇もカール大帝も気に入らんけど、もうここまで大きな話になっては認めざるを得ない・・・」

フランク王国の分裂

西ローマ帝国再来か!?と思わせたカール大帝のフランク王国。

しかし結論から言おう。

またしても”分裂”である。

原因はもちろん、みんな大好き「分割相続制」である。

全く懲りない民族である。

ヴェルダン条約(843年)

カール大帝の子ルートヴィッヒ一世の死後、待ってましたとばかりに3兄弟が動き出す。

分割相続を主張した3人の息子、

  1. ロタール1世(長男、俺が一番偉いと思っている)
  2. ルートヴィヒ2世(弟、俺も偉くなりたい)
  3. シャルル2世(末っ子、欲しいものは全部欲しい)

この三人が843年に結んだのがヴェルダン条約である。

「三等分して兄弟仲良くやろうぜ」条約とも言う。

結果、統一されていたフランク王国はこうなった。

それが、

  • 西フランク王国(後のフランス)
  • 中部フランク王国(ロタール1世の自己満ゾーン)
  • 東フランク王国(後のドイツ)

筆者としては「またかよ!」である。

せっかく統一したのに、すぐ兄弟ゲンカで台無しである。

これ以降、フランク王国が再び統合されることは二度となかった。

長男のロタール1世が中部フランクと皇帝位をゲットしたのだが、守ってもらう立場のローマ教皇は心の中でこう呟いていたに違いない。

「いや、皇帝位って長男ルールじゃなくて、実力あるやつに渡した方が良くね?」

と。

結局、皇帝位を引き継いだのが東フランクのオットー一世だった。
この話はまた別記事で解説する。

その後三兄弟は力を合わせてヨーロッパを繁栄させていきましたとさ、などという美談は残念ながら存在しない。

むしろ人間の欲望に忠実である。

案の定、これからこの3兄弟は争いを始める。

※最終的にローマ教皇からローマ皇帝位を授けられたのが、マジャール人撃退に成功した東フランク王国のオットー(962年)だった。

ノルマン人(ヴァイキング)の侵入

ヴァイキング

フランク王国が分裂したことで、北欧の民であるノルマン人(いわゆるヴァイキング)がどんどんヨーロッパ大陸に攻め込んでくるようになった。

海岸を荒らし回ったり、底の平らな船で川を遡り内陸深く進入して略奪を重ねたり、特に西フランクでは大いに恐れられた存在だった。

ちなみにロタール1世は弟と戦うのに忙しすぎて、ノルマン人の移住をOKしちゃうという荒技に出た。

彼らを傭兵代わりに使おうとしたのだが、結果としてノルマン人は「じゃあ俺たち、この大陸に住みまーす♪」と定住を始めてしまう。

※ヴァイキングは現在のロシア地域や北フランス、イギリス、南イタリア地方にまで侵出し国家を建設していく。

メルセン条約(870年)

その後も三者(3兄弟)の争いは続き、中部フランクのロタール一世(長男)が先に死亡した。

残った弟たちはこう言った。

兄貴死んだな。

あいつの領地さ、喧嘩ならん程度に俺ら二人で分割するって、どうよ?笑

結果、中部フランクは見事に切り刻まれて、現在のフランス・イタリア・ドイツの原型となる。

フランク王国 西ヨーロッパ 原点

これがメルセン条約(870年)である。

フランク王国 西ヨーロッパ 原点

中部フランクの長男が先に亡くなったことで、現在のイタリアの領地が削られてしまったのである。

筆者「ロタール1世がもう少し長生きしていれば、イタリアの地図は今よりちょっと大きかったかもしれない…」

こうして、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によってフランク王国は3つの国に分かれ、それが現在のヨーロッパの地図の原点になったとさ。

ここまでのまとめ

ではここまでのまとめを軽く図で示す。

おわりに

という事で、現在のフランス/イタリア/ドイツの基になったフランク王国、そして分裂後の西フランク/中部フランク/東フランクの何となくの歴史を書いてきた。

その後、

  • 西フランクはカペー朝が興り、
  • 中部フランクは群雄割拠のカオス状態、
  • 東フランクは「神聖ローマ帝国」という壮大な名前のくせに実態はグダグダな国が誕生する。

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オーストリア ハプスブルク家

カール大帝の血筋、カロリング家も頑張ったが、

  1. 875年 中部フランクで断絶
  2. 911年 東フランクで断絶
  3. 987年 西フランクで断絶

と順番に途絶えていき、ついにカロリング朝は終了した。

「分けたら滅ぶ」という見事な教訓を残して。

そしてヨーロッパは“封建社会”という名の「ご近所権力争い時代」へと突入するのだ。

以上。


ちなみにヨーロッパ旅行に行くなら、西洋建築の基礎知識を入れておくと、楽しさが100倍増しである。

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