鄧小平の改革開放政策(1977年)
毛沢東の死後、文化大革命は終結し虎の威を借る狐として紅衛兵(こうえいへい)たちを指導していた江青(こうせい=毛沢東の最後の夫人)ら、いわゆる「四人組」は逮捕され裁判にかけられ有罪判決を受けました。
紅衛兵を指導していた四人組(左上のおばはんが毛沢東の最後の夫人=江青)
その後、鄧小平の政策によって「毛沢東にボロボロにされた中国」は劇的に経済回復をしていきました。
鄧小平の改革開放政策については以下で超簡単にまとめてあります↓
RYOです。ここでは1980年代に中国の鄧小平が行った改革開放政策、いわゆる「人民公社」と「経済特区設置」について軽く触れようと思います。(↑鄧小平)人民公社解体毛沢東はソ連の五ヵ年計画をそのまま真似[…]
つまり鄧小平は、
- 人民公社解体により農業生産高をアップさせ、
- 経済特区設置により中国経済の立て直しを成功させた
のです。
この鄧小平の改革開放政策を共に支えたのが、後に出てくる㋐胡耀邦と㋑趙紫陽でした。
先富論(せんぷろん)
鄧小平は、
「豊かになれる条件を持った地域、人々から先に豊かになろう」
という「先富論」を方針として格差を公認しました。つまり、
みんなが同時に幸せになるのは不可能だ!
まずは豊かになれる者から豊かになって、国全体が豊かになった後に徐々にそこに生まれた格差を埋めればいい
と考えたわけです。
スゴイ現実的な考えをもった人ですね~
一人っ子政策(1979年)
そして1979年に一人っ子政策を始めました。
説明する必要も無いと思いますが、一人っ子政策とは、
です。
一人っ子政策は2015年に廃止され、現在では第二子出産までは認められています。
2015年!!!!!
そんな最近までやってたんか。
しかし一人っ子政策には様々な問題点がありました。
気になる方はサッサーと読める量なので以下を参考にしてください↓
RYOです今回は中国の一人っ子政策の概要と本政策が招いたいくつかの問題点をご説明しようと思います。一人っ子政策って昔の中国の話でしょ(笑)って思った人挙手!はーい(←筆者いえいえ、一人っ子政策が終わったのは2[…]
胡耀邦が総書記に(1982年)
(出典:日本経済新聞)
1982年、中国共産党は指導者の呼び名を「主席」から「総書記」に変更し、鄧小平の忠実な部下「胡耀邦(こようほう)」が総書記になりました。
胡耀邦(こよーほー)は、鄧小平政権のもとで➀人民公社解体や②経済特区の設置などの改革開放政策に重要な役割を果たした人物です。
この時代、鄧小平&胡耀邦&趙紫陽の三人が主に国を操っており、過去の功績から学生や市民は中国がこれから民主化されることをとても期待していました。
鄧小平はずっと表舞台には出ずに、裏から中国を操っていたらしいです。
なので自ら総書記や国家主席にはなりませんでした(しかし実質は中国のトップ)
(名目上)中国トップの胡耀邦は、当時学生たちの間で広がりつつあった民主化の動きをある程度容認していました。
(まあ確かに彼らの言うことにも一理はあるな~)
別に民主化運動を弾圧する必要はないかな
民主化の動きとは一言で言うと「色々な不満に対して文句が言えるようになった」とお考え下さい↓
学生A「もっと大学をきれいにしろー」
学生B「食堂の飯をもっとうまくしろー」
学生C「もっとグランドを広くしろー」
などの比較的小規模な不満のことです。
しかし鄧小平はある考えを持っていました↓
小規模な不満はやがて大規模な不満になり、政権や国自体を破滅させかねない。
火は小さいうちに消しておくべきだ ‼
と。
この学生食堂の不満くらいで止まっていればいいのですが、文句を言うことに慣れてくるとやがて、
社会人A「もっと税金を安くしろー」
社会人B「共産主義をやめろー」
社会人C「自由に商売させろー」
と、徐々に要求がエスカレートするのを知っていたんですね。
胡耀邦が失脚し、趙紫陽が総書記に(1987年)
(出典:朝日新聞デジタル)
という理由で1987年、胡耀邦が総書記の座を追われました。
そして同年、次に総書記になったのが趙紫陽(ちょーしよー)です。
趙紫陽、君には期待しているよ。
私を失望させないでくれたまえよ?
しかしこの頃すでに、民主化の動きは大きくなっており学生食堂などの小規模な不満から一転↓
知識人A「共産党の一党独裁なんて嫌だーー」
知識人B「毛沢東のやった事を隠さずに全て教えろー」
知識人C「身に覚えのない罪で一般人を処刑するなーー」
など、政権運営自体の不満なども叫ばれるようになってきました。
しかし、趙紫陽もやっちゃって後に辞任に追い込まれます。
ダダーーーン
陰の支配者、鄧小平コワ過ぎ・・・。