ベルリンの壁
さて、ここまでの流れはだいたいわかりましたか?
ではこのベルリンの壁の構造や脱出者しようとした人たちの話に移ります。
壁の概要
ではどのように進化していったのでしょうか。
ザザっと解説致します(`・ω・´)b
有刺鉄線とブロック
まずは簡易な壁を作って東ドイツ市民を囲い込みました。
(出典:Six things you need to know about the Berlin wall)
それが有刺鉄線とブロックです↓
(出典:Cold War Website)
命懸けではありますが、まだ逃亡する人は数多くいました。
前者+監視塔と地雷とコンクリート壁
次にその有刺鉄線とブロック塀に監視塔と地雷とコンクリート壁が追加されました。
高さ3mあまりのコンクリート製の壁が出来上がりましたが、まだちょこちょこ逃亡者がいたのでさらに強固な壁を作ることにしました。
前者+電流フェンスと堡塁と番犬
そしてこれが最終形です↓
壁の向こうには砂の地雷原があり、監視塔で24時間逃亡者を確認し番犬が放されもう一度壁を作りました。
さすがにこれで、壁を超えようとする東ドイツ市民もほぼいなくなりました。
様々な逃亡方法
そして逃亡方法も多岐にわたりました。
脱出を試みて東ドイツ警察に射殺されたのは約200人と言われています。
チェックポイントチャーリー
有名なのがこの「チェックポイントチャーリー」です↓
(出典:JapaneseClass.jp)
認められた車両のみが「チェックポイントチャーリー」を通過し西ドイツに行けるのですが、その際に車両の下にしがみついたり車に人が隠れられる空間を作ってそこに忍び込んだりして逃亡を成功させていました。
しかし徐々にチェックポイントチャーリーも規制が厳しくなり上手くいかなくなりました。
強行突破
はい、正面突破です。
最も多い方法でした。
壁を超えたり検問所を強行突破したり・・・
これはほとんど成功しませんでした。
その他
チェックポイントチャーリーと正面突破以外にも
- ヘリを自作
- 気球を自作
- スーツケースの中に入る
- 車で検問所を突破
などによる脱出も試みられたと言われています。
全て命懸けで、中には自分の子供だけを壁の向こうに投げて向こうの人に拾ってもらっていた例もあったそうです。
※最終形ではこの方法は無理ですが。
ベルリンの壁崩壊
ではベルリンの壁崩壊の様子を見ていきましょう。
ゴルバチョフがソ連の指導者になる
(出典:アメブロ)
東ドイツ政府がソ連の犬であることは述べました。
ソ連の歴代指導者はみんな社会主義体制を愛していて、ソ連領内や占領している東欧各国に民主化の動き(「プラハの春」や「ハンガリー動乱」)があると激しく弾圧してきました。
ゴルバチョフはペレストロイカ(改革)と呼ばれる政策を行い、間違っている事は間違っていると認め、ソ連を改革しようとしました。
東欧各国に民主化の動き
早い話、ゴルバチョフはソ連改革に忙しかったので東欧各国には「自由にしていいよ」というスタンスで民主化の動きなども特に弾圧しませんでした。
別にいいよ、私はソ連改革に忙しいからそれはそっちに任せるわ!
これにより、東欧各国が急速に民主化の動きになり、ソ連からの自立を果たすようになります。
ハンガリーが国境を開放する
そして遂に東側諸国の一国であるハンガリーが国境を開放しました(下で地図を用いて説明しています)
ハンガリーは1956年に民主化運動を起こしたこと(=ハンガリー動乱)によって指導者ナジ・イムレが処刑されて、ソ連に完全に武力で制圧されました。
しかし1989年1月にカーダール書記長の長期政権が終わり、政権が変わると一気に民主化が始まりました。
ハンガリーは既にこの時には民主化されており、
「国境が開放されていないなんて恥だ」
という思いと共に、国境を開放しても逃げる国民がいないので(超皮肉ww)堂々と鉄条網を撤去してオーストリア(西側)との国境を開放しました↓
つまり、東ドイツ市民が西ドイツに行くには、ハンガリー(東側)からオーストリア(西側)に入って西ドイツまで北上すれば良いのです!!!
これが「ベルリンの壁崩壊」の大きな一因になりました。
東ドイツ政府「ば、ばか!国境を開放したら自国民がみんな西側諸国に逃げてしまっ…」
ハンガリー政府「(それお前んとこだけなww)ん、何か言った?笑」
ソ連領内なら簡単に他国へ旅行できる
ソ連同盟国内なら簡単な手続きで出国ビザをもらえるので、
地図中矢印のように、
東ドイツ(東側)
→チェコスロバキア(東側)
→ハンガリー(東側)
→オーストリア(西側)
→西ドイツ(西側)
の順で西ドイツへ逃げることが可能になり、押し寄せた東ドイツ市民は20万人にものぼると言われています。
東ドイツが出国を規制
東ドイツ政府が、
おい東ドイツ市民!
おめーらがハンガリーからオーストリアに行ってるのはわかってんだよ!
お前らは今後東ドイツから出れねーかんな。
逆らったら反逆罪だ!!
と、出国規制をしたことに東ドイツ市民がとうとう我慢の限界とぶち切れ。
東ドイツ市民「ふっっっっざけんじゃねーーー!!!!もう我慢できねえぇぇぇぇ」
と東ドイツ各地で東ドイツ史上最大の暴動が起き、反政府デモが頻発しました。
ちょっと前ならあり得ない話ですよね。
デモした瞬間に国家反逆罪とかで逮捕されるか処刑されちゃいますから。
さすがに東ドイツ政府も「ぐ、ぐむう」状態です。
ベルリンの壁崩壊
(出典:ハフポスト)
ということで、東ドイツ政府は西ドイツへの移動を許可せざるを得なくなり1989年11月9日、ベルリンの国境付近に膨大な数の東西ドイツ市民が殺到し、
遂にベルリンの壁が開放されました。
その後、豊かな西ドイツへ貧しい東ドイツ市民が大量に流入し西ドイツにとっては経済的に大きな負担となりましたが、1990年10月3日に東西ドイツが統一され、第二次世界大戦後のドイツ国家分断が終わりました。
ドイツ連邦共和国大使館のHPに「ドイツ統一までの道のり」という記事があったので最後にこれを紹介します↓
(ちょっと難しいですが)
ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日から再統一に至った1990年10月3日までの出来事を振り返ります。…
ベルリンの壁崩壊後、東西ドイツ間の交流が戻りいかに東西ドイツで経済格差があったのかが明らかになったとさ。
つまり資本主義と社会主義のどちらが優れていたのか、壮大な社会実験が繰り広げられてきたというわけなんです。
おしまい。
さいごに
という事で、ベルリンの壁建設から崩壊までの流れをご紹介しました。
ベルリンの壁崩壊が1989年11月9日という事はまだ30年前の話なんですね。
いま日本にいるおじさん達はみんなリアルタイムで経験してきた事なんだと思うと「歴史」というよりは「思い出」なんですね
筆者もハンガリー人の友人がいるので、鉄のカーテンを破った歴史的な国民だと内心思いながら接しようと思います(笑)
ベルリンの壁を題材にした本や映画は多数あるのでまた観てみてください!
ついでにソ連の歴史もおもしろいので是非ご覧ください↓
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