➀古代メソポタミア建築
では実際に西洋建築のお話に入っていきましょう。
そもそも西洋建築の起源を辿っていくと、古代メソポタミア建築に帰結します。
え…
古代メソポタミア?
古代メソポタミア建築とは、まあ早い話四大文明の一つメソポタミア文明地域で生まれた建築のことです。
この地には紀元前6,000年頃の住宅遺構が残っており、人類で最初に農耕を行った土地でもあります。
ですので「おいみんな、神を祀る神殿ってどんな形にすればいいの?」という段階のお話です(笑)
なんせ神殿建築のお手本がないので、自分たちで一から創造し、進化に進化を重ねて紀元前2,100年頃に(約4,000年かけて)やっとこさ完成したのがウルにあるジッグラトです↓
※メソポタミア地域にあるジッグラト(聖塔)のイメージ
なんとこのジッグラトには「バットレス(控え壁)」という技術が用いられているのです↓
※バットレスがいかにスゴイか
これは現在の街中でもあちこちで目にするほどスゴイ技術なんですよ~!!
古代メソポタミア建築の更に詳しい情報はこちら↓
ヨーロッパを旅する前に知っておくべき西洋建築の知識として、今回は古代メソポタミア建築について説明します。[show_more more=恒例の挨拶(クリックで開きます) less=折りたたむ color=#0066cc li[…]
②古代エジプト建築
これまた四大文明の一つエジプト文明の地域で発展した建築様式が古代エジプト建築です。
エジプトの建築と言われれば、まずはピラミッドが頭に浮かびますよね↓
ピラミッドが完成したのは古王朝時代(紀元前2654~前2145年頃の間)と言われていますが、このピラミッドという形式をギリシャ建築が受け継いだわけではありません。
余談ですが皆さんが知ってるあのピラミッドの形状も、3段階に進化してようやくあの形に落ち着いたのです。
しかしこのピラミッドが西洋建築で受け継がれたわけでは無かったのです。
そりゃそうですよね。
ギリシャ建築にピラミッドなんか出現しませんもんね(笑)
時代の流れと共にピラミッド建造は次第に廃れて形を変えていきました。
紀元前1490ー前1468年頃に建設された古代エジプト唯一の女性ファラオのハトシェプスト女王葬祭殿や、紀元前1417ー1237年頃に建設されたルクソール神殿にはギリシャ建築との類似点をかなり見つけることができるのです!!!!
※ギリシャ神殿そっくりのエジプトの神殿群
エジプトの歴史は紀元前5,000年から紀元前30年にローマ帝国の属領にされるまで続くので(約5000年間Σ(゚Д゚))、その間に様々な建築が洗練されていきました。
その後に造られたアモン大神殿やルクソール神殿も同様で、「おーギリシャ建築のお手本になってるなー」と思える構成です。
古代エジプト建築の更に詳しい情報はこちら↓
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③ギリシャ建築
さて、皆さんお待ちかねのギリシャ建築です!!
もうね、ギリシャ建築がどれだけスゴイ技術を用いて造られたか、話し出したらキリが無いのですが(笑)
ギリシャ人はひたすら「美しい神殿作り」を究めました。
ギリシャ建築と言えばやはり、パルテノン神殿ですよね↓
柱の上に横に長い梁(はり)が載っています。
これを柱ー梁構造と呼びます。
この時代の数学者ピタゴラスが「万物の根源は数である」と言ったように、比例的で規則性のある建物が最も美しいと考えられていました。
天才の考えることは一般人の筆者にはわかりかねますが、まあそうなのでしょう(笑)
ピタゴラスが言いたかったことをまとめると、、、
上に示したような外見的に全く美しくない建物(=バランスが悪い建物)は、おそらく数学的にも完全に調和していないってことなんでしょう(・ω・)ノ
見てください、パルテノン神殿の完璧なバランス感を。
めちゃくちゃ美しい…
自慢ですが、筆者は実際にギリシャの首都アテネに旅行しパルテノン神殿の実物をこの目で見たのです( ˘ω˘ )
いや、本当に感動しっぱなしでした。
「数学的な調和が最も重要」ということなので、ギリシャ建築は柱の間隔や高さなど全て恐ろしいほど緻密に計算されて高度な技術で造られています。
ギリシャ建築の更に詳しい情報はこちら↓
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④ローマ建築
美しい神殿造りを究めたギリシャ建築を受け継いだローマ人は、
「ギリシャ人は神殿ばっかやったけど、俺らローマ人は国民が楽しめる公共施設を作ろうぜ」
と、膨大な数の国民をもつローマ帝国は「便利な公共施設」を究めました。
公共施設を整備せずに神殿作りばかりしていると民衆の不満が溜まり反乱が起きるのは目に見えてますからね(・ω・)ノ
ローマ建築の傑作は、イタリアの首都ローマにある「コロッセオ」です↓
コロッセオはおよそ5万人を収容できる公共の円形闘技場で、中では戦士同士が戦ったり、猛獣と戦士が戦ったりしていました。
いわゆる娯楽施設ですね
筆者も大好きです
ギリシャ建築で生み出された技術を使って、闘技場や公衆浴場、劇場などの公共建築を発展させました。
ローマ建築もギリシャ建築をお手本にしたので比例的・規則的な部分は共通していますが、実は柱ー梁構造は石造建築には向かないのです!
自重で崩壊する危険性を潜在的にはらんでいるからです( ˘ω˘ )
ということで、より石造建築に合理的なアーチ構造にシフトしたのもローマ建築の革新でした!
そんなローマ建築の更に詳しい情報はこちら↓
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⑤初期キリスト教建築
さて、ローマ帝国皇帝の都合で突然国教として公認されたキリスト教でしたが、それ以前は激しく迫害されていました。
激しい迫害から一転し「やっぱりキリスト教を国教にするわ、キリスト教サイコー」と言われても、「いつまた迫害される立場になるかわからへんぞ…」と信者は疑心暗鬼になります。
そんな信者たちが「キリスト教の教義や典礼に最も適した建築様式を創り出さねば」と考え、とりあえずローマの各都市に建てられていた長方形(直方体)の集会施設(バシリカ)を教会として代用していきました。
初期キリスト教建築の代表例がサンタ・マリア・マッジョーレ教会堂です↓
※ちなみに装飾された天井を格(ごう)天井と呼ぶ
初期キリスト教建築の更に詳しい情報はこちら↓
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⑥ビザンティン建築
うんうん、泣く気持ちもわかる。
ビザンティン建築は西洋建築の範囲に入れるか悩んだのですが、一応参考書にも載っていたので解説します。
ビザンティン建築とは、東西に分かれたローマ帝国のうち東ローマ帝国(ビザンツ帝国&ビザンティン帝国とも)で発展した建築様式です。
ビザンティン建築以外は全て西ローマ帝国跡地で発展しました。
西ローマ帝国と東ローマ帝国のイメージ図
が、東ローマ帝国で唯一発展したのがビザンティン建築なのです。
ビザンティン建築の代表例はトルコのイスタンブールにあるアヤ・ソフィアです↓
※トルコのアヤ・ソフィア
「トルコはヨーロッパちゃうやん( ゚Д゚)」
はい、トルコはヨーロッパとは言えませんが、ビザンティン建築がもともと東ローマ帝国をルーツにもつことを考慮して、西洋建築(の一部)と表現しています。
初期キリスト教建築を受け継いだ東ローマ帝国のビザンティン建築は、神の座としてのドームの意味を非常に強く捉え、ドームを美しく架けることをひたすら追求しました。
ドームをどう美しく架けるか。
円柱の上にドームは問題なし↓
直方体の上にドームは難しい↓
苦心の末に生み出されたのがペンデンティブでした↓
とりあえずドームのお話ばっかりです(笑)
ビザンティン建築の更に詳しい情報はこちら↓
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ゲルマン人大移動とローマ帝国分裂
ここで一瞬だけローマ帝国滅亡とその後に関する歴史の話をしなければなりません。
一見、西洋建築とは関係のない歴史の話にみえますが、関係大ありです。
逆にこの歴史的な流れを説明せずに次のロマネスク建築の話に持っていくのは不可能です。
なので少しだけ頑張りましょう!
ここでは難しい話は抜きにして、超簡単な流れだけを説明します。
4世紀終わり、当時のヨーロッパを支配していたのは泣く子も黙る超巨大最強帝国「ローマ帝国」でした。
余談ですが西暦132年にユダヤ人をパレスチナの地から永久追放したのもローマ帝国で、それが原因でユダヤ人は世界中で1800年もの間迫害され続け、現在のイスラエルVSアラブ人国家の対立にもなっているのです。
そんなローマ帝国最強時代でしたが、北方の匈奴(きょうど)という民族に追われたゲルマン人たちは続々とそのローマ帝国内に逃げ込んできたのです↓
匈奴に押し込まれてしゃーなしローマ帝国に逃げ込むしか道が無かったのです。
ゲルマン人「匈奴(゚Д゚;)あいつらほんまヤバすぎwwローマ帝国に逃げ込めぇぇぇ」
これをゲルマン人大移動と呼びます。
ゲルマン人大移動の詳しい解説はこちらの記事で↓
RYOです今回はフランク王国建国と分裂までを説明します。フランク王国と言えば、ずばり西ヨーロッパの原点です!※フランク王国の勉強をしてからヨーロッパに行けば無学で行くより10倍楽しめます。5回にわたってヨーロ[…]
このゲルマン人大移動によってローマ帝国は大パニックになります、なぜならゲルマン人とローマ人は全く違う民族だからです。
このゲルマン人大移動により、ローマ帝国は東西に分かれ、特にゲルマン人が多く流入した西ローマ帝国はそのまま滅びました。
イメージ的には、現在の日本に意味不明の言語を話す難民が2億人逃げ込んできて、特に関西地方に大挙したので関西はそのままその民族に乗っ取られた的な感じです。
関東はまだ日本人が多く残っていたので、東日本として継続するような感じです。
ゲルマン人大移動とローマ帝国分裂の更に詳しい情報は、ロマネスク建築編で紹介しています。
⑦ロマネスク建築
ローマ帝国はゲルマン人大移動により混乱し東西に分裂、西ローマ帝国はそのまま滅亡しました。
西ローマ帝国跡地を牛耳ったゲルマン人は、そのままローマ帝国内に残されていたローマ建築の技術を棚ぼた的にパクってもっと国を発展させようと思いました。
しかしゲルマン人たちは、
棚ぼた〜♪棚ぼ…
え、ちょ待って。
ローマ建築の技術高過ぎワロタ。
俺らには1000%無理
と、ローマ建築を参考にしながらも(参考にするのが精一杯)600年かけて我流で完成させたのが「ロマネスク建築」です。
ロマネスク建築の傑作は、イタリアのピサにある「ピサ大聖堂」です↓
ロマネスク建築ではまだ技術が未熟だったので、強度の問題で壁を分厚くした分、高く造ることも、壁に大きな窓を開けることもできませんでした。
つまり、重厚な外観にせざるを得なかったのです。
これらの課題を克服して更に進化したのがゴシック建築です。
ロマネスク建築の更に詳しい情報はこちら↓
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⑧ゴシック建築
ゲルマン人は、
先輩らが完成させたロマネスク建築
その課題を克服して俺らはもう一つ上のレベルを目指そうぜ
と、ロマネスク建築の技術をもっと大幅に進化させて遂に「ゴシック建築」を完成させました。
ゴシック建築の傑作は、ドイツのケルンにある「ケルン大聖堂」です↓
(手前の橋の方が存在感ありますが、注目して欲しいのは後ろの大きな双塔です)
ゴシック建築は、ロマネスク建築には無い画期的な技術を駆使して建てられたので、ロマネスク建築よりも高く、壁に大きな窓を開けることができました。
重厚なロマネスク建築と違い、見た目をいかに軽くするかを究めたのです。
しかしその分、外部はゴリゴリにサイボーグされているのです↓
でもそれでいいんです、内部を軽やかにするのが最大の目的でしたから。
ゴシック建築の更に詳しい情報はこちら↓
ヨーロッパを旅する前に知っておくべき西洋建築の知識として、今回はゴシック建築について説明します。[show_more more=恒例の挨拶(クリックで開きます) less=折りたたむ color=#0066cc list=»[…]